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【第2部】15話 エピローグ もう一人の息子

スイス、アルプス山脈の地下深く。

 雪に閉ざされた山の内部には、地上の世界から完全に隔離された巨大な研究セクターが存在していた。

 そこには風の音も、雪崩の轟音も届かない。機械の駆動音さえほとんど聞こえず、耳が痛くなるほどの静寂だけが支配していた。

 完全に管理された空間だった。

 壁も床も天井も徹底した無菌処理が施され、空気中の微粒子濃度をはじめ、温度、湿度、酸素濃度、気圧に至るまで、あらゆる環境条件が小数点以下の精度で制御されている。

 その長い廊下の奥に、一つの巨大な培養室があった。

 室内中央には、高さ十メートル、直径三メートルを超える巨大なガラスシリンダーが立っている。内部を満たしているのは、青緑色に澄んだ特殊な液体だった。

 人工羊水。

 ただし、通常の胎児環境を模倣するためのものではない。

 細胞の老化を極限まで抑えながら、代謝に必要な栄養素や酸素を皮膚から直接供給するために設計された、特殊な生命維持液だった。

 青緑色の液体の中には無数の極細チューブが伸び、その先端が、中央で眠る少年の身体へ接続されている。

 首。

 胸部。

 腹部。

 腕と脚。

 そして頭部。

 全身には小型のバイオセンサーが貼り付けられ、心拍、血圧、脳波、酸素消費量、細胞代謝、遺伝子発現、ミトコンドリア活性など、ありとあらゆる生体情報がリアルタイムで監視されていた。

 少年は眠っていた。

 その表情に苦痛はない。

 汗をかくことも、筋肉が痙攣することもなく、当然、血を流してもいない。

 ただ静かに、完璧に整えられた環境の中で生命を維持していた。

     *

「……ボロディンの信号が途絶えました」

 研究室の中央で、巨大なホログラムモニターを見つめていた研究員が報告した。

「最終位置は?」

「バタガイカ地下です。信号消失直前に、異常な熱源と大規模な構造崩壊を確認しています」

「生存の可能性は?」

「……ありません」

 研究員は一瞬だけ言葉を詰まらせた。

「ボロディン隊長以下、極地部隊も全滅したものと推定されます」

 室内に沈黙が落ちた。

 だが、中央に立つ男は眉一つ動かさなかった。

 ジュリアン・ヴァンス。

 アダム・ジェノミクス最高経営責任者。

 彼は部下たちの死ではなく、ホログラム上に表示されているデータを眺めていた。

 バタガイカ。

 地下神殿。

 異常熱源。

 そして、第二の封印解除。

「……ヘルメス」

 ジュリアンが小さく呟いた。

 画面が切り替わり、神代創の生体データが表示される。

 神経伝達速度、シナプス活動、視覚処理、運動反応。そのすべてが、通常の人間に想定されている生理学的限界を遥かに超えていた。

「第一段階――熱産生能力」

 指先の動きに合わせて画面が切り替わる。

「第二段階――神経系の高速化」

 さらに別の表示が浮かび上がった。

 対象、神代創。

 その文字の横には、赤く一つの単語が表示されている。

 ORIGINAL。

 ジュリアンはそれを見て、小さく笑った。

「……面白い」

 研究員が振り返る。

「社長……ボロディンを失ったのですよ?」

「そうだね」

 ジュリアンは淡々と答えた。

「非常に優秀な兵士だった」

 しかし、その声には悲しみも怒りも、悔しささえなかった。

「だが、予測を超える結果が得られた」

 ジュリアンは創のデータを指先で拡大する。

 ホログラムいっぱいに、異常な神経活動を示す波形が並んだ。

「第一の封印だけでは、ここまでの神経系変化は起こらないと思っていた」

「では……」

「彼は、私たちの想定より早く進化している」

 ジュリアンの口元に、薄い笑みが浮かんだ。

「ボロディンの死も無駄ではない」

 研究員が息を呑む。

「……テスト、だったのですか?」

 ジュリアンは答えなかった。

 ただ、ホログラムに映る一人の少年を見つめている。

 泥にまみれ、血を流し、右腕を焼きながら、損傷した神経と限界寸前の肉体を抱えて、それでも第二の能力を発現させた少年。

 創にとって、あれは命を懸けた死闘だった。

 だがジュリアンにとっては、戦争ですらない。

 一つの実験結果にすぎなかった。

「次のフェーズへ移行する」

 ジュリアンが言った。

「フェーズ・スリーを開始しろ」

「……はい」

 研究員が端末を操作する。

 離れた培養室の中で、小さな電子音が響き始めた。

 ピッ。

 ピッ。

 ピッ。

     *

 巨大なガラスシリンダーの内部で、それまで眠っていた少年の脳波に変化が現れた。

 α波、β波、θ波。

 穏やかだった波形が徐々に変化し、一定のリズムを刻み始める。

 電子音も、それに呼応するように続いていた。

 ピッ。

 ピッ。

 ピッ。

 やがて、少年の指がほんのわずかに動いた。

 そして、ゆっくりと目が開く。

 鮮烈な琥珀色の瞳だった。

 モニターを監視していた研究員の一人が息を呑む。

「……覚醒しました」

 少年は青緑色の液体の中から、ゆっくりと周囲を見渡した。

 無数のチューブ。

 自分を囲むガラス。

 身体に貼り付けられたセンサー。

 天井を埋める白い照明。

 何もかも初めて目にするはずだった。

 それでも、その表情に驚きはない。

 苦痛も、混乱も見られなかった。

 ただ、自分を取り巻く世界を静かに観察している。

 その脳波の変化に合わせるように、培養槽のロックが解除された。

 カチ、と最初の安全装置が外れ、その後も次々と解除音が続く。

 少年の身体に接続されていたチューブも、一本、また一本と滑らかに外れていった。

 青緑色の液体が、微かに波打つ。

 やがて最後のチューブが外れた。

 少年は培養槽の中で、ゆっくりと身体を起こした。

 その動きには、創が能力を発現したときのような震えがなかった。

 苦痛もない。

 筋肉が裂けることもなければ、血管が破れることも、呼吸が乱れることもない。

 まるで、自分の身体を動かすという行為そのものが、最初から完璧に設計されていたかのようだった。

 培養槽から排液が始まった。

 青緑色の液体が少しずつ足元へ吸い込まれていく。

 液面が腰を下回り、膝を過ぎ、完全に消えるまで、少年は一度も姿勢を崩さなかった。

 やがてガラス越しに自分の手を見る。

 指を開く。

 閉じる。

 もう一度、握る。

 異常はない。

 すべてが思い通りに動いた。

 研究員が、わずかに震える声で呼びかける。

「……セト」

 少年がゆっくりと顔を上げた。

「はい」

 その声は、驚くほど穏やかだった。

 甘く、柔らかい声音。

 セトは培養槽から一歩、外へ出た。

 濡れた銀色の髪が白い肩へ張り付いている。

 その顔を見た研究員たちは、誰一人口を開かなかった。

 神代創と、ほとんど同じ顔だった。

 そして同時に、父である神代宗助とも驚くほどよく似ている。

 特に、その瞳。

 琥珀色の瞳だけは、創と完全に一致していた。

 セトはガラスに映った自分の顔をしばらく見つめた。

 頬に指を触れ、ゆっくりと輪郭をなぞる。

 そして、ほんの少しだけ笑った。

「……これが」

 鏡のようなガラスに映る自分を見つめる。

「僕」

 研究室の奥にある大型モニターには、バタガイカでの戦闘記録が映し出されていた。

 ボロディン。

 極地部隊。

 そして、神代創。

 セトはしばらく無言のまま、その映像を眺めていた。

 画面の中では、創が血にまみれながら何度も立ち上がっている。倒れては起き上がり、傷つき、身体を壊しながら、それでも自分の中に眠る力を一つずつ引き出していく。

 セトはその姿をじっと見つめていたが、やがて小さく笑った。

「……ずいぶん、泥臭いんだね」

 研究員が答える。

「オリジナルは現在、第三の石板へ向かっているものと思われます」

「そう」

 セトは画面から目を離した。

「ボロディンは?」

「……戦闘中に破壊されました」

「そう」

 セトの口元に、冷たい笑みが浮かぶ。

「旧式のガラクタにしては、よく頑張ったね」

 声音は甘く、どこか柔らかかった。

 まるで子供が、壊れてしまった玩具を褒めているような口調だった。

 だが、その琥珀色の瞳には何の感情も浮かんでいない。

 セトは研究室の壁に掛けられていた黒いコートを手に取り、濡れた身体の上から静かに羽織った。

 白いシャツ。

 黒いコート。

 銀色の髪。

 そして、琥珀色の瞳。

 すべてが不自然なほど整っていた。

 創が泥と血にまみれながら、自分の身体を傷つけて力を引き出してきたのとは対照的だった。

 セトには震えがない。

 痛みに耐える様子もない。

 立ち上がったばかりだというのに、歩き方に迷いすらなかった。

 まるで、そうなることまで最初から決められていたかのようだった。

 セトは窓のない地下施設の奥で、遠くを見るように顔を上げた。

「父上は……」

 その声が、初めてほんのわずかに揺れた。

「本当に、あの子を愛しているのかな」

 誰も答えなかった。

 研究員たちは視線を伏せる。

 セトはゆっくりと自分の胸へ手を当てた。

「それとも……僕のほうを?」

 静寂が落ちた。

 やがてセトは笑った。

 その笑顔には、子供のような無邪気さがあった。

 だが同時に、見ている者の背筋を冷たくさせる何かが混じっていた。

「確かめてみよう」

 そう言って、セトは歩き出した。

     *

 研究室の巨大スクリーンに、次の目的地が映し出される。

 赤い岩壁。

 切り立った峡谷。

 太陽に焼かれた砂岩。

 画面を埋め尽くすのは、白銀のシベリアとは正反対の色だった。

 ヨルダン。

 ペトラ。

 灼熱の大地。

 セトは足を止め、その映像をしばらく見つめた。

「創……」

 初めて、その名前を口にした。

 まだ会ったことはない。

 顔を合わせたこともない。

 それでも、その名を呼んだ瞬間、琥珀色の瞳がわずかに細くなった。

「待っていて」

 セトは微笑む。

「僕が行く」

 優しい声だった。

 だからこそ、その言葉には妙な不気味さがあった。

「父上が本当に愛しているのが――」

 セトはゆっくりと歩き始める。

「出来損ないの君なのか」

 もう一歩。

「それとも――」

 赤い砂漠の映像を見つめる。

 琥珀色の瞳に、スクリーンの赤い光が映り込んだ。

「完璧な僕なのか」

 画面の中では、ペトラの巨大な岩壁が夕日に染まっている。

 その頃、白銀の大地では、創が自分自身の足跡を雪の上へ刻み始めていた。

 父の残した道標を辿りながらも、自分で進むことを選んだ創。

 そして、まだ見ぬ創を追い、赤い砂漠へ向かおうとするセト。

 二人の距離は、まだ遠い。

 だが、それぞれが進む道の先には、いつか必ず交わる場所がある。

 同じ琥珀色の瞳を持つ二人が、決して避けることのできない場所。

 ペトラ。

 灼熱の砂漠の奥で、第三の石板は静かに二人を待っていた。

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