第12話 神経の石板
猛烈な蒸気の向こう側から、何かがこちらを見ている。
創は、そう感じていた。
もちろん、目はまだまともに機能していない。白い蒸気が視界を埋め尽くし、ヘッドライトの光さえ、ぼんやりとした乳白色の塊にしか見えなかった。それでも、そこに「何か」があるという確信だけは、妙にはっきりと残っていた。
「創!」
エマの声がした。
次の瞬間、肩を強く掴まれ、創の身体が雪泥の床へ引き倒される。
「……っ」
冷たい。
だが、その冷たさすら、もうよく分からなかった。
右腕だけではない。全身から急速に熱が抜け落ち、つい先ほどまで灼熱していた身体が、今度は逆に凍りついていくようだった。
「動かないで!」
エマが叫ぶ。
創は返事をしようとしたが、声にならなかった。喉が張りつき、舌は乾ききっている。口の中にはほとんど唾液がなく、呼吸をするたびに喉の奥を紙やすりで削られているような痛みが走った。
「……み……ず……」
ようやく、それだけが漏れた。
「今、飲ませる!」
エマが水筒を取り出そうとしたが、白石がすぐに制した。
「待て! 一気に飲ませるな!」
「でも!」
「今の創に大量の水を入れたら、吐く可能性がある。少量ずつだ!」
エマは唇を噛み、震える手で水筒の蓋を開けた。ほんの一口だけ創の唇へ当てる。
だが、創は飲み込めなかった。
喉の筋肉が、うまく動かない。
「……っ、は……」
水は口の端からこぼれ、雪泥に混じって黒い地面へ吸い込まれていった。
創は自分の手を見る。
指先が動かない。
握ろうとしても握れず、人差し指を一本だけ持ち上げようとしても、何も起きなかった。もう一度命令してみる。それでも動かない。
自分の身体なのに、自分の命令が届かない。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
「……なんで……」
創は呟く。
「なんで、動かない……」
腕を持ち上げようとしても、肘から先は泥の中に沈んだままだった。まるで自分の腕だけが、別人の身体になってしまったような感覚だった。
右腕の筋肉には、熱を生み出すために使い果たしたエネルギーの痕跡が残っている。細胞は大量のATPを消費し、筋線維は限界を超えて収縮を繰り返していた。その反動が、今になって一気に押し寄せているのだ。
身体中が痛かった。
ただ痛いというだけではない。
筋肉の一本一本が内側から裂けているようで、腹筋も背筋も、太腿も肩も、少しでも力を入れれば千切れかけた繊維をさらに引き裂くような激痛が走った。
そして何より、血液が身体の中をまともに流れていないような感覚があった。
「創……」
白石が脈を取る。
その眉間に深い皺が寄った。
「……速い」
「心拍数……?」
エマが聞く。
「速いのに、弱い」
白石は創の手首を握ったまま答えた。
「脱水がひどすぎる。循環血液量が落ちている」
汗すら出ない。
体温を逃がすための水分も、筋肉を動かすための水分も、ほとんど残っていなかった。血液は濃縮され、粘度を増している。心臓は必死に拍動しているのに、押し出すべき血液そのものが少ない。
空っぽのポンプを、無理やり回しているような状態だった。
ドクン。ドクン。ドクン。
心臓だけが、身体から取り残されたように動き続けている。
創は目を閉じた。
視界の端が、少しずつ黒く欠け始める。
まず右上。
次に左。
まるで世界そのものが、円形の黒い穴へ飲み込まれていくようだった。
「……見えない」
「創?」
「目の……端が……」
エマの声が遠い。
顔も、白石の姿も、もう輪郭くらいしか分からなかった。
――死ぬ。
その言葉が、初めて現実味を持った。
丹後でも危険な目には遭った。だが、今は違う。敵に殺されるとか、銃で撃たれるとか、そういう問題ではない。
自分の身体そのものが、生命を維持できなくなっている。
創は右手を見る。
あれほどの熱を放っていた掌が、今は雪泥の中へ沈んでいた。動かず、何も感じない。力も残っていない。
もう一歩も動けない。
指一本すら、持ち上げられない。
その事実が、冷たい恐怖となって胸の奥へ沈んでいった。
* * *
そのときだった。
遠くから、カツン、と金属が石を叩く音がした。
エマが顔を上げ、白石も振り返る。
蒸気の向こう、暗闇の奥から規則正しい駆動音が近づいてきていた。
ウィィィン……。
ギギギギ……。
低いモーター音。
続いて、赤い光がひとつ浮かび上がった。
そして、もうひとつ。
蒸気を切り裂くように、赤いサーチライトがこちらを照らした。
「……来た」
白石が呟いた。
ボロディンだった。
その後ろには、複数の白い影が見える。極地仕様のサイボーグ部隊だ。
先頭を進む巨体が、一歩前へ出る。
ズン。
石床が震えた。
右半身を覆う金属装甲。赤く光る人工眼。油圧シリンダーのように膨らんだ人工筋肉。そして、肩に固定された巨大なガトリング砲。
その銃身が、ゆっくりと回り始める。
カチ。カチカチ。
やがて、ギュイイイイイイイイ――と甲高い駆動音が響き、回転速度が上がっていった。
エマの顔から血の気が引く。
「……まずい」
白石が創の前へ立った。
「エマ、創を連れて下がれ」
「どこへ?」
白石は答えなかった。
下がる場所などない。
背後には崩落した裂け目があり、前方には第二の石板があるはずの広間が続いている。そして正面からは、死そのものが歩いてきていた。
ガトリング砲の回転音が、広間全体を震わせ始める。
あと数秒。
エマは創の身体を抱き起こした。
「創、聞こえる?」
「……エマ……」
「お願い。もう少しだけ」
創の身体は驚くほど軽く感じられた。
いや、軽くなったのではない。エマが支えていなければ、もう自分の力で身体を起こすことさえできないのだ。
「私に、見せて」
エマは創の肩を抱いたまま、反対の手で端末を取り出した。
「何を……?」
「石板」
「……石板?」
「丹後の石板と同じなら――」
エマは広間の奥へ端末を向けた。
蒸気がゆっくりと薄れていく。
その向こうに、巨大な黒い石板が姿を現した。
高さは十メートルを超えている。
丹後で見た第一の石板と同じ、漆黒の石。
だが。
「……違う」
エマが呟いた。
「何が……?」
「形が、違う」
丹後の石板に刻まれていたのは、血管や植物の葉脈を思わせる柔らかな曲線だった。生命が枝分かれしながら広がっていくような形をしていた。
しかし、目の前の石板に刻まれているものはまるで違う。
鋭角と直線。
線は突然九十度近く折れ曲がり、そこからさらに分岐している。細い線と太い線が複雑に交差し、無数の接点を作っていた。
まるで――。
「……神経回路」
エマの声が震えた。
「ニューロン……ネットワークみたい」
石板の表面を走る無数の溝は、一つ一つがどこかで別の線と接続している。さらに、その接点の周囲には小さな円形の窪みが無数に刻まれていた。
シナプス。
そんな言葉が、創の頭に浮かぶ。
その瞬間だった。
キィィィィン……。
「……っ」
創の身体が震えた。
耳から聞こえた音ではない。
頭の中へ直接、細い金属線を差し込まれたような感覚だった。
冷たい。
鋭い。
脳の奥を、誰かの指先が撫でている。
「……何、これ……」
創は眉をしかめる。
エマも顔を歪めていた。
「周波数……」
端末の波形が激しく揺れている。
「石板から、微弱な振動が出てる」
「第一の石板と同じか?」
白石が聞く。
「違う」
エマは即答した。
「全然違う」
彼女の指が端末の画面を走る。
丹後で記録したデータ。
バタガイカの神殿で拾ったデータ。
そして今、この瞬間に第二の石板から検出されているデータ。
三つの波形が画面上へ並んだ。
「第一の石板は……低周波が主体だった」
エマが息を整える。
「もっと母音に近い。声帯を使った発声のような、長く伸びる音」
「じゃあ、これは?」
「違う」
エマの目が見開かれた。
「これは……」
キィン。キィン。キィン。
高く、短く、途切れている。
まるで無数の電気信号が、一瞬だけ点火しては消えていくようだった。
その間には、パチッ、パチッ、と乾いた破裂音まで混じっている。
「高周波……」
エマが呟いた。
「それも、連続じゃない」
波形を拡大する。
一つ。
二つ。
三つ。
一見すれば規則性がないように見える高周波パルス。
しかし、エマの指が途中で止まった。
「……違う」
もう一度、波形を並べ直す。
「規則性がないんじゃない。規則が……細かすぎる」
「どういうことだ?」
白石が尋ねる。
「第一の石板が『音節』なら……」
エマは石板を見上げた。
「これは……『子音』に近い」
「子音?」
「破裂音、摩擦音、短い高周波。音を長く響かせるんじゃない。音を切って、次へ送ってる」
いつの間にか、彼女の顔から恐怖が消えていた。
代わりに、研究者の目が宿っている。
「神経信号みたい」
エマは息を呑んだ。
「入力して……」
石板の一本の溝を指す。
「ここで変換して、次の接点へ送る」
さらに先の溝へ指を移動させる。
「そして、また分岐する」
無数の線。
無数の接点。
無数の信号。
「これ……文字じゃない」
エマが言った。
「言語そのものを、神経回路みたいに記録してる」
その瞬間、石板が微かに光った。
キィィィィン――。
創の頭の奥を、冷たい刺激が走る。
「う……っ!」
創が呻いた。
視界を覆っていた黒い領域が一気に広がる。
「創!」
エマが咄嗟に抱き締めた。
その胸へ創の頬が触れる。
温かかった。
自分の身体とは違う、確かな体温。
そして――。
ドクン。
ドクン。
エマの心臓の音だけが、創の耳にはっきり届いた。
「大丈夫」
エマの声。
「聞こえる?」
「……うん」
「私の声だけ聞いて」
エマは創の頭を抱えた。
「機械の音じゃない。銃の音でもない。私の声」
背後では、ガトリング砲がギュイイイイイ――と回転している。
その機械音に重なるように、エマの心臓が鼓動していた。
ドクン。
ドクン。
「私の鼓動を聞いて」
「……エマ……」
「そう。ここにいる」
彼女の手が、創の頬を包む。
「あなたは一人じゃない」
その言葉が、途切れかけていた創の意識をかろうじて繋ぎ止めた。
エマは再び端末へ目を落とす。
高周波。
破裂音。
そして、その間隔。
「……待って」
エマの表情が変わった。
「これ……」
第一の石板のデータを呼び出す。
低周波。
母音。
長く伸びる振動。
そして第二の石板には、短い高周波と破裂音、それに複雑な分岐構造がある。
「第一の石板は……」
エマが呟く。
「『呼びかけ』」
続いて第二の石板を指した。
「こっちは……『返答』なのかもしれない」
「返……答?」
白石が聞き返した。
「うん」
エマは石板を見つめる。
「丹後の石板が、生命に対して何かを『呼びかけた』。そして……」
キィン。キィン。キィン。
高周波パルスが走る。
「この石板は、その呼びかけを受け取ったものに対して――返す」
その瞬間だった。
第二の石板の最上部から一本の光が走り、鋭角に折れ曲がる溝を一つずつ辿っていった。
まるで神経細胞を電気信号が走るように。
一本。
また一本。
さらに一本。
光は無数に分岐しながら、石板全体へ広がっていく。
そして、そのうちの一本が創の右手へ向かって伸びた。
「創!」
エマが叫ぶ。
創は動けない。
腕を上げることもできない。
それでも――。
右手の指先が、ほんのわずかに動いた。
ピクリ。
「……動いた」
創自身が驚いた。
「今……俺……」
指一本。
たったそれだけだった。
だが、それは確かに自分の意志で動いていた。
エマが息を呑む。
「まだ終わってない」
その声が震えていた。
希望なのか、恐怖なのか、エマ自身にも分からない。
ただ、その背後ではガトリング砲の回転が止まった。
カチッ。
装填完了。
ボロディンの赤い人工眼が、二人を正確に捉える。
低い機械音声が広間に響いた。
「……対象、確認」
巨体が一歩前へ出る。
「排除、開始」
ガトリング砲が、完全にこちらを向いた。
エマは創を抱き締める。
創は動けない。
逃げられない。
戦う力も残っていない。
それでも、目の前の石板だけは静かに脈打っていた。
キィィィン――。
まるで創の脳へ直接、何かを語りかけるように。
ガトリング砲の銃身が回転している。
ギュイイイイイイイイ――。
低い駆動音が石造りの広間を震わせる中、創はエマに身体を預けたまま、その音を聞いていた。
もう恐怖すら感じる余力は残っていない。
喉は焼けつき、血液は濃縮し、筋肉もほとんど動かない。それでも不思議なことに、頭の中だけは妙なほど鮮明だった。
目の前には、巨大な黒い石板が立っている。表面を走る無数の線は鋭角に折れ曲がり、神経細胞の樹状突起のように複雑に分岐していた。
その中心に刻まれた音を、エマが端末越しに読み取っている。
「創」
「……」
「聞いて」
エマは創の耳元へ顔を寄せた。
「これは、音そのものじゃない」
彼女の声は震えていた。
「第一の石板は、熱を呼び起こした。だったら、この石板は――」
エマが波形を拡大する。
「神経を呼び起こすものなのかもしれない」
「……神経……」
「そう」
エマは石板に刻まれた記号を指でなぞった。
「この音を、正確に発音して」
創は眉を寄せる。
「できる……かな」
「できるかどうかじゃない」
エマの声が強くなった。
「私が教える。あなたは、それを口にするだけ」
背後では、ガトリング砲の回転音がさらに高まっていた。
ギュイイイイイ――。
ボロディンの人工眼が赤く光る。
「……三秒」
機械音声が告げる。
「排除開始まで――三秒」
エマは創の顔を両手で支えた。
「まず、一音」
石板を指す。
「『ヴェロ』」
創は乾ききった唇を動かした。
「……ヴェ……ロ……」
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
バチッ。
「っ……!」
創の身体が跳ねる。
痛んだのは喉でも舌でもない。
頭の奥だった。
前頭葉のさらに深いところへ、細い針を直接突き刺されたような激痛が走り、次の瞬間には視界が白く弾けた。
「創!」
「だ、大丈夫……」
もちろん、嘘だった。
大丈夫なはずがない。
脳の中を、何かが走った。
一本。
また一本。
電気信号が神経回路を駆け抜けていく。
ニューロン、シナプス、軸索。
そんな医学用語が、単なる知識ではなく、頭蓋骨の内側で実際に起きている構造として浮かび上がる。
バチッ。
シナプスが切り替わる。
また一つ、別の回路が接続される。
まるで脳の中で、無数のスイッチが一斉に切り替えられているようだった。
「何……これ……」
創は震えた。
怖い。
自分の脳なのに、自分では制御できない。
確かに思考している。それなのに、その思考を生み出す仕組みそのものが、自分の意思とは関係なく組み替えられていく。
昨日まで使っていた脳ではない。
まるで自分という人間の頭蓋骨の中で、別の神経系が成長し始めているようだった。
「次!」
エマの声が響く。
「『キネ』!」
創は息を吸い、舌を動かした。
「……キ……ネ……」
バチィッ!
今度は、さらに強烈だった。
後頭部から前頭葉へ。
脊髄から脳幹へ。
視覚野から運動野へ。
無数の神経回路を、一斉に電流が駆け抜けていく。
創の瞳孔が大きく開いた。
「ぐ……あ……!」
頭蓋骨の内側が熱い。
だが、それは右腕で感じた熱とは違っていた。
細胞そのものが燃えているのではない。
情報が燃えている。
膨大な信号が脳内を駆け巡り、これまで存在しなかった経路を次々に形成していく。シナプスの結合が増え、途切れ、別の場所へ再接続され、そのたびに新しい回路が生まれていった。
まるで脳そのものが、リアルタイムで配線を変更している。
「創!」
エマの声が遠くなる。
「最後よ!」
石板の中央にある最後の記号。
「『フラグ』!」
創は目を閉じた。
そして――。
「ヴェロ……キネ……フラグ……」
声が消えた。
世界が、弾けた。
* * *
最初に消えたのは、音だった。
さっきまで広間全体を震わせていたガトリング砲の回転音が、突然小さくなった。
いや。
小さくなったのではない。
引き伸ばされている。
ギュイイイイイ――という高い駆動音が、次第にグオオオオオ――という低い唸りへ変わっていき、さらに長く、さらに低く引き延ばされる。
やがて、それすら人間の耳では捉えられないような低周波へ落ちていった。
そして、無音になった。
創は目を開けた。
「……」
静かだった。
あまりにも静かだった。
目の前に、何かが浮かんでいる。
最初は水滴かと思った。
だが違う。
空気中に残っていた水蒸気が、無数の小さな球体となって、その場に固定されているように見えていた。
その一つへ、石板から漏れた青白い光が反射している。
きらり、と光った。
創はその光景を見つめた。
美しい。
だが、あり得ない。
さらに視線を動かす。
その先に、一発の銃弾があった。
ガトリング砲から撃ち出された弾丸。
本来なら猛烈な速度でこちらへ飛んできているはずの金属弾が、空中に浮かんでいるように見える。
創は息を呑んだ。
いや。
息を呑んだという表現さえ、もう正しくなかった。
呼吸はしている。
ただ、その一回の呼吸が異常なほど長く感じられる。
世界が止まった。
一瞬そう思った。
だが、すぐに違うと気づいた。
止まったのは世界ではない。
――俺のほうが、速くなった。
その理解が、驚くほど自然に浮かんだ。
エマがこちらを見ている。
彼女の髪の一本が宙に浮いたまま、ほとんど動いていない。
頬には涙の跡があり、その表情も一枚の絵のように固定されて見えた。
ボロディンの人工眼。
回転するガトリング砲。
空中を飛ぶ銃弾。
舞い上がる蒸気。
あらゆるものが静止しているように見える。
創は、自分の身体を確認した。
右手。
左手。
足。
指。
動く。
それどころか、身体のどこをどう動かせば、次にどのような姿勢になり、どんな軌道を描くのかまで、筋肉が収縮する前から分かるような感覚があった。
視線を動かすたび、世界が細かく分解されていく。
光。
音。
空気。
熱。
すべてが情報として流れ込んでくる。
そして、そのとき創はもう一つの異変に気づいた。
痛くない。
「……」
さっきまで全身を引き裂いていた激痛が消えている。
だが、それも違った。
痛みがなくなったわけではない。
創は自分の左腕を見る。
皮膚は裂けている。
筋肉にも損傷が残り、右腕には熱傷に近い組織障害まである。
傷が消えたわけではない。
ただ、痛みがまだ届いていない。
末梢神経から送られてくる侵害刺激が脊髄を通り、脳へ伝わって、最終的に「痛み」として認識される。
普通なら、その処理にかかる時間などほとんど意識しない。
だが今の創には、そのわずかな遅延さえ、永遠に近い長さとして感じられた。
神経信号が走ってくる。
その速度すら遅い。
遅すぎる。
創は左腕へ意識を集中した。
微弱な信号が、末梢から少しずつ上がってくる。
まだ脳へ届いていない。
その信号がどこから来ているのか。
どの神経を通っているのか。
創には、手に取るように分かった。
「……これが……」
自分の声すら妙に遅く聞こえる。
「神経の……加速……?」
創はエマへ目を向けた。
彼女の手は、まだ自分の肩に触れている。
創はその手をそっと外した。
エマの指がゆっくりと離れていく。
それでも世界は、ほとんど動いていない。
創は一歩踏み出した。
足元には、無数の銃弾が飛び交っている。
その間を縫うように進む。
一発。
二発。
三発。
銃弾同士の間には、ほんの数センチしかない場所もあった。
普通なら、絶対に通れない。
だが今の創には、そのすべての軌道が見えていた。
弾丸がどこを通るのか。
あとどれくらいでそこへ到達するのか。
自分の身体をどれだけ傾ければ避けられるのか。
それらは計算しているわけではない。
理解した瞬間には、もう答えが出ている。
そんな感覚だった。
創は一歩進む。
さらにもう一歩。
空中に固定されたように見える銃弾の間を、静かに歩いていく。
まるで嵐の中心を歩いているようだった。
ただし、そこには風の音すらない。
完全な静寂。
創の耳には、自分の心臓の音だけが聞こえていた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
その鼓動さえ、以前とは違って感じる。
一度の心拍の間に、いくつもの思考が生まれ、整理され、そして消えていく。
創は自分の身体を見た。
ボロボロだった。
皮膚も、筋肉も、血管も、内臓も、すでに限界を超えている。
それなのに、頭だけは異様なほど冷静だった。
怖くない。
焦りもない。
怒りすらない。
ただ、世界が透明だった。
石板の構造。
敵の位置。
銃弾の速度。
自分の筋肉の損傷。
エマの位置。
すべてが同時に理解できる。
そして創は、ようやく分かった。
この力は、第一の力とはまったく違う。
熱は、肉体を暴走させる力だった。
細胞を燃やし、エネルギーを吐き出し、身体を限界以上に動かす。
だが、この力は違う。
変わるのは肉体そのものではない。
世界を認識する脳の速度だ。
自分の意識だけを、別の時間の流れへ押し上げている。
創は静かに呟いた。
「……速い」
その言葉と同時に、世界が動き始めた。
* * *
ドガガガガガガガガガガッ!
爆音が広間を貫いた。
銃弾が一斉に発射され、蒸気が吹き飛ぶ。
エマが目を見開いた。
「創――!」
だが、そこに創はいなかった。
銃弾の嵐の中を、彼はすでに歩き始めていた。
その瞳には、先ほどまでとはまったく違う光が宿っていた。




