第10話 壊れた理由
泣き崩れていた女性が、こちらを見ている。
その視線に、妙な居心地の悪さを覚えた。
――何だよ。
そんなに。
俺の本音は、滑稽か?
惨めに見えるのか?
……違う。
そうじゃない。
壊れているはずなのに。
あの女は、どこか冷静だった。
それが、気持ち悪い。
そして。
その瞳に映っているものを、俺は理解できなかった。
――
「この家を売って、マンションに引っ越す?」
「権利書も渡した……?」
その瞬間。
私の中で、何かが決定的に崩れた。
最後の場所が、無くなる。
「婚約者? 誰のこと……?」
「そんな人、知らない!」
母の言葉が、理解できない。
理解したくない。
大声で怒鳴っていた。
何を言っているのか、自分でも分からない。
聞こえない。
母の声も。
頭の中が、白く塗り潰されていく。
――怖い。
その感情だけが、残っていた。
気づけば。
私は、母の首に手を掛けていた。
……。
現実が、遅れてやってくる。
動かない体。
何も言わない顔。
そこでようやく。
理解した。
――全部、終わった。
私は、そこで終わったのだと。
ぼんやりと、母の体を見つめながら。
記憶が、遡る。
中学の頃から。
私は、ずっと“いない人間”だった。
殴られるわけじゃない。
蹴られるわけでもない。
教師の目の前では、何も起きない。
なのに。
誰も、私と話さない。
声をかけても、返ってこない。
グループも、班も。
私の席だけ、空いているような感覚。
孤独。
空虚。
時々、物がなくなる。
そして、決まってトイレで見つかる。
気づけば。
学校に行かなくなっていた。
親の顔も、見れなくなった。
そんな私にも。
唯一、話してくれる存在がいた。
近所の男の子。
四つ下の。
兄弟のいない私にとっては、弟のような存在。
彼といる時だけは。
少しだけ、“普通”だった。
ある日。
私は衝動的に。
右手に、小さなタトゥーを入れた。
蛇の形。
理由は、分からない。
ただ。
何かを変えたかった。
でも。
すぐに後悔した。
消せない。
戻れない。
だから私は。
右手を隠すようになった。
サポーターで。
その日も。
男の子が、部屋に来ていた。
たわいもない会話。
それだけで、十分だった。
――ほんの、いたずらのつもりだったのだろう。
その子は、私の腕を引いた。
サポーターが、外れた。
……あの時の顔は、忘れられない。
「……怖いよ……」
「……お姉ちゃん……」
「……きたない……」
子どもの、何気ない一言。
たった、それだけ。
それだけで。
私は、完全に外へ出られなくなった。
引きこもり。
生きているのか、死んでいるのかも分からない日々。
時間だけが過ぎていく。
部屋の中で。
トイレも。
食事も。
全部、部屋で済ませる。
母が寝た後に、冷蔵庫のものを取る。
そんな生活。
そして。
その母までも――
「……もう……」
「生きていたくなかった」
すべてを終わらせたかった。
数年ぶりに、玄関を出た理由は。
終わるため。
でも。
――ほんの一瞬だけ。
考えた。
このままでいいのか。
誰かに迷惑をかけないか。
意識がぼやける中で。
最後に残った“常識”が、わずかに抵抗した。
そして。
視界の端に――
バスが映った。
――
目の前にいるこの女性。
壊れてしまった、この人。
……そして。
ゆっくりと。
俺を見ている。
まるで。
何かを、重ねるように。
「……似てる……」
かすれた声が、落ちた。




