第七話「記録」
三件の判定を終えた亮は、配車記録に対象者の乗車予定が事前登録されていた痕跡を発見する。一方、小野寺は橋本の失踪を追い、抹消されなかった紙の事故報告書へたどり着く。亮が警告を無視して記録を開くと、監査人・黒瀬が乗客として現れる。彼女は三件すべてが亮の見極め試験だったと明かす。
藤堂タネの判定を終えた翌朝、須藤亮は営業所の休憩室で、自分の乗務履歴を開いた。
橋本を乗せた夜。
三崎の入館証を返した日。
タネを病院へ送った朝。
三つの乗務には、共通していることがあった。
客がどこから配車を依頼したのか、記録がない。
通常なら、電話、アプリ、専用乗り場のどれかが表示される。ところが三件とも、配車元の欄は空白だった。
代わりに、運行管理者用の画面でしか見えない内部識別番号が残っている。
亮は番号を紙に書き写した。
《SELECTION-TEST-01》
《SELECTION-TEST-02》
《SELECTION-TEST-03》
英語の意味は分かる。
選別試験。
さらに奇妙なのは、登録時刻だった。
橋本の乗務は、本人が営業所で亮の車に乗る六時間前。三崎は二日前。タネに至っては、亮が彼女を常連客として初めて送迎する三日前に登録されていた。
偶然乗せたのではない。
最初から、自分の車へ乗せることが決まっていた。
「お前、朝から怖い顔して何見てんだ」
背後から小野寺誠の声がした。
亮は画面を閉じた。
「昨日の売上です」
「売上はそんな顔で見るもんじゃない。もっと悲しい顔で見るもんだ」
小野寺は缶コーヒーを机に置いた。いつもの軽口だったが、亮の前にある紙へ目を落とした。
「それ、配車番号か」
亮は紙を裏返した。
「確認したいことがあって」
「橋本さんのことか」
亮は答えなかった。
小野寺も、それ以上は聞かなかった。
「昼過ぎ、車庫に来い」
それだけ言って、休憩室を出ていった。
*
営業所の裏に、今は使われていない平屋の倉庫がある。
古いタイヤ、廃車から外した料金メーター、紙の乗務日報。電子保存に切り替わる前の書類が、段ボール箱へ年度別に詰められていた。
午後一時、小野寺は奥の作業台で亮を待っていた。
灰色のファイルを一冊、机へ置く。
「電子記録は書き換えられても、こいつは勝手に消えない」
ファイルの表紙には、十年前の日付が書かれていた。
中に綴じられていたのは、一件の事故報告書だった。
雨天。視界不良。交差点で自転車と接触。被害者は右脚を骨折。
運転者の欄には、橋本隆志。
報告者欄には、橋本の押印がある。
事故車両の運行前点検表をめくると、点検担当者の欄に《小野寺誠》と署名されていた。
「俺が入社して二年目の頃だ。橋本さん、その朝から熱があった。手も震えてた。休ませるべきだった」
「でも、運転させた」
「人が足りなかった。俺が点検済みの判を押した」
事故後、橋本は自分一人の判断で運転したと申告した。小野寺の点検責任について書かれた部分は、電子化される前に修正されたという。
「データベースを調べたら、事故記録から橋本さんの名前が消えてた。俺の署名もない。なのに、この紙には両方ある」
小野寺は亮の目を見た。
「橋本さんの家にも行った。別の人間が住んでた。会社は退職したと言う。警察へ聞けば、そんな運転手の事故はないと言う」
亮のポケットの中で、決済端末が短く警告音を鳴らした。
画面を開く。
《機密情報開示を検知》
《第三者への開示は査定対象となります》
小野寺は画面をのぞき込もうとはしなかった。
「一人で抱えてることがあるなら、今言え」
亮は端末を握った。
橋本を処分したのは自分だと言えばいい。
生存と処分を選ぶ画面が現れたこと。橋本を残せば、小野寺の責任まで明らかになると考えたこと。自分の仕事を守るため、黒い選択肢を押したこと。
どこから話しても、最後は同じ場所へたどり着く。
俺が消した。
「何も知りません」
口から出たのは、その言葉だった。
小野寺はしばらく亮を見ていた。
「橋本さんが消えたことより、お前が何か隠してる方が怖いよ」
ファイルを閉じる。
「この紙、俺が預かる。捨てろと言われても捨てない」
倉庫を出ていく背中へ、亮は何も言えなかった。
決済端末には、まだ警告が残っていた。
*
午後一時二十七分。
車へ戻った亮は、決済端末の設定画面を開いた。
乗務履歴の内部識別番号を長押しすると、認証を求める表示が現れた。三度失敗したあと、橋本の判定画面で見た管理番号を入力する。
《権限外の記録です》
《閲覧操作は保存されます》
亮は《続行》を押した。
白い画面に、《被験者行動記録》という見出しが現れた。
被験者名、須藤亮。
試験開始時残存価値、72。
橋本への助言内容。
判定資料を開いた回数。
《処分》を押すまでに要した秒数。
三崎の不正を知った直後の脈拍。車内カメラが記録した視線の移動。組織推奨へ反した理由として、亮が口にした言葉。
タネの団地で、決済端末を確認した回数。
すべて記録されていた。
さらに下へ送る。
《報酬使用目的:滞納家賃》
十二万円の使途まで把握されている。
橋本を消したあと、何を買うか。
報酬を娯楽に使うか、借金に使うか、誰かへ渡すか。
あの金も試験だった。
画面の最下部に、三つの項目が並んでいた。
《TEST-01 身近な関係者の保護》
《TEST-02 社会的損失と悔悟》
《TEST-03 未算定価値の発見》
その先を開こうとした瞬間、配車通知が画面を覆った。
乗車地、西新宿六丁目。
乗客名、黒瀬梓。
亮は《受諾》を押した。
*
黒瀬は、黒いスーツ姿で歩道に立っていた。
橋本を連れていった夜と同じ服装だった。
後部座席へ乗り込み、行き先を告げる。
「東京都庁を一周して、ここへ戻ってください」
「目的地は、ここでいいんですか」
「はい。メーターは入れてください。あなたは勤務中ですから」
亮は車を発進させた。
昼過ぎの西新宿は、配送車とタクシーで詰まっていた。都庁の上半分が、フロントガラスの向こうに見える。
「三人とも、最初から俺に乗せるつもりだったんですね」
黒瀬は否定しなかった。
「権限外記録を閲覧しましたね」
「見せたかったんじゃないですか。見つけるところまで試験だった」
「その可能性を考えられるようになった。それも評価します」
「橋本さんは、俺が処分した」
「はい」
「三崎さんと藤堂さんも、判定のために近づけた」
「正確には、あなたが助言を与えやすい状況へ配置しました。彼らの問題は、こちらが作ったものではありません」
「同じことです」
「違います。問題を作れば、あなたの判断ではなく、作り手の筋書きになる」
信号が赤になり、車が止まった。
黒瀬は、三つの試験の意味を説明した。
橋本隆志。
規則を破った者を処分すれば、亮に近い小野寺と、自分の職場を守れる状況だった。亮は処分を選んだ。
三崎美咲。
罪を認めようとする一人を生かせば、会社と従業員に大きな損失が出る状況だった。亮は生存を選んだ。
藤堂タネ。
数字だけなら処分すべき人間に、記録されていない価値があると気づけるかを見た。亮は生存を選び、組織の計算まで変えた。
「評価したのは、判定だけではありません。乗客へ与えた助言、判断をためらった時間、閲覧した資料、報酬の使い方、自分の選択をどう正当化したか。すべてです」
「俺は何点だったんですか」
「点数で示せば、それに合わせて振る舞うでしょう」
「残存価値は出すのに?」
「残存価値は、評価であると同時に圧力です」
黒瀬の答えには迷いがなかった。
「あなたも、人を選んだことがあるんですか」
「あります」
「何人」
「最初の一人は、私と同じ姓でした」
亮はバックミラーを見た。
黒瀬の顔に変化はなかった。だが、右手の親指だけが、左手の爪の縁を強く押していた。
「家族ですか」
「その質問への回答権限はありません」
「処分したんですか」
「今のあなたなら、答えを聞かなくても想像できます」
青信号に変わった。
亮はアクセルを踏まなかった。後ろの車がクラクションを鳴らし、ようやく車を進める。
「選ぶ人間は、何人いるんですか」
黒瀬は窓の外へ目を向けた。
「見てください」
*
次の信号で、車列が止まった。
決済端末から、聞いたことのない低い音が鳴った。
街の色が一瞬、薄くなった。
隣に並ぶタクシーの決済画面に、運転手の顔写真が表示されている。その下に、白い《生存》と黒い《処分》。配送トラックのナビにも、作業服の男の顔がある。
歩道を走る介護送迎車。
コンビニのレジ。
病院の受付端末。
バイク便の配達員が持つスマートフォン。
目に入る画面という画面に、誰かの顔と、二つの選択肢が浮かんでいた。
判定する側の手元だけではない。
判定される側の顔が、街じゅうにある。
亮は窓を開けた。
排気音も、横断歩道の誘導音も、いつもどおり聞こえる。歩行者は誰も画面を気にしていない。
数秒後、表示は消えた。
タクシーには地図が戻り、コンビニのレジには商品の金額が戻る。
「今のは何ですか」
「あなたがこれから扱う範囲です」
「全員が選んでるんですか。それとも、全員が選ばれてるんですか」
「面談で質問してください」
決済端末に新しい文面が現れた。
《見極め期間終了》
《面談を実施します》
《日時:本日十五時》
《場所:西新宿六丁目六番六号 東洋アークタワービル六階》
亮は後部座席を見た。
「これを断ったら?」
「断ることも、面談で選べます」
「その前に、あなたたちは俺の生活を全部調べた」
「選択肢を渡す側が、相手より少ない情報で判断することはありません」
出発地点へ戻る。
料金は千四百円だった。
黒瀬は現金で払い、領収書を受け取った。
「須藤さん。橋本隆志を処分したことを、組織は失点と判断していません」
「慰めですか」
「警告です。組織に評価された判断が、正しいとは限らない」
黒瀬は車を降りた。
自動ドアが閉まる直前、亮は聞いた。
「あなたは、どうして俺にそんなことを言うんですか」
黒瀬は答えず、東洋アークタワービルの方角へ歩いていった。
*
午後二時三十六分。
営業所へ戻ると、小野寺が車庫の入口に立っていた。
灰色のファイルを抱えている。
「明日の朝、これを警察へ持っていく」
亮は車を降りた。
「電子記録と違っても、信じてもらえないかもしれません」
「だから持っていかない、にはならないだろ」
「小野寺さんの署名もあります」
「俺が責任を逃げた証拠だ。今度は逃げない」
小野寺はファイルを抱え直した。
「お前も、話す気になったら来い。今夜でも、明日の朝でもいい」
亮は答えられなかった。
十五時まで、あと二十四分。
小野寺が持つ紙には、消された人間の名前が残っている。
亮が持つ端末には、その人間を消した自分の全行動が残っている。
どちらも記録だった。
片方は、人間が忘れないために残したもの。
もう片方は、人間を測るために集めたもの。
決済端末に、最後の通知が加わった。
《面談後、正式任務を開始します》
亮は車のキーを握ったまま、東洋アークタワービルの六階を見上げた。




