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第六話「価値」

組織は藤堂タネを四千万円以上の公的負担と判定していた。だが亮は、タネが団地で子どもや独居高齢者を支え、行政の届かない場所を埋めてきたと知る。一方、息子・慎吾がその生活を金銭と時間で支えてきたことも事実だった。タネ本人から「消えた方がいいか」と問われた亮は、「生きていてください」と答え、生存を選ぶ。

 藤堂タネが消えた場合、三人の生活が改善する。


 決済端末には、そう表示されていた。


 一人目、息子の藤堂慎吾。


 介護・通院付き添い時間が年間四百十二時間減少。就労安定率、34%上昇。債務返済完了時期、推定三・八年短縮。


 二人目と三人目は、名前の知らない慎吾の元妻と娘だった。


 慎吾が養育費を安定して払える可能性が上がり、娘の進学時に利用できる金額が増える。


 その下に、国と自治体が削減できる費用が並んでいた。


 年間透析費。


 薬剤費。


 検査費。


 入院費。


 介護移行後に必要となる公的負担。


 推定生涯公的負担額:四千三十二万円。


 須藤亮は、タクシーの運転席で画面を読み続けた。


 タネが生きていればかかる金。タネが消えれば戻る時間。慎吾が母親へ使わずに済む人生。


 数字はどれも具体的だった。


 その一方で、タネを生存させた場合の利益欄には、《算定可能な項目なし》と記されている。


 組織推奨判定:処分。


 推奨信頼度:92%。


 残り時間は四十時間を切っていた。


 黒い《処分》を押せば、慎吾の生活は改善する。組織の計算どおりなら、別れた娘の人生まで良くなる。


 タネは、地域の子ども食堂へ古着を寄付していた。団地の住民へ声をかけ、子どもにパンを渡していた。


 それが四千三十二万円に届くのか。


 そんな比較を始めた自分に気づき、亮は画面を閉じた。


     *


 翌朝、藤堂家から定期送迎が入った。


 西早稲田の都営住宅へ着いたのは、午前八時五十二分。


 タネは玄関前ではなく、向かいの住棟を見上げていた。


 淡い紫の帽子の下で、眉間に皺を寄せている。


「おはようございます」


 亮が声をかけると、タネは一度振り返った。


「須藤さん。三〇五号室のカーテン、今日も開いてないの」


 第5話の朝、タネが近所の男性へ確認を頼んでいた部屋だった。


「伊原さんという方ですか」


「ええ。毎朝七時には開ける人なのよ。昨日、管理人さんにも言ったんだけど、ご家族から連絡がないと勝手に入れないって」


「電話は?」


「何度かけても出ないの」


 タネは自分のスマートフォンを見た。


 時刻は八時五十五分。透析の予約がある。


「病院へ行きましょう。遅れます」


「そうね」


 返事をしながらも、タネは窓から目を離さない。


 亮は後部座席のドアを開けた。


 タネはゆっくり乗り込み、何度も住棟を振り返った。


 車を発進させる。


 バックミラーの中で、閉じたカーテンが小さくなっていく。


 最初の交差点を曲がる直前、タネが言った。


「須藤さん、悪いけど戻ってもらえる?」


「団地へですか」


「やっぱり気になるの」


「病院、遅れますよ」


「透析は時間をずらしてもらえる。でも、伊原さんが倒れてたら、待ってくれないでしょう」


 亮はウインカーを出した。


「遠回りになるので、料金は少し増えます」


「もちろん払います」


 車をUターンさせる。


 決済端末の隅には《64》が浮かんでいた。


     *


 団地へ戻ると、タネは同じ階の住民を呼びに行った。


 自治会で預かっている緊急用の合鍵があるという。管理人にも連絡し、三人で三〇五号室へ向かった。


 亮は本来、車で待つべきだった。


 それでも、タネ一人に任せられず後を追った。


 玄関の鍵を開ける。


「伊原さん」


 タネが声をかけた。


 返事はない。


 部屋にはテレビがついたままになっていた。朝の情報番組が、誰も見ていない台所へ明るい音を流している。


 廊下の先、浴室の前に男が倒れていた。


「伊原さん!」


 タネが駆け寄ろうとするのを、亮が止めた。


 呼びかけに反応はない。呼吸は浅く、額に汗が浮いている。


 亮は救急へ電話した。


「七十二歳の男性です。意識がありません。呼吸はあります。場所は――」


 住所を伝えている間、タネは居間の棚から薬手帳を探し出した。


「糖尿病があるの。朝はインスリンを打ってるはず。腎臓も悪くて、先月から薬が変わったって」


「どうして知ってるんですか」


「病院が同じだから。奥さんが亡くなってから、薬を間違えないように一緒に確認してるの」


 救急車が到着した。


 救急隊員へ、タネは持病、服薬、連絡先を説明した。家族へ連絡するための電話番号まで知っている。


 担架で運ばれる直前、伊原がわずかに目を開けた。


 タネの名前を呼んだように聞こえた。


 救急隊員の一人が言った。


「あと半日遅かったら危なかったと思います」


「助かりますか」


「病院で診ないと断言できません。ただ、今は呼吸も戻っています」


 救急車のドアが閉まる。


 サイレンが、団地の住棟の間を抜けていった。


 タネはその場で胸を押さえ、ゆっくり息を吐いた。


「よかった……」


 声は震えていた。


 英雄のような表情ではなかった。ただ、いつもカーテンを開ける人が開けなかった。その違いを放っておけなかっただけだ。


「藤堂さんが気づかなかったら、誰も分からなかったですね」


「いつも同じ時間に開ける人だったから」


 タネはそれだけ答えた。


 決済端末の資料には、この行動は一行も記録されていなかった。


     *


 透析の時間を病院へ連絡し、改めて車を走らせた。


「伊原さんとは、長いんですか」


「二十年くらい。同じ住棟じゃないけど、奥さんがいた頃から知ってるの」


「毎日、カーテンを確認してるんですか」


「毎日ってわけじゃないわよ。通るときに見るだけ」


 タネは大したことではないように言った。


 話を聞くと、ほかにも似たことをしていた。


 登校時間になっても家を出ない子どもがいれば、親へ連絡する。認知症の住民が帰れなくなれば、家族へ電話する。日本語が読めない外国人住民には、病院から届いた書類を一緒に確認する。


 子ども食堂の食材が足りない日は、商店街へ寄付を頼みに行く。


「藤堂さん、自治会の人なんですか」


「昔はね。今は何もしてない。ただのお節介」


「藤堂さんがいなくなったら、困る人がたくさんいますよ」


 亮が言うと、タネは窓の外へ顔を向けた。


「でも、その人たちが私の病院代を払ってるのよね」


「それは」


「税金でしょう。透析って、とてもお金がかかるの」


 端末の数字を見ていないはずなのに、タネは知っていた。


「私が子どもにパンを渡したからって、それで病院代を払ったことにはならないわ」


「そんな計算をする必要ないでしょう」


「須藤さんは若いから」


 タネは微笑んだ。


「自分にかかるお金を、まだ考えなくていいのよ」


 亮は返事をしなかった。


 残存価値64という数字が、端末の隅で光っていた。


     *


 透析を終えたタネを迎えに行くと、病院の待合室に慎吾もいた。


 二人は少し離れて座り、互いを見ていなかった。


「帰りも須藤さんなのね」


 タネは立ち上がり、慎吾へ言った。


「あなたも乗りなさい」


「俺は電車で帰る」


「話があるの」


 慎吾は亮を見た。


「何か言いました?」


「詳しいことは話してません」


 亮は答えた。


「ただ、藤堂さんに、慎吾さんと直接話した方がいいとは言いました」


 タネが慎吾の借金について訊いたとき、亮は本人から聞いてほしいとだけ伝えていた。


 慎吾は納得していない顔だったが、後部座席へ乗った。


 タネが左、慎吾が右。二人の間に、一人分以上の隙間が空いている。


 車を発進させる。


 最初に口を開いたのはタネだった。


「私の治療のために借りたお金があるの?」


 慎吾は窓の外を見たまま答えない。


「須藤さんに聞いたんじゃないわ。昨日、あなたが病院で言ってたことが気になったの」


「今さら何ですか」


「本当のことを訊いてるの」


 慎吾は大きく息を吐いた。


「ありますよ。入院の保証金、通院代、介護用品。俺が仕事休んだ間の生活費」


「どうして言わなかったの」


「言ったら、治療やめるって言うだろ」


「だから、全部遊んで使ったことにしたの?」


「全部じゃない。競馬とパチンコで使った金もある」


 慎吾は自分から言った。


「借金を返そうとして、また借金を増やした。そこは言い訳しません」


「私のために借りたなんて言いながら、賭け事をしてたのね」


「そうやって、都合のいいところだけ聞く」


 慎吾の声が強くなる。


「母さんのために借りたのも本当。俺が馬鹿だったのも本当だよ。どっちか一つにしてくれたら楽だけど、両方なんだよ」


 タネが黙った。


 亮はルームミラーを見ないよう、前方だけを見ていた。


「私、あなたを悪者にしてたのね」


 しばらくして、タネが言った。


「急に何だよ」


「あなたが勝手に借金して、私のお金を奪いに来るって。そう思ってた方が楽だった」


「俺が迷惑かけてるのは本当だろ」


「私も、あなたに頼ってた」


 タネは膝の上で手を組んだ。


「送り迎えも、保証金も、頼むときは息子だから当たり前だと思ってた。あなたがいくら払って、どれくらい仕事を休んだか、訊いたことなかった」


 慎吾は何も言わない。


「遺言を変えたのも、あなたを守るためだけじゃない。罰を与えたかったの。私を困らせた分、一人になればいいって」


「じゃあ、戻すんですか」


「今は戻さない」


 慎吾が笑った。呆れたような、少し安心したような笑いだった。


「そこは変わらないんだ」


「あなたがまた賭け事をしないか、まだ信じられないもの」


「正しいですよ」


「でも、借金は一緒に整理しましょう。治療に使った分と、あなたが使った分を分ける。司法書士さんに相談する」


「金は増えませんよ」


「増えなくても、嘘は減らせるでしょう」


 二人は和解しなかった。


 タネは遺言を戻さず、慎吾も賭け事をやめるとは約束しなかった。


 ただ、互いに隠していた数字を、初めて同じテーブルへ出すことになった。


     *


 慎吾を高田馬場駅前で降ろした。


 車内には、タネと亮だけが残る。


「須藤さん」


「はい」


「私がいなくなったら、慎吾は楽になるのよね」


 亮はハンドルを握り直した。


「病院代も、送り迎えも、借金もなくなる」


「借金は残ると思います」


「でも、増えなくなる」


 否定できなかった。


 慎吾だけではない。元妻と娘の生活も改善する。組織の資料にはそう書かれていた。


「若い人のお金を使ってまで生きるのは、わがままなのかしら」


「藤堂さん」


「須藤さん。私、消えた方がいい?」


 タネは、判定のことを知らない。


 ただの言葉として訊いている。


 亮だけが、本当に彼女を消せる画面を持っている。


 最後は本人が決めることです。


 以前の亮なら、そう答えていた。


 けれどタネが一人で決めれば、自分が迷惑をかけているという理由だけで、生きることをやめる。


「生きていてください」


 亮は言った。


 タネが顔を上げる。


「慎吾さんが楽になるかどうかを、藤堂さんが一人で決めないでください」


「でも」


「今日、慎吾さんは、死んでくれとは言いませんでした」


「言えないでしょう。息子なんだから」


「言えないことも含めて、慎吾さんの人生です。藤堂さんが代わりに決めることじゃない」


 自分が何を言っているのか、亮には分かっていた。


 三崎へ、別れた方がいいと決めた。


 タネへ、生きていてほしいと決めた。


 他人の人生を決めることから逃げていた男が、今は本人より先に答えを出している。


 それでも、言葉を取り消す気にはならなかった。


「そう」


 タネは小さく息を吐いた。


「じゃあ、もう少し迷惑かけようかしら」


 笑い声には、涙が少しだけ混じっていた。


     *


 都営住宅前へ着くと、朝に会った子どもたちがタネへ駆け寄ってきた。


「タネちゃん、伊原さん助かったって!」


 一人が大声で言った。


「娘さんから電話きたって。今日、病院へ来るって」


 タネは後部座席で目を閉じ、何度も頷いた。


「よかった」


 車を降りると、子どもたちがタネのバッグを持とうとする。


「大丈夫よ。これくらい自分で持てるから」


 朝と同じ言葉だった。


 タネは亮へ料金を払い、深く頭を下げた。


「今日はありがとう、須藤さん」


「こちらこそ」


「今度は、慎吾と一緒じゃない日にお願いね」


「分かりました」


 タネは子どもたちに囲まれ、住棟へ歩いていった。


 決済端末が鳴る。


 判定期限は、残り四十七秒だった。


 画面には、変わらず表示されている。


 組織推奨判定:処分。


 推奨信頼度:92%。


 生存を選べば、タネの医療費は続く。慎吾の負担もなくならない。亮の残存価値は、さらに下がるかもしれない。


 橋本を処分して六ポイント上がった。


 三崎を生存させて十四ポイント下がった。


 残存価値64。


 ゼロになれば、自分にも何が起こるか分からない。


 亮は白い《生存》を押した。


 確認画面が現れる。


 対象:藤堂タネ。


 判定:生存。


 対象者の将来負担は、判定保証人の査定へ反映されます。


 確定しますか。


 亮は《はい》を押した。


     *


 画面に《処理中》と表示された。


 数秒後、結果が出る。


 判定:生存。


 追加観測情報を反映。


 組織予測を再計算。


 表示項目が高速で書き換わっていく。


 伊原の救命。


 子どもの見守り。


 独居住民の安否確認。


 認知症住民への支援。


 行政窓口への同行。


 人間同士の関係だったものが、一行ずつ金額へ変換された。


 未登録福祉代替労働:年間七百二万円。


 孤立死予防期待値:年間二・三件。


 地域介護負担削減額:年間四百八十万円。


 修正推奨判定:生存。


 残存価値 64 → 70。


 数字が青く点灯した。


 正解した。


 一瞬、そう思った。


 しかし、画面のどこにも、タネが誰かを心配したことや、伊原の無事に安堵したことは書かれていない。


 あるのは、行政が払わずに済んだ金と、タネが無給で埋めてきた労働だけだった。


 端末はタネを人間として認めたのではない。


 行政より安く働く福祉資源として、残すことにしたのだ。

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