第四話「被害者」
判定資料を開いた亮は、三崎が上司との関係を利用し、会社から八百四十万円を抜いていたと知る。再び乗車した三崎は、金を母の介護費へ使ったこと、横領の発端は上司の裏金作りだったことを告白する。生かせば会社と社員に損害が広がり、処分すれば真相も消える。亮は組織の推奨に逆らい、「生存」を押す。
人間一人の人生が、十三項目に整理されていた。
三崎唯、三十一歳。
住所、勤務先、年収、預金残高、納税額、保険料、医療費、扶養関係、交際履歴、入退館記録、通信履歴、違反歴、推定将来価値。
須藤亮は、タクシーの運転席で決済端末を見つめていた。
つい数分前まで、画面に表示されていたのは一つの確認ボタンだけだった。
対象者資料を閲覧しますか。
閲覧行為も査定対象となります。
最初は押さなかった。
知らない方がいい。見れば、また自分が決めなければならなくなる。
だが、橋本を処分したとき、亮は彼についてほとんど何も知らなかった。知っていたのは、事故を隠したことと、運転手たちを守ってきたことだけ。その断片で一人を選び、社会から消した。
知らずに選ぶより、知って選ぶ方が責任を持つことになる。
そう自分へ言い聞かせ、《閲覧する》を押した。
表示された情報の多さに、すぐ後悔した。
三崎が過去三年間に宿泊したホテル。南部長と同時に滞在していた場所。母親の診療記録と、介護施設へ支払った金額。会社の端末で検索した単語。深夜に削除したメッセージ。
そのどれも、本人の許可を得て見るものではなかった。
画面を閉じようとしたとき、一つの項目が赤く点滅した。
不正取得金額:八百四十万円。
亮の指が止まった。
項目を開く。
株式会社ミナミ商事から、実在しない外注会社へ業務委託費が支払われている。複数の口座を経由した金の一部が、三崎名義の口座へ流れていた。
発注書を作成したのも、入金処理を承認したのも、帳簿上の数字を修正したのも三崎だった。
タクシーの後部座席で泣いていた顔が浮かぶ。
上司に捨てられそうな女性。
母親の介護費を心配する娘。
会社から八百四十万円を盗んだ社員。
同じ人間だった。
資料の最後に、判定予測が表示される。
再犯可能性:74%。
社会的損失予測:高。
組織推奨判定:処分。
推奨信頼度:87%。
黒い《処分》が、前より大きく見えた。
三崎は、自分を被害者のように語っていた。南部長に振り回され、関係を終わらせられないだけの人間として。
亮へ「別れた方がいい」と言わせながら、会社の金を抜いていることは話さなかった。
処分を押す理由は、もう十分あるように思えた。
亮は黒い画面へ指を伸ばした。
残り時間は、まだ六十八時間以上ある。
指先が触れる前に手を下ろした。
橋本を処分したあと、亮の口座へ十二万円が振り込まれた。誰かが三崎を評価した資料を読んで、処分を選べば、また報酬が入るのかもしれない。
その考えが浮かんだこと自体に、吐き気がした。
亮は端末を通常画面へ戻した。
*
三崎の入館証は、営業所の遺失物として届け出た。
本来なら保管期間を経て警察へ届けられる。しかし翌日の夕方、三崎本人から営業所へ連絡が入った。
「昨日の女性のお客さん、お前を指名してるぞ」
配車係から渡された伝票には、迎車先として西新宿のミナミ商事本社が記されていた。
「忘れ物を受け取って、そのまま中野まで乗りたいって。指名料も迎車料金も払うそうだ」
勤務中の正式な配車。
規則違反ではない。
それでも、亮には偶然と思えなかった。
端末の隅には《78》が表示されている。三崎の判定画面を閉じている間も、残り時間は進んでいた。
西新宿の雑居ビル前へ着くと、三崎はすぐに現れた。
前夜とは違い、髪を後ろで束ね、濃いグレーのスーツを着ている。目元に疲れは残っていたが、泣いた跡はなかった。
「昨日は、すみませんでした」
後部座席へ乗るなり、三崎は頭を下げた。
亮は入館証を差し出した。
「こちらで間違いないですか」
「はい。助かりました。これがないと会社に入れなくて」
三崎はカードを受け取り、顔写真と名前を確かめた。
「行き先は、中野区江古田の青葉ケアセンターでお願いします」
「かしこまりました」
亮はメーターを入れ、車を発進させた。
通常の運賃画面の右下で、78という数字だけが光っている。
「昨日、黒い車に乗りましたよね」
亮は前を向いたまま言った。
後部座席から返事がなくなった。
「南部長の車ですか」
「見てたんですね」
「もう会わないって言った直後だったので」
「別れに戻ったわけじゃありません」
三崎はバッグから、手のひらほどの黒い端末を取り出した。側面に会社の管理番号が貼られている。
「これを取り戻したかったんです。会社のサーバーに入るための認証端末です。あの人の車に置いたままだったから」
「データを消せって言われてたものですか」
「消してはいません」
三崎は端末をバッグへ戻した。
「むしろ、全部持ち出しました」
車が青梅街道へ入る。
亮は、次に何を訊くべきか迷った。
知っていると明かせば、自分が彼女の個人情報を盗み見たことになる。
しかし、知らないふりをしたまま判定することもできなかった。
「八百四十万円」
三崎の手が止まった。
「何の金額か、分かりますよね」
「どうして、その数字を」
「入館証を拾ったとき、会社関係の情報が端末に表示されたんです」
苦しい説明だった。
三崎はすぐには信じなかった。入館証を手の中で裏返し、亮の後頭部を見つめている。
「誰かに頼まれて、私を乗せたんですか」
「違います」
「警察?」
「違います」
「じゃあ、何なんですか」
答えられない。
「僕も知りたいんです」
亮が言うと、三崎はしばらく黙った。
やがて、入館証をバッグへしまう。
「私がやりました」
声には、前夜の弱さがなかった。
「架空の会社へ外注費を出して、別の口座へ移しました。帳簿も私が直しました」
「南部長に命令されたんですか」
「最初は」
「最初は?」
「あの人が接待費や自分の遊ぶ金を作るために始めました。発注書を作るのも、数字を合わせるのも、全部私にやらせた。断ったら関係を会社にばらすって言われて」
「なら、やっぱり脅されて」
「途中からは、自分でやりました」
三崎は亮の言葉を遮った。
「仕組みが分かったから。あの人に言われていない金まで抜きました」
「どうして」
「お金が必要だったからです」
明快な答えだった。
「脅されて始めた。でも、途中からは自分でやった。だから、全部あの人のせいにはできません」
端末の資料にあった《再犯可能性74%》が浮かんだ。
組織は、この告白まで予測していたのだろうか。
「お金は、何に使ったんですか」
三崎は行き先を告げたときより、小さな声で答えた。
「母の施設費です」
*
三崎の母親は、五十代で若年性認知症を発症した。
父親はすでに亡くなり、ほかに頼れる親族はいない。公的施設は空きがなく、三崎は仕事を続けるため、母親を民間の介護施設へ入れた。
「月にいくらかかるんですか」
「三十万前後です。薬や検査が重なると、もっと」
「三崎さんの給料だけじゃ」
「足りません」
「だから会社の金を?」
「はい」
三崎は弁解しなかった。
八百四十万円の大半は、三年間の施設費と治療費へ消えている。資料にあった送金記録とも一致した。
だからといって、盗んでいい理由にはならない。
「会社のお金ですよね」
「分かってます」
「不正が公になったら、関係ない社員まで困るかもしれない」
「分かってます」
「だったら、どうするつもりなんですか」
三崎は黒い認証端末を取り出した。
「この中に、裏金の記録が入っています。南だけじゃない。役員も、経理部長も、関連会社も関わってる」
「それを、どうするんですか」
「弁護士に渡します。そのあと、報道にも」
「会社が潰れるかもしれませんよ」
「かもしれません」
「三崎さん自身も捕まる」
「そのつもりです」
タクシーは新青梅街道から住宅地へ入った。
介護施設までは、あと数分だった。
「全部話して自首すれば、それで終わると思ってるんですか」
「思ってません」
三崎の返事は早かった。
「私が返せるのは、残っているお金だけです。会社が受けた損害も、職を失う人の生活も、母が施設を出されたあとのことも、元には戻せない」
「それなら、黙ってた方が」
橋本へ言ったのと同じ言葉が、口から出かけた。
三崎は窓の外を見ながら言った。
「それを理由に黙ったら、私は母のために盗んだんじゃない」
「どういう意味ですか」
「自分が捕まりたくないから、また誰かを利用することになるってことです」
亮は答えなかった。
「でも、正しいことをしたいだけじゃありません」
三崎が続けた。
「南が何もなかったように家庭へ戻るのが許せない。私だけ捕まって、あの人がまた別の女に同じことをするのも」
「復讐ですか」
「そうです」
三崎は否定しなかった。
「母のため。罪を償うため。南を壊すため。全部です。どれが本当かって訊かれても、私にも分かりません」
亮はルームミラーを見た。
そこにいるのは、被害者だけではなかった。
横領した社員。母親を支える娘。不倫相手への復讐を望む女。会社の不正を告発しようとする共犯者。
どれか一つを選び、それだけを三崎唯だと呼ぶことはできなかった。
*
青葉ケアセンターは、住宅地の奥にある四階建ての施設だった。
玄関のガラス扉の向こうに、車椅子の女性が座っていた。職員が後ろから声をかけても、窓の外を見たまま動かない。
三崎が息を呑んだ。
「お母さんですか」
「はい」
タクシーを車寄せへ停める。
三崎は料金を支払ったあとも、すぐには降りなかった。
「須藤さん」
「はい」
「昨日、別れた方がいいって言いましたよね」
「言いました」
「今日も、同じですか」
南部長との関係だけなら、答えは変わらない。
だが今は、その関係を切ることが告発と自首につながっている。
「同じです」
亮は答えた。
「ただ、三崎さんがこれからすることが、正しいかは分かりません」
「私も分かりません」
三崎は黒い端末を握り、車を降りた。
玄関へ向かう。
ガラス扉が開くと、車椅子の女性が一度だけ三崎を見た。
三崎は笑いかけた。
母親は、その顔を知っているようにも、知らないようにも見えた。
決済端末が鳴った。
判定期限は残り一分を切っていた。
00:58。
画面に、三崎を生存させた場合の予測が表示される。
推定企業損失:八千六百万円。
推定失職者数:二十七人。
刑事事件化確率:91%。
対象者再犯可能性:74%。
組織推奨判定:処分。
二十七人。
亮はその数字を見た。
三崎を処分すれば、黒い端末も証拠も回収されるだろう。会社は残り、二十七人は仕事を失わずに済むかもしれない。
三崎の母親は、施設費を払う人間を失う。
不正に関わった南部長や役員は、そのまま会社に残る。
生存させれば、三崎は告発する。会社の不正は明らかになる。三崎自身も裁かれる。しかし、何も知らない社員まで巻き込まれる。
橋本のとき、亮は真実を話そうとした人間を消した。
小野寺と自分の仕事を守るために。
今回も同じ選択をすれば、残存価値は上がるかもしれない。報酬も入るかもしれない。
その考えが浮かんだ時点で、組織の推奨を正しいとは思えなくなった。
00:21。
亮は白い《生存》を押した。
確認画面が現れる。
対象:三崎唯。
判定:生存。
生存判定後に対象者が生じさせた社会的損失は、選定員の査定へ反映されます。
確定しますか。
《はい》と《いいえ》。
ガラス扉の向こうで、三崎が黒い認証端末を操作している。
誰かへデータを送信しているらしい。
亮は《はい》を押した。
*
送信を終えた三崎が、端末を胸元へ抱えた。
その向こうで、母親はまだ窓の外を見ている。
決済端末の画面が切り替わった。
判定:生存。
組織予測と不一致。
残存価値 78 → 64。
数字が赤く点滅した。
一度の選択で、十四ポイント下がった。
橋本を処分して得た六ポイントより、はるかに大きい。
次の表示が現れる。
対象者:三崎唯。
判定保証人:須藤亮。
追跡期間:無期限。
保証人。
亮はその言葉を読み返した。
処分を選んだ橋本との関係は、あの夜で終わった。
生存を選んだ三崎との関係は、これからも続く。
三崎が告発によって救う人間も、職を奪う人間も、再び罪を犯した場合の被害も、すべて亮の判定として記録される。
施設の玄関で、三崎が振り返った。
亮へ頭を下げる。
彼女は、自分が生かされたことを知らない。
亮は頭を下げ返すことができなかった。
三崎を生かしたのではない。
亮は、彼女がこれからすることの責任に、自分の名前を添えたのだ。




