第三話「乗客」
橋本が消えた翌朝、営業所では「自主退職」として処理されていた。亮の口座には処分報酬が振り込まれ、亮は迷いながら滞納家賃へ使う。その夜、上司との不倫に苦しむ三崎唯を乗せる。以前なら判断を避けた亮は、初めて「別れた方がいい」と断言する。だが降車後、三崎が次の判定対象として表示される。
橋本のマグカップだけが、机に残っていた。
白い陶器に、青い字で《安全第一》。取っ手の根元に茶色い染みがついている。昨日まで、橋本修一が毎朝使っていたものだった。
その隣には、読みかけの新聞と、封を切っていない胃薬。引き出しを開ければ、予備の老眼鏡まで入っていた。
私物は残っている。
名前だけが消えていた。
東西自動車・西早稲田営業所の事務所で、須藤亮は社員名簿を見つめていた。
担当課長の欄には、別の営業所から来たことになっている男の名前が表示されている。橋本修一という文字は、検索しても一件も出てこない。
「何調べてるの?」
事務員の吉岡に声をかけられ、亮は慌てて画面を閉じた。
「橋本さん、今日は休みですか」
「橋本さん?」
吉岡は一瞬だけ考え、それから思い出したように頷いた。
「ああ、橋本さんなら昨日付で自主退職したことになってるけど」
「なってる、って」
「私も今朝知ったのよ。ずいぶん急よね」
吉岡は橋本の机へ目をやった。
「荷物くらい片づけていけばいいのに。連絡もつかないし」
「橋本さんのこと、覚えてるんですか」
「何、その質問」
怪訝そうな顔をされ、亮は言葉に詰まった。
「いや……急に辞めたから」
「そりゃ覚えてるでしょ。昨日までいたんだから」
吉岡はそう答え、伝票の束を抱えて窓口へ戻っていった。
記憶は消えていない。
橋本と話したことも、説教されたことも、誰もが覚えている。ただ、記録の上では最初から社員ではなかったことになり、その矛盾を《急な自主退職》という言葉で埋められている。
「自主退職する人が、胃薬と老眼鏡を置いていくかよ」
背後で小野寺誠が言った。
亮は肩を震わせた。
「いつからいたんですか」
「マグカップを怖い顔で睨んでたところから」
小野寺は橋本の机へ近づき、新聞の発行日を確認した。
「昨日のだ。退職するつもりの人が、帰って続きを読む置き方してる」
「家に帰ってないんですかね」
「電話は止まってる。自宅にも行ったけど、誰もいなかった」
亮は小野寺を見た。
「家まで行ったんですか」
「放っておけるか」
小野寺はマグカップを手に取った。底には、乾いたコーヒーが黒い輪を作っている。
「昨日まで普通にいた人が、挨拶もなしに辞めるか?」
亮の頭に、白いバンへ乗せられた橋本の姿が浮かんだ。
社会登録の失効を確認しました。
これより移送手続きに入ります。
「須藤」
「はい」
「昨日、橋本さんを乗せただろ。そのあと、何か言ってなかったか」
事故の被害者へ会いに行くと言っていた。
アパート前で、すべての記録を失った。
自分が処分を押した。
「……特には」
「本当に?」
「はい。送って、そのまま別れました」
嘘ではなかった。
全部ではないだけだ。
小野寺は納得していない様子だったが、それ以上は訊かなかった。マグカップを元の位置へ戻し、橋本の机を離れる。
「俺、もう少し調べるから」
「何をですか」
「何で急に辞めたことになってるのか」
止めるべきだと思った。
小野寺まであの組織に目をつけられたら。
けれど、やめてくださいと言う理由を説明できない。
「無理しない方がいいですよ」
口から出たのは、また同じ言葉だった。
小野寺は振り返らなかった。
*
午前十一時過ぎ、上石神井の部屋へ戻ると、郵便受けに家賃の督促状が入っていた。
亮は封筒を持ったまま、狭い玄関に立っていた。
二ヶ月分、十二万四千円。
フリーターを辞めて東西自動車へ入社したものの、研修期間中の手当は少なく、まとまった給料が振り込まれるのは翌週だった。大家には一度待ってもらっている。
今月中に支払いがなければ、保証会社へ連絡する。
赤い字でそう書かれていた。
亮は督促状をテーブルへ置き、スマートフォンを開いた。
銀行から入金通知が来ている。
振込 十二万円。
振込元は《日本生活管理事務代行》。検索しても、同名の会社は出てこない。
決済端末に表示された報酬額と一致していた。
橋本一人で、百二十万円。
亮は口座の残高を見た。入金前は、一万八千四百三十二円。家賃を払えば、生活費さえほとんど残らない金額だった。
この金には触らない。
そう決め、別の口座へ移そうとした。
振込先を入力する途中で手が止まる。
別口座へ移したところで、受け取った事実は変わらない。
警察へ届けるとして、何と説明する。タクシーの端末で上司を処分したら、知らない会社から金が入ったと話すのか。
督促状の赤い文字が目に入った。
来週には給料が入る。それまで借りるだけだ。給料が入ったら、すぐに戻せばいい。
亮は自分へ言い聞かせた。
家賃の振込画面を開く。
十二万四千円。
暗証番号を入力する。
最後に《振込を実行する》というボタンが表示された。
橋本を処分したときと同じだった。
一度押し、確認画面でもう一度押す。
亮は、指を止めなかった。
振込が完了しました。
画面に表示された文字を見た瞬間、肩から力が抜けた。
部屋を追い出されずに済む。
安堵のあとに、胃の奥が重くなった。
人間一人で、家賃二ヶ月分。
残ったのは、一万四千四百三十二円だった。
*
次の乗務日、決済端末は何事もなかったように通常画面へ戻っていた。
料金、支払方法、決済完了。
見慣れた青い表示。
ただし、右下に小さく《78》という数字が残っている。
亮にしか見えない数字だった。
乗客が端末を見るたび、気づかれるのではないかと身構えた。だが誰も反応しない。クレジットカードをかざし、レシートを受け取り、普通に降りていく。
夜が深くなるにつれ、亮はその数字を確認する回数が増えた。
橋本を処分する前は72。
今は78。
何の価値かも分からないのに、減っていないことに安心していた。
午前一時を過ぎた頃、亮は東新宿の歌舞伎町口で手を挙げる女性を見つけた。
三十歳前後。黒いスーツの上にベージュのコートを羽織り、片手で大きめのバッグを抱えている。傘は持っていたが差しておらず、髪の先が雨に濡れていた。
後部座席のドアを開ける。
「中野新橋まで、お願いします」
「かしこまりました」
女性が乗り込み、ドアが閉まる。
亮はメーターを入れた。
端末の隅には、まだ78と表示されている。それ以外に変化はない。
職安通りを西へ進む。
後部座席から、スマートフォンの振動音が聞こえた。
女性は画面を確認し、すぐに伏せた。
一分もしないうちに、また鳴る。
ルームミラーへ一瞬だけ画面が映った。
南部長。
女性は出なかった。
三度目の着信で、電源を切る。
車内が静かになった。
「すみません」
女性が言った。
「いえ」
「うるさかったですよね」
「大丈夫ですよ」
女性は暗くなったスマートフォンを両手で握った。
信号が赤に変わり、車を止める。
「運転手さんは、仕事を辞めたいって思ったこと、ありますか」
亮はミラーを見た。
いつかの乗客と同じ問いだった。
「あります」
「今も?」
「そうですね。まだ、始めて一ヶ月なので」
「一ヶ月なら、引き返せますね」
「引き返したいんですか」
訊き返した自分に、亮は少し驚いた。
以前なら、相手が話し始めるまで待っていた。踏み込めば責任が生まれると思っていたからだ。
女性は、弱く笑った。
「引き返す場所なんて、もうないんですけどね」
信号が青になった。
車を進める。
女性は窓の外へ顔を向けたまま、少しずつ話し始めた。
「三年くらい、会社の上司と付き合ってるんです」
「上司の方は、結婚されてるんですか」
「はい。子どももいます」
言葉とは反対に、その声には罪を告白する響きがなかった。何度も自分の中で繰り返し、角がすり減った話のようだった。
「最初は、妻とはもう終わってるって言われました。子どもがもう少し大きくなったら離婚するって」
「それが、三年」
「馬鹿ですよね」
亮は答えなかった。
「最近になって、もう会わない方がいいって言われたんです。会社でも必要以上に話しかけるなって。向こうから始めたのに」
女性の指が、電源を切ったスマートフォンの縁をなぞった。
「でも、電話には出ないんですね」
「出たら、また同じことになるから」
「なら、出ない方がいいと思います」
「そうですよね」
彼女はそう言ったが、スマートフォンから手を離さなかった。
青梅街道へ入る。
車内に、別の通知音が鳴った。
女性は反射的に電源を入れた。画面上部に短い文章が表示される。
介護施設利用料のお支払い期限が近づいています。
女性はすぐに通知を消した。
その下に、新しいメッセージが届いた。
南部長。
データを消しておけ。
ミラーに映ったのは、一瞬だけだった。
「データって、何ですか」
女性の顔が上がった。
「見えたんですか」
「すみません。たまたま」
「仕事の話です」
「会社の?」
「私には関係ありません」
言い方が急に硬くなった。
亮はそれ以上訊かなかった。
しばらくして、女性の方から口を開いた。
「私は、あの人の出張も、会議も、家族旅行の日程も、全部知ってるんです」
「全部?」
「三年間、あの人が困らないようにしてきたから。会議資料を直したり、経費の数字を合わせたり。奥さんに怪しまれないように、ホテルの領収書も別の名目にした」
「それは、仕事としてですか」
「秘書じゃありません。ただ、私がやった方が早かったから」
女性は言い終えてから、自分が話しすぎたことに気づいたようだった。
「私が黙っていれば、あの人も会社も困らないんです」
「じゃあ、何で関係を終わらせたいんですか」
「もう、疲れたから」
女性の声が初めて揺れた。
「あの人のために嘘をつくのも、電話を待つのも、会えば嫌いだと思うのに離れられない自分も。全部、終わりにしたい」
鍋屋横丁の交差点を過ぎる。
中野新橋までは、もう遠くない。
「運転手さんなら、どうします?」
また、その問いだった。
橋本の声が頭に蘇る。
――須藤くんは、優しいな。誰も悪者にしない。
あのときの亮は、橋本に許可を与えた。何も決めないように見える言葉で、黙り続けることを後押しした。
曖昧に答えても、何も変わらない。
「別れた方がいいと思います」
女性が顔を上げた。
「その人が何を言っても、もう会わない方がいいです」
自分の声が、思っていたよりはっきりと車内へ響いた。
「ずいぶん、はっきり言うんですね」
「曖昧に答えても、何も変わらないので」
「でも、私が離れたら、困る人がいるかもしれない」
「それでもです」
「私が悪いことをしてたとしても?」
亮はミラーの中の女性を見た。
「続けたら、もっと悪くなるんじゃないですか」
女性は何も言わなかった。
亮も黙った。
断言したあとに残る沈黙は、曖昧な返事をしたときより重かった。
*
中野新橋駅前で車を停めた。
女性はクレジットカードで料金を支払い、亮からレシートを受け取った。
「ありがとうございました」
「いえ」
「名前、訊いてもいいですか」
「須藤です」
「須藤さん」
女性は一度だけ、その名前を確かめるように繰り返した。
「今度は、自分で終わらせます」
ドアを開ける。
女性は小さく頭を下げ、歩道へ降りた。
自動ドアを閉め、亮は空車表示へ戻した。
彼女は駅とは反対方向へ歩いていく。
その先に、黒いセダンが停まった。
後部座席ではなく、助手席のドアが内側から開く。
運転席の男が、こちらを向いた。五十歳前後。太い首に、仕立てのよいスーツ。女性のスマートフォンに表示されていた写真と同じ顔だった。
南部長。
女性は立ち止まった。
亮は無意識にハンドルを強く握った。
もう会わない方がいい。
今度は、自分で終わらせる。
女性は黒い車へ近づいた。
一度だけ振り返り、亮のタクシーを見た。
それから助手席へ乗り込んだ。
黒いセダンが走り去る。
亮は追わなかった。
追う理由も、権利もない。
それでも、自分の言葉が何の役にも立たなかったことに腹が立った。
気持ちを切り替えようと、後部座席を確認する。
シートとドアの隙間に、一枚のカードが落ちていた。
会社の入館証だった。
顔写真の下に、氏名が印字されている。
株式会社ミナミ商事。
経営管理部。
三崎唯。
「三崎……」
名前を声にした瞬間、決済端末が低く鳴った。
青い画面が左右に分かれる。
白と黒。
入館証と同じ顔写真が、端末の中央へ表示された。
対象:三崎唯。
判定期限:72時間。
生存。
処分。
選定員:須藤亮。
残存価値:78。
さらに、橋本のときにはなかった項目が追加されている。
対象者資料:閲覧可能。
その下には、注意書き。
閲覧行為も査定対象となります。
72:00:00。
71:59:59。
また数字が動き始めた。
亮は、手の中の入館証と画面の顔を見比べた。
別れた方がいいと決めたのは亮だった。
だが、三崎を生かすかどうかまで決めろとは、誰も頼んでいなかった。




