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第二話「選択」

決済端末に現れた「生存/処分」を悪戯だと思おうとする亮。しかし橋本が隠蔽した事故には、先輩・小野寺も関与していた。橋本が遺族へ真実を話せば、小野寺や営業所の運転手たちまで職を失うかもしれない。期限直前、橋本は告白を決意する。亮はその未来を止めるため、自分の意思で「処分」を押す。

 71:59:41。


 数字は、一秒ずつ確実に減っていた。


 須藤亮は、タクシーの運転席で決済端末を見つめていた。


 白い側には《生存》。黒い側には《処分》。中央上部には、つい先ほどまで後部座席にいた橋本修一の顔写真が表示されている。


 選定員:須藤亮。


 残存価値:72。


「意味分かんないだろ……」


 誰もいない車内で声に出してみても、画面は変わらなかった。


 亮はエンジンを切った。


 メーター、空調、無線機。車内の機器が順番に暗くなる。最後に決済端末も消えた。


 息を吐く。


 寝不足で妙なものを見た。それだけだ。


 数秒待ってから、もう一度エンジンをかける。


 各機器が起動し、決済端末に会社のロゴが現れた。いつもの青い精算画面へ切り替わる。


 やはり疲れている。


 そう思った瞬間、画面の中央へ細い黒線が走った。


 青い背景が左右に割れ、白と黒に塗り替えられる。


 71:58:52。


 カウントは、端末を消していた時間も進んでいた。


 亮は業務用のスマートフォンを取り出し、画面へ向けた。写真を撮る。保存された画像を開く。


 写っていたのは、通常の運賃精算画面だった。


「は?」


 端末を直接見れば、橋本の顔がある。スマートフォンの画面越しに見ると、青い精算画面しかない。


 動画へ切り替えても同じだった。


 亮は《生存》へ指を近づけた。


 指先が画面へ触れる寸前で止める。


 押したらどうなる。


 生存とは何だ。処分とは何だ。残存価値とは、誰のつけた数字だ。


 何一つ分からない。


 橋本の姿が消えた曲がり角には、もう誰もいなかった。


 亮は端末から目を離し、営業所へ車を戻した。


     *


「何も出てないぞ」


 小野寺誠は、助手席側から決済端末を覗き込んだ。


「ここです。画面が二つに分かれてて、橋本さんの顔が」


「普通の精算画面だろ」


「僕には見えてるんです」


「須藤。お前、最後に寝たのいつだ」


「昨日の朝ですけど」


「帰れ」


 小野寺は即答した。


「でも、本当に」


「十九時間乗ったあとに、さらに橋本さん送ったんだろ。脳みそが営業終了してる」


 小野寺が端末を二度叩く。亮には、叩かれた白黒の画面がわずかに揺れたように見えた。


「今ぶつけましたよね」


「端末はここだ。当たり前だろ」


「じゃあ、何で見えないんですか」


「俺が訊きたいよ」


 小野寺は眉間に皺を寄せ、今度は亮の顔を覗き込んだ。


「熱はなさそうだな。運転して帰るなよ。電車で帰って寝ろ」


 心配されている。それが分かったから、亮はそれ以上説明できなかった。


 判定画面は、営業所の中でも消えなかった。


 車から離れている間は直接見えない。それでも、そこに残っているという確信だけがあった。


 更衣室で着替えながら、亮は小野寺の言葉を思い出した。


 ――俺は、借りがでかすぎる。


「小野寺さん」


「まだいたのか」


 小野寺はロッカーへ制服を押し込んでいた。


「橋本さんに、どんな借りがあるんですか」


 扉を閉める手が止まった。


「急に何だよ」


「送ってるとき、昔の事故の話を聞きました」


 小野寺の顔から眠気が消えた。


「どこまで聞いた」


「運転手が持病を隠してたこと。橋本さんたちが、健康診断の記録を書き換えたこと」


 小野寺は更衣室の入り口を見た。人がいないことを確かめ、長椅子へ腰を下ろす。


「その話、他の奴にしたか」


「してません」


「するなよ」


 低い声だった。


「小野寺さんも関わってたんですか」


 しばらく返事はなかった。


 換気扇の回る音だけが、狭い更衣室に響いていた。


「俺が点検した」


 やがて小野寺が言った。


「事故を起こした人の、出庫前点検。俺が二十四のときだ」


「体調が悪いって、知ってたんですか」


「顔色がおかしいのは分かってた。手も震えてた。でも本人が大丈夫だって言った。今日休んだら営収が足りない、女房の治療費が払えないって」


 小野寺は両手を組み、指の節を見つめた。


「俺も新人だった。先輩に強く言えなかった。それで、点検表に問題なしって書いた」


 前日の亮と同じだった。


 断れないまま、相手の望む言葉を書く。


「事故のあと、橋本さんが記録から俺の名前を外した。点検は課長判断で省略したことにして、自分が責任をかぶった」


「どうして、そこまで」


「俺に小さい娘がいたからだよ。離婚したばかりで、養育費もあった。あの人に言われた。お前まで仕事を失って、誰が得するんだって」


 小野寺は乾いた笑いを漏らした。


「あの人がいなければ、俺は二十四でこの仕事を追われてた」


「でも、事故に遭った人は」


「分かってる」


 小野寺が亮を見た。


「分かってるから、終わった話にするしかなかったんだ」


     *


 上石神井の部屋へ帰っても、亮は眠れなかった。


 カーテンを閉め、ベッドへ横になる。目を閉じると、白と黒に分かれた画面が浮かんだ。


 橋本を生存させるか、処分するか。


 そもそも、生きている人間を生存させるとはどういう意味なのか。


 処分を押せば、橋本が殺されるのか。


 馬鹿げている。誰かの悪戯だ。そう考えるたび、小野寺には見えなかった画面と、写真には写らなかった橋本の顔が戻ってきた。


 昼過ぎ、亮は起き上がった。


 スマートフォンで、十年前のタクシー事故を検索する。


 橋本から聞いた条件をいくつか組み合わせると、小さな地方欄の記事が見つかった。


 西早稲田。タクシーと自転車の接触。四十三歳の女性が重傷。運転手の過失は限定的で、会社側と示談が成立。


 記事はそれだけだった。


 被害者の名前で検索すると、数年後の記事が出てきた。交通事故被害者の家族を扱った短いインタビューだった。


 女性の左脚には障害が残った。夫は介護と仕事を両立できず、数年後に離婚。当時中学生だった娘は、高校卒業後の進学を諦めて働き始めた。


 記事の中で娘は、補償が十分ではなかったと語っている。


 事故に遭わなければあったはずの人生。


 橋本が守った運転手の息子は大学へ進み、事故に遭った女性の娘は進学を諦めた。


 片方を守ったことで、もう片方が失った。


 亮は記事を閉じた。


 翌朝、営業所へ早めに向かった。


 休憩室の奥に、古い事故報告書を保管した棚がある。新人が勝手に見るものではないが、鍵はかかっていなかった。


 該当する年度のファイルを開く。


 公式記録には、運転手の健康状態について何も書かれていなかった。点検担当者の欄も空白。事故原因は、自転車側の安全確認不足と濡れた路面、とだけ記されている。


 最後のページに、示談成立を示す印が押されていた。


 きれいに終わった事故だった。


 書類だけを読めば。


 そのとき、駐車場から電子音が聞こえた。


 亮のタクシーは、エンジンを切ったまま停まっている。


 運転席へ戻ると、判定画面に新しい文章が追加されていた。


 対象者情報の閲覧を確認。


 判定期限まで48時間。


 亮は反射的に周囲を見た。


 車の下。向かいの建物。電柱の防犯カメラ。営業所の窓。


 どこから見られているのか分からない。


 だが、自分が何を調べたかまで知られている。


     *


 期限まで二十時間を切った夜、亮の車へ一件の指名配車が入った。


 迎車先は、西早稲田営業所。


 乗客名は橋本修一。


 亮は配車画面を二度見た。


 営業所へ戻ると、橋本が正面玄関の前に立っていた。いつもの鞄と、あの封筒を持っている。


「悪いな、また須藤くんで」


「どちらまでですか」


 橋本は住所を告げた。


 練馬区の古いアパート。亮が調べた、事故被害者の娘の住所と同じ町名だった。


「話しに行くんですか」


 橋本は後部座席へ乗り、ドアが閉まってから答えた。


「そのつもりだ」


 メーターを入れる。


 端末には一瞬だけ通常の運賃画面が映り、その上から判定画面が重なった。


 19:42:16。


 橋本は何も気づいていない。


 亮は車を発進させた。


「昨日は、黙ってた方がいいって言いましたけど」


「ああ」


「何で、話すことにしたんですか」


「君にそう言ってもらって、ほっとしたからだよ」


 橋本は封筒を膝の上へ置いた。


「これで黙っていられる、と思った。その瞬間、自分が相談したかったんじゃないって分かった」


「どういう意味ですか」


「黙ってていいって、誰かに許してほしかっただけだ」


 亮はハンドルを握る手に力を込めた。


「でも、今さら話しても、被害者の人が楽になるとは限りません」


「そうだな」


「会社だって責任を問われます。営業所がなくなったら、関係ない運転手まで仕事を失うかもしれない」


「それも分かってる」


「小野寺さんも」


 橋本の目が、ミラーの中で亮を捉えた。


「聞いたのか」


「点検を担当してたって」


「あいつの名前は出さない。全部、俺が指示したことにする」


「そんなの、調べたら分かりますよ」


「それでも、最初に話すのは俺だ」


 橋本の声は静かだった。


 亮は次の言葉を探した。


 橋本を止めるための言葉。正しいように聞こえ、自分が責任を負わずに済む言葉。


 だが、何を言っても自分の都合が透けて見えた。


 この仕事を失いたくない。


 入社一ヶ月で、また無職へ戻りたくない。


 小野寺を失いたくない。


 橋本は窓の外を見ながら言った。


「誰かを守るっていうのは、代わりに傷つける人間を決めることなのかもしれないな」


 雨は降っていなかった。


 それでも道路にはところどころ水が残り、対向車のライトを歪めている。


 目的地のアパートが見えてきた。


 亮は速度を落とした。


「須藤くん」


「はい」


「俺は、話すべきだと思うか」


 また、答えを求められた。


 前夜なら、最後は橋本が決めることだと言って逃げたはずだった。


 しかし今は、その決定に自分の生活も、小野寺の人生もつながっている。


 亮は答えないまま、アパート前へ車を停めた。


「……ありがとう」


 橋本は料金を払い、封筒を持って降りた。


     *


 橋本がアパートの外階段へ向かう。


 決済端末の数字は、残り三分を切っていた。


 02:51。


 白い《生存》を押せば、橋本はあの部屋へ行く。


 過去を話す。被害者の娘は真実を知る。会社は調査される。小野寺の関与も明らかになるかもしれない。


 黒い《処分》を押せば、何が起こるか分からない。


 それでも、この告白を止められるかもしれない。


 橋本は階段を上がっている。


 亮の指が、黒い画面の上へ動いた。


 触れる直前で止まる。


 人間を処分する。


 そんなことが本当にできるはずがない。これは選択ではない。ただの画面だ。押したところで何も起こらない。


 そう思おうとした。


 小野寺が精算機を直してくれた手が浮かんだ。


 ――辞めたいなら辞めろ。続けたいなら、今日の失敗くらい自分で取り返せ。


 自分に初めて、曖昧ではない言葉をくれた人だった。


 橋本が二階へ着く。


 01:04。


 廊下を進み、一番奥の部屋の前で立ち止まる。


 00:23。


 橋本がインターホンへ手を伸ばす。


 00:10。


 亮は《処分》を押した。


 画面が切り替わる。


 対象:橋本修一。


 判定:処分。


 この選択は取り消せません。


 確定しますか。


 《はい》と《いいえ》。


 まだ戻れる。


 橋本の指が、インターホンに触れた。


 亮は《はい》を押した。


 端末が低い音を鳴らした。


     *


 橋本が押したインターホンから、機械音声が流れた。


『登録されていない訪問者です』


 橋本が顔を上げた。


 もう一度押す。


『登録されていない訪問者です』


 鞄からスマートフォンを取り出し、電話をかける。


 すぐに耳から離し、画面を確認した。何度操作しても、発信できないらしい。


 橋本が階段を下りてきた。


「須藤くん、まだいたのか」


 声に困惑が混じっていた。


「電話が急に使えなくなってな。悪いけど、少し貸してくれないか」


 亮は自分のスマートフォンを渡した。


 橋本が番号を入力する。


 呼び出し音は鳴った。相手が出ないまま、留守番電話へ切り替わる。


「番号は合ってるのに」


 橋本が自分の端末を見つめる。


 画面上部には《契約情報を確認できません》と表示されていた。


「橋本さん、社員証は」


「社員証?」


「見せてもらえますか」


 理由を説明できなかった。それでも橋本は財布から社員証を出した。


 顔写真は残っている。だが、その下に印字されていたはずの氏名と社員番号が白く抜け落ちていた。


「何だ、これ」


 橋本が財布のカードを一枚ずつ確認する。


 銀行のキャッシュカード。健康保険証。運転免許証。


 どれも見た目は変わらない。


 だがスマートフォンへかざすと、すべて《登録なし》と表示された。


「会社に電話する」


 橋本が亮の端末で営業所の番号へかけた。


 事務員が出たらしい。


「俺だ、橋本だ。社員名簿を確認してくれ。いや、冗談じゃない。橋本修一。担当課長の――」


 橋本の言葉が止まった。


「いないって、どういうことだ。俺は三十年以上、あそこで……」


 通話が切れた。


 橋本はスマートフォンを握ったまま、亮を見た。


「須藤くん。俺は今、誰と話してた」


 答えられなかった。


 白いバンが、通りの角から入ってきた。


 会社名もロゴもない。ヘッドライトを落とし、亮のタクシーの前へ静かに停まる。


 運転席から男が一人、助手席から女が一人降りてきた。


 二人とも、作業着でも制服でもない。役所の窓口にいても、保険会社の営業にいてもおかしくない服装だった。


 女は三十代前半に見えた。黒い髪を後ろで束ね、薄い灰色のコートを着ている。手には小型の端末。


「橋本修一さんですね」


「あんたたちは誰だ」


 女は橋本の問いには答えず、端末を確認した。


「社会登録の失効を確認しました。これより移送手続きに入ります」


「失効? 何の話をしてる」


「戸籍、住民記録、雇用記録、金融契約、保険資格、通信契約。いずれも処理済みです」


「待て。勝手にそんなことができるわけ――」


「ご説明は移送後に行います」


 男がバンの後部ドアを開けた。


 橋本は一歩下がった。しかし逃げる先を探すより先に、自分の名前が消えた社員証を見た。


 それから、亮のタクシーへ顔を向けた。


 目が合った。


 亮は視線を逸らせなかった。


 橋本は何も尋ねなかった。


 ただ、前夜タクシーを降りたときと同じように、小さく頭を下げた。


 男に促され、白いバンへ乗る。


 後部ドアが閉まった。


 バンが走り去るまで、女だけがその場に残った。


 彼女は亮の方へ歩いてきた。


「須藤亮さん」


 自分の名前を呼ばれ、喉が縮んだ。


「……誰ですか」


「監査担当の黒瀬です」


「橋本さんを、どこへ連れていくんですか」


「現段階でお伝えできる情報ではありません」


「殺すんですか」


「処分と殺害は同義ではありません」


 黒瀬は抑揚を変えずに答えた。


「ただし、橋本修一さんは、これまでと同じ社会生活へ戻ることはできません」


 亮はハンドルの上の両手を見た。


「僕が押したからですか」


「はい」


 即答だった。


「あなたが二度、処分を確定しました」


 言い逃れのできない言い方だった。


「何で、僕なんですか」


「今回の判定は完了しています」


 黒瀬はそれだけ告げ、バンが消えた方向へ歩いていった。


 亮は呼び止められなかった。


 車内で、決済端末が鳴る。


 白と黒の画面は消えていた。


 代わりに、結果が表示されている。


 対象:橋本修一。


 判定:処分。


 組織予測と一致。


 残存価値 72 → 78。


 その下に、報酬額が示されていた。


 亮の一ヶ月分の家賃より多い金額だった。


 橋本を消した。


 被害者の娘が真実を知る機会も消した。


 それなのに亮は、自分が正しかったのかではなく、六ポイント上がったことに安堵していた。

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