第一話「アドバイス」
他人に嫌われることを恐れ、無難な助言で逃げてきた新米タクシー運転手・須藤亮。帰庫直前、説教好きの課長・橋本を自宅まで乗せることになる。車内で橋本は、過去に部下の事故を揉み消したと告白し、「今から公表すべきか」と尋ねる。亮が曖昧な助言を返して橋本を降ろすと、決済端末に「生存/処分」の二択が現れる。
「運転手さんなら、どうします?」
後部座席の男にそう訊かれたとき、須藤亮はルームミラーから目を逸らした。
午前三時四十二分。雨の上がったばかりの早稲田通りは、街灯やコンビニの光を濡れた路面に細長く引き延ばしている。ワイパーはもう止めていたが、フロントガラスの隅では、拭い残した水滴が小刻みに震えていた。
客は亮と同じくらいの年に見えた。濃紺のスーツに、膝の上のビジネスバッグ。乗ってきたときから酒の匂いはせず、代わりに何度もスマートフォンを裏返していた。
「会社、辞めようと思ってるんです」
東新宿で乗車して十分ほど経った頃、男は唐突にそう言った。
「今日、上司に話すつもりだったんですけど。結局、言えなくて」
「そうだったんですか」
「転職先が決まってるわけでもないんです。貯金もそんなにないし。でも、このまま続けてたら、たぶん壊れる気がして」
そこまで話したあと、男は自嘲するように笑った。
「すみません。タクシーの運転手さんにする話じゃないですよね」
「いえ。夜中は、そういうお話をされるお客さんも多いので」
実際には、亮が運転手になってまだ一ヶ月しか経っていない。深夜の乗客が何を話すか、傾向を語れるほどの経験はなかった。ただ、相手が恥ずかしそうにしたときは、こう答えると安心する。研修で教わったわけではない。昔から自然に身につけてきたやり方だった。
否定しない。肯定もしない。
相手が欲しがっている表情だけを返す。
「運転手さんは、仕事、辞めたいと思ったことあります?」
「ありますよ」
入社して一ヶ月。そのうち二十日は辞めたいと思っている。
「じゃあ、辞めます?」
「いや、まだ分からないですね」
「ですよね」
男は窓の外へ顔を向けた。濡れたガードレールが流れていく。
「運転手さんなら、どうします?」
赤信号だった。
亮はブレーキを踏み、停止線の手前で車を止めた。メーターだけが、運賃を無機質に加算している。
辞めた方がいい、と言って、この男が明日から生活に困ったら。
続けた方がいい、と言って、本当に壊れてしまったら。
どちらを答えても、責任は取れない。
「無理はしない方がいいと思います」
亮は慎重に言葉を選んだ。
「ただ、最後はご本人が決めることなので」
「……そうですよね」
男は小さく頷いた。
「ありがとうございます。なんか、少し楽になりました」
信号が青に変わる。
亮はアクセルを踏んだ。何も決めていない言葉で相手が安心したことに、自分も安心していた。
*
西早稲田の営業所へ車を入れたのは、午前四時を七分ほど過ぎた頃だった。
出庫したのは前日の朝八時。途中で仮眠は取ったものの、体の内側には十九時間分の疲労が沈んでいる。目の奥が熱く、首を回すと骨の間で乾いた音がした。
亮は洗車スペースでボディを確認し、後部座席のシートベルトを直した。忘れ物がないことを確かめてから、精算機へ売上データを送る。
終了を示すはずの電子音が鳴らなかった。
「あれ」
画面には、《処理中》という表示が浮かんだままだった。
もう一度ボタンを押す。反応はない。
「連打すんな。余計に止まるぞ」
背後から伸びてきた手が、亮の指を精算機から遠ざけた。
小野寺誠だった。三十四歳。亮の教育係を務める先輩運転手で、伸びかけた髭と眠そうな目のせいで、実際よりいくらか老けて見える。
「昨日も教えただろ。先に回送へ切り替えてから送信」
「すみません」
「俺に謝っても機械は動かない」
小野寺が運転席へ半身を入れ、ハンドル脇のスイッチを操作する。表示灯が《賃走》から《回送》へ変わった。精算機のエラーが消え、今度こそ短い電子音が鳴る。
「これで終わり」
「ありがとうございます」
「須藤さ」
小野寺は運転席から体を抜きながら、呆れた顔で亮を見た。
「一ヶ月目だから失敗するのはいいんだよ。毎回『すみません』で終わらせるの、やめた方がいいぞ」
「……はい」
「ほら、それ」
言われている意味が分からず、亮は黙った。
小野寺が盛大に欠伸をする。
「どうよ。この仕事。そろそろ嫌になった?」
「まあ……ちょっと、続けられるかは分からないです」
「辞めたいなら辞めろ。続けたいなら、今日の失敗くらい自分で取り返せ」
あまりにも簡単に言われ、亮は返事に困った。
「そんな、すぐ決められないですよ」
「じゃあ、決まるまでは働け」
「雑ですね」
「お前が他人に決めてもらおうとするからだよ」
小野寺は亮の肩を軽く叩き、自分の車へ戻っていった。
乱暴だが、不快ではなかった。少なくとも小野寺は、あとになって「そんなつもりで言ったんじゃない」と逃げない。亮にはできない話し方だった。
事務所へ入り、売上金を納める。日報の升目を埋め始めたところで、裏口の戸が軋んだ。
「お、須藤くん。ちょうどよかった」
顔を上げなくても分かった。
担当課長の橋本修一。六十一歳。毎朝この時間になると、帰庫した運転手を捕まえては、仕事や家庭について長々と話す。酒を飲んでいるわけでもないのに話題が同じ場所を何周もするため、同僚たちからは陰で《早朝ラジオ》と呼ばれていた。
「運転、慣れたか」
「まだまだですね」
「焦らなくていい。最初の三ヶ月で辞める新人が一番多いんだ。逆に三ヶ月を越えれば、大抵は続く」
「そうなんですか」
橋本は空いている椅子を引き寄せ、亮の隣に腰を下ろした。
「聞いたぞ。仕事を続けるか迷ってるんだって?」
日報を書く手が止まりかけた。
「誰から聞いたんですか」
「誰だっていいだろ。狭い営業所なんだから」
昨夜、休憩室で同僚へ漏らした一言が、もう課長へ届いている。監視されているわけではない。それでも自分の知らないところで話が回っていることが気持ち悪かった。
「須藤くんね、辞めない方がいい」
「……そうですかね」
「前職はフリーターだったんだろ。二十五で初めての正社員なら、ここで踏ん張った方がいい。若いうちの遠回りは取り返せるって言うけどな、二十五からの遠回りは、思ってるより長いぞ」
目の奥の熱が増していく。
今、自分に必要なのは人生訓ではなく、風呂と睡眠だった。
「はい」
「この仕事は、やった分だけ数字になる。学歴も前職も関係ない。須藤くんみたいな子には向いてるよ」
「そうかもしれませんね」
橋本は満足そうに頷いた。
そのとき、橋本の視線が日報へ落ちた。
「ちょっと待て。最後の客、降車時刻が入ってないぞ」
亮の背中に冷たいものが走った。
確認すると、確かに空欄だった。売上データと日報が一致しなければ、事務から差し戻される。新人の記載漏れとして担当課長にも報告が上がるはずだった。
「すみません」
「謝る前に直せ。配車履歴を出せば時刻は分かる」
橋本は事務所の端末を操作し、該当する履歴を呼び出した。亮が時刻を記入すると、その日報を手に取って確認印を押す。
「今日のところは、俺の確認で直したことにしておく。次から気をつけろよ」
「ありがとうございます」
「新人の失敗を拾うのが俺の仕事だからな」
さっきまでの説教がなければ、素直に礼を言えたかもしれない。
橋本は腕時計を見た。
「須藤くん、まだ帰庫処理してないよな」
「はい。精算は終わりましたけど」
「悪いが、俺を家まで送ってくれないか。もちろん営業扱いでいい。腰が痛くて、駅まで歩くのがつらいんだ」
一度送れば、また頼まれるかもしれない。
規則違反ではない。料金も会社へ入る。断る理由を探しているうちに、橋本はすでに自分の鞄を持ち上げていた。
「分かりました」
亮が答えると、少し離れた机で日報を書いていた小野寺が顔を上げた。
「橋本さん。須藤はもう十九時間乗ってますよ」
「神田川沿いまでだ。十分もかからない」
「十分で帰れる距離なら、ご自分で歩いたらどうです」
「小野寺、お前には頼んでない」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
亮は慌てて笑った。
「大丈夫ですよ。ちょうど、もう少し運転しておきたかったので」
そんなことは思っていなかった。
小野寺は亮を見た。橋本ではなく、亮だけを見ていた。
「嫌なら断れよ」
橋本に聞こえない程度の声だった。
「あの人は、断らない奴を選んで頼むからな」
亮は曖昧に笑い、車のキーを握った。
*
橋本は後部座席の左側へ座った。
客として乗せるのは初めてだった。運転席と事務所で向かい合っていたときより、ルームミラーの中にいる橋本は小さく見えた。
「神田川沿いの遊歩道、分かるか」
「はい」
「新目白通りへ出てくれ」
メーターを入れ、営業所を出る。
雨雲の向こうで空がわずかに薄くなっていた。始発前の街には、新聞配達のバイクと空車のタクシーしかいない。
「小野寺は、相変わらずだな」
橋本が言った。
「いい先輩です」
「いい先輩、ね」
何か含みのある言い方だった。
「あいつは正しいことを言う。正しいことを言えば、自分は悪くないと思ってる」
「橋本さんと、何かあったんですか」
「昔の話だよ」
橋本は窓の外を見た。
車内に、タイヤが水を切る音だけが残る。
新目白通りへ入ったところで、橋本が再び口を開いた。
「須藤くん。仮の話として聞いてくれ」
「はい」
「昔、ある運転手が人身事故を起こした。六十手前で、女房は病気。息子はまだ高校生だった」
橋本の声から、いつもの説教じみた調子が消えていた。
「事故そのものは、飛び出してきた自転車との接触だった。だが、調べたら運転手に持病が見つかった。本人は会社に隠してた。報告すれば免許も仕事も失う。会社も管理責任を問われる」
「それで、どうしたんですか」
「健康診断の記録を書き換えた」
亮はミラーを見た。
橋本の顔は、街灯が通り過ぎるたびに明るくなり、また暗く沈んだ。
「俺と、当時の所長でな。事故は単純な接触事故として処理した。運転手はそのあとも働いて、息子を大学まで出した」
「相手の人は」
「脚に障害が残った。持病を隠してたことが分かっていれば、会社からもっと補償を取れたかもしれない」
亮はアクセルから少し足を浮かせた。
「それ、仮の話じゃないですよね」
橋本は答えなかった。
代わりに鞄を開け、一通の封筒を取り出した。封は切られている。差出人の名前までは見えなかったが、宛名には確かに《橋本修一様》と書かれていた。
「被害者の娘さんからだ。最近、当時の診断記録におかしな点があると気づいたらしい。知っていることを話してほしい、と」
「話すんですか」
「話せば、もう退職した人間の家族まで巻き込む。会社だってただじゃ済まない。この営業所がなくなれば、何十人も仕事を失う」
橋本は封筒を鞄へ戻した。
「だが、黙っていれば、被害者の家族は一生、何も知らないままだ」
ルームミラーの中で、橋本と目が合った。
「須藤くんは、どう思う」
「僕が決めることじゃないですよ」
「決めろとは言ってない。意見を聞いてる」
「でも、詳しい事情も知らないですし」
「知ってることだけで答えてくれればいい」
逃げ道を、一つずつ塞がれていく。
亮は前を向いた。信号は青。車を止める理由はなかった。
公表した方がいい。
頭に最初に浮かんだのは、その答えだった。不正は正されるべきだ。被害者には真実を知る権利がある。
しかし、それを口にして橋本が本当に公表したら。
営業所がなくなるかもしれない。小野寺も、自分も、仕事を失うかもしれない。元運転手の家族が、十年以上前の不正を突然背負わされるかもしれない。
逆に、黙っていた方がいいと答えれば。
亮の言葉が、橋本に隠し続ける理由を与える。
「もう終わったことなら……」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
「今さら掘り返さなくても、いいんじゃないですか」
橋本は何も言わない。
「橋本さんだけの問題じゃないと思うので。関係してる人が多いなら、橋本さん一人が今さら全部背負っても……誰かが得するわけじゃないですし」
言い終える頃には、橋本の自宅前へ着いていた。
亮は車を路肩へ寄せ、メーターを止めた。
「そうか」
橋本は料金を支払い、ドアへ手をかけた。
降りる直前、ミラー越しに亮を見る。
「須藤くんは、優しいな」
「そんなことないですよ」
「誰も悪者にしない」
自動ドアが開く。
橋本は雨の匂いが残る歩道へ降りた。
*
空車表示へ戻そうとしたところで、業務用のスマートフォンが鳴った。
小野寺からだった。
「もしもし」
『まだ橋本さんと一緒か』
「今、降ろしたところです」
『そうか。じゃあ、別にいいんだけど』
言いながら、小野寺は切ろうとしなかった。
「何ですか」
『お前の日報。最後の時刻、抜けてただろ』
「はい。橋本さんに直してもらいました」
『あの人、自分の確認漏れとして事務に出してたぞ。新人の記載ミスにすると、お前の指導記録に残るからって』
亮は歩道の橋本を見た。
橋本は十メートルほど先で立ち止まり、古い集合住宅を見上げていた。背中が、事務所で見ていたときより小さかった。
「そうなんですか」
『説教は長いし、頼み事は断らない奴に押しつける。面倒な人だよ。でもな』
電話の向こうで、小野寺が息を吐いた。
『あの人に一度も助けられてない運転手、この営業所にはいないよ』
「小野寺さんも?」
わずかな間があった。
『俺は、借りがでかすぎる』
それだけ言うと、通話は切れた。
橋本がこちらを振り返った。
亮は反射的に頭を下げた。
橋本も小さく片手を上げ、歩き出す。曲がり角の向こうへ姿が消えるまで、亮はその背中を見送った。
不正を隠した男。
多くの運転手を守ってきた男。
どちらも同じ橋本修一だった。
車内で、電子音が鳴った。
決済端末からだった。
精算処理が残っていたのかと思い、画面へ目を向ける。
いつもの運賃表示が消えていた。
画面が、中央から二つに分かれている。
左半分は白。右半分は黒。
上部に、橋本の顔写真が表示されていた。社員証に使われているものだ。いつ撮影されたのか、名前も年齢も、その下へ正確に並んでいる。
橋本修一 六十一歳。
その下に、見慣れない文字があった。
対象者。
「……何だ、これ」
白い側には《生存》。黒い側には《処分》。
画面の最下部には、さらに小さな文字が表示されていた。
選定員:須藤亮。
残存価値:72。
亮は端末へ手を伸ばした。
指先が画面へ触れる直前、表示が切り替わる。
判定期限:72時間。
数字の最後の一桁が動いた。
71:59:59。
71:59:58。
カウントが始まっていた。
亮は顔を上げた。
歩道にも、集合住宅の入り口にも、橋本の姿はない。
明け方の薄い光の中、空車の表示灯だけが、誰も乗っていない後部座席を赤く照らしていた。




