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第三十四話「登録」

点検まで、あと一日。再評価まで、あと二日。二つの期限が、目前まで迫っていた。


スマートフォンは自宅にある。換気扇のカバーの裏、証拠の一覧と並べて。会社の敷地内に、亮の側から持ち込んだ危険なものは、もう何もないはずだった。それでも、確認したはずの安心は、長くは続かなかった。何か見落としているのではないか、という疑いだけが、ずっと胸の底に残り続けていた。


睡眠不足のまま迎えた朝は、いつもより長く感じられた。乗務の合間、信号待ちのたびにミラーを覗く癖も、もう指摘されなくても分かるくらい、身についてしまっていた。


午前中に乗せた中年の男は、行き先を告げたあと、終始無言で窓の外を眺めていた。降りるとき、釣り銭を受け取らず、そのまま立ち去ろうとした。呼び止めると、男は一瞬だけ振り返り、「取っておいてください」とだけ言って、足早に離れていった。観察者なのか、単に急いでいただけなのか、亮にはもう判断のしようがなかった。判断できないことへの疲労だけが、着実に積み重なっていった。


今日一日を、何とか無事にやり過ごせば、明日は点検だけを乗り切ればいい。そう自分に言い聞かせながら、亮は営業所へ戻ってきた。


昼過ぎ、次の依頼が入るまでの空き時間、亮は営業所の休憩スペースで、缶コーヒーを片手に壁際のベンチに座っていた。目の前の壁には、額に入った書類が何枚か並んでいる。運輸支局への届出票、事業許可証、代表者の名前が書かれた古い証書。何百回とこの前を通り過ぎてきたはずなのに、亮はこれまで、その中身を一度もまともに読んだことがなかった。


何をするでもなく、亮は初めて、その文字を目で追った。


一般乗用旅客自動車運送事業。許可番号。主たる事務所の所在地。代表者氏名。そして、事業者名。


《共栄運輸株式会社》


亮は、缶コーヒーを持つ手を止めた。


――運輸株式会社。


昨夜、決済端末の画面に浮かんだ、文字化けした社名の断片が、頭の中で一瞬にして像を結んだ。末尾の五文字は、完全に一致していた。


心臓が、大きく音を立てた。


見間違いではないか、と何度も文字を追い直した。だが、額の中の文字は、何度見ても同じだった。共栄運輸株式会社。この営業所の正式名称は、まさにその五文字で終わっていた。


偶然、とは思えなかった。あの番号の持ち主は、抹消される前、この会社――もしかしたら、この営業所そのものに、勤めていた可能性がある。黒瀬の弟。小野寺の言う「潰れていった奴」。そして今、額の中の書類に書かれた社名と繋がった、名前を失った誰か。バラバラに散らばっていたはずの糸が、同じ一点に向かって、急速に手繰り寄せられていく感覚があった。


もし、この会社に勤めていたのだとすれば、小野寺が当時から在籍していた可能性も、十分にある。小野寺の語らなかった「今」の答えが、この場所と直接繋がっているのかもしれない。だとすれば、あの忠告のメッセージは、赤の他人からの善意ではなく、もっと近い場所――同じ空気を吸っていた誰かからの、最後の警告だったのだろうか。


いつからこの会社に勤めていたのか。何年前の登録なのか。額の下部に、小さく登録年月日の記載があった。目を凝らして読もうとして、亮はとっさにスマートフォンを取り出しかけた。写真の一枚でも残しておきたい。だが、指を伸ばしかけたところで、思いとどまった。ここでカメラを構える姿を、誰かに見られるわけにはいかない。今の亮にとって、それ自体が新しい規則違反の種になりかねなかった。


代わりに、亮は目だけを凝らし、数字を頭に刻み込もうとした。だが、読み取れたのは西暦の下二桁だけで、月日までは、光の反射で潰れて見えなかった。もう一歩、額に近づこうとしたそのとき、事務所の奥から、慌ただしい声が響いた。


「所長、本社から連絡です」


事務員の声には、明らかな動揺があった。所長がデスクから立ち上がり、受話器を耳に当てる。会話の内容は聞き取れなかったが、所長の表情が、みるみる硬くなっていくのは見えた。相槌の間隔が、だんだん短くなっていく。何かを問い返そうとして、途中で飲み込む仕草も、一度や二度ではなかった。


電話を切ると、所長は休憩スペースにいる乗務員たちに向かって、大きな声を上げた。


「みんな、聞いてくれ。予定が変わった」


亮の背筋に、冷たいものが走った。


「来週火曜の点検だが――本社の判断で、前倒しになった。今日、これから実施される」


休憩スペースにいた誰かが、小さく舌打ちした。別の誰かは、無言でロッカーの方へ向かって走り出した。事務所全体が、一瞬にして落ち着きを失った。


「今日って、いつからですか」


同僚の一人が声を上げた。以前、点検の範囲が広がったことに舌打ちしていた、あの同僚だった。


「もう向かってるらしい。三十分後には着くそうだ」


「なんでまた急に」


「知るか。本社の都合だろう」


所長も、詳しい理由までは聞かされていない様子だった。監督強化がどうとか言い出してから、この営業所全体が、誰も全体像を把握できないまま、上から降ってくる指示に振り回され続けている。亮だけの問題ではなく、この場所で働く全員が、同じ流れに巻き込まれているのだと、改めて思い知らされた。


事務所のあちこちで、椅子を引く音、足早に歩く音が重なった。誰かが電話で家族に「今日は帰りが遅くなる」と告げている声も聞こえた。普段は静かなはずの休憩スペースが、まるで別の場所のように騒がしくなっていた。


三十分。亮は、自分の心拍数が、また一段上がるのを感じた。


社名の一致が、頭から離れなかった。もし本当に、あの番号の持ち主がこの会社に関係していたのなら、点検はただの点検ではないのかもしれない。過去に一人、記録を追いすぎて消えた人間がいた場所に、今また、同じことをしている人間がいる。組織にとって、この営業所自体が、以前から目を付けられていた場所だったとしても、おかしくはなかった。


証拠のスマートフォンは、自宅にある。それは間違いない。だが、他に何か、見落としているものはないか。この数週間、慌ただしく動き回る中で、何か一つでも、迂闊に残してしまったものはなかったか。


車内のドライブレコーダーには、深夜、裏路地に車を停めて決済端末を操作していた記録が残っているはずだった。停車位置や時間から、何をしていたか推測されることはないだろうか。工具箱の中に、以前小野寺の車庫で受け取ったスマートフォンの梱包材か何かを、うっかり紛れ込ませてはいないだろうか。記憶をどれだけ辿っても、確信は持てなかった。確信が持てないという事実そのものが、亮の手のひらに汗を滲ませた。


ロッカーの前まで移動する足取りは、自分でも不自然なほどぎこちなかった。周りの同僚たちも、それぞれ落ち着かない様子で、自分の荷物を整理し直している。誰かは私物の雑誌を鞄の奥に押し込み、誰かはロッカーの奥から見せたくない何かを取り出して、ポケットに突っ込んでいた。誰もが、後ろめたい何かを抱えているように見えた。この会社に勤める人間全員が、多かれ少なかれ、組織に見せられないものを持っているのかもしれない。そう思うと、亮は自分だけが特別に危ういわけではないという、奇妙な安堵と、それ以上に大きな不安を同時に覚えた。


視線を感じて振り向くと、少し離れた場所で、小野寺がこちらを見ていた。何も言わず、ただ小さく頷いただけだった。それが、何を意味する頷きなのか、亮には分からなかった。心配するな、という意味なのか、覚悟しておけ、という意味なのか。小野寺はすぐに視線を外し、自分のロッカーの方へ歩いていった。


窓の外で、車のエンジン音が聞こえた。


見慣れない灰色のバンが、営業所の駐車場に入ってくる。運転席と助手席から、揃いのジャケットを着た二人組が降りてきた。手には、クリップボードとカメラ。一人が、ボードの上の書類に目を落としながら、もう一人に何かを指示している。予定より三十分も早い到着だった。前倒しになったという知らせ自体が、すでに何かの布石だったのかもしれない、と亮は思った。


亮は、休憩スペースの窓際から、その様子を見つめていた。他の同僚たちも、それぞれの持ち場から、同じ方向に視線を向けていた。事務所の中の空気が、一段と重くなった。喉の奥が、からからに乾いていた。缶コーヒーはとうに空になっていたが、それでも、亮は手の中の缶を握りしめたまま、放そうとしなかった。


二人組は、事務所の入口へ向かって歩き出した。歩調は、急いでいるわけでも、ゆっくりしているわけでもなかった。ただ、迷いのない、業務として決められた通りの速さだった。所長が、緊張した面持ちで出迎える。深く頭を下げる所長に対して、点検員たちは、儀礼的な会釈を返しただけだった。


何かやり取りが交わされたあと、点検員の一人が、クリップボードのページをめくり、指先で何かをなぞった。もう一人は、事務所内をぐるりと見回し、壁際に並んだロッカーの列に目を止めた。


亮は、息を潜めるようにして、その動きを追った。ページをめくる指の動きが、やけにゆっくりと見えた。何を確認しているのか、この距離からでは分からない。だが、その指が、ある一点でぴたりと止まった。


逃げ出したい、という衝動が、一瞬だけ亮の中を駆け抜けた。だが、逃げれば、それこそが何よりの証拠になる。今できることは、何食わぬ顔で立ち尽くすことだけだった。足の裏から、床の冷たさが伝わってくる気がした。実際には暖房の効いた室内だったが、体の感覚だけが、どこか凍りついていた。


もう一人が、ロッカーの並ぶ通路の方へ、まっすぐ視線を向けた。


その視線の先――亮の担当するロッカーの列だった。


二人は、迷いのない足取りで、通路の奥へと歩き出した。

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