第三十三話「痕跡」
スマートフォンは、結局、自宅の換気扇のカバーの裏に隠すことにした。会社の敷地さえ出れば、点検の対象からは外れる。それだけが、この数日で唯一決まったことだった。
証拠をどう外に出すか、という問いには、まだ何の答えも出ていなかった。新聞記者、と小野寺に向かって口にした言葉は、あれから何度考え直しても、伝手のない思いつき以上のものにはならなかった。記者の連絡先も知らない。どこの新聞社が、こういう話を扱うのかも分からない。検索すれば出てくるような会社名を、片っ端から書き出してみたこともあった。だが、どの名前を見ても、この一覧を託していい相手だとは、どうしても思えなかった。組織の監視が、社会のどこまで及んでいるのか、亮には見当もつかなかった。下手に接触すれば、証拠より先に、亮自身が消される可能性もある。
時間だけが、容赦なく減っていった。
睡眠は、ここ数日、まともに取れていなかった。点検と再評価、二つの期限が同時に迫ってくることで、頭の中は常に何かを計算し続けている状態だった。信号待ちで、ふと意識が飛びかけたことも一度や二度ではない。体は、正直に悲鳴を上げ始めていた。だが、今、休むという選択肢は、亮の中には存在しなかった。
同乗観察は、相変わらず続いていた。乗客の一人一人を疑う癖は、もう治すことを諦めていた。二日前に乗せた学生風の若者は、終始スマートフォンでゲームをしていただけだったが、降りるとき「お疲れさまです」と、乗務員に向けるにしては不自然なほど丁寧な言葉を残していった。観察者だったのか、ただの育ちのいい客だったのか、答えは出なかった。答えが出ないことにも、もう慣れつつある自分が、少し怖かった。
点検まで、あと二日。再評価まで、あと三日。
*
深夜、客の途切れた時間帯に、亮は車を裏路地に停めた。街灯が一つ、切れかけて点滅している場所だった。周囲に人の気配はない。エンジンをかけたまま、決済端末を開く。
これまで、この端末を使って調べたのは、人の名前だった。慎吾。榊原直人。橋本。だが今夜、亮が打ち込もうとしているのは、名前ではなく、一つの電話番号だった。何週間も前、非通知でかかってきた番号。忠告のメッセージを送ってきた番号。かけ直しても、合成音声しか返ってこなかった、あの番号だった。
着信履歴の一番上に、その番号はまだ残っていた。画面をスクロールする必要すらなかった。何度も見返してきた数字の並びを、亮は改めて目に焼き付けた。
指が、画面の上で止まった。
以前、慎吾と榊原の名前で検索しただけで、《異常な照会パターンを検知しました》という警告が出たことがあった。あのときの残存価値は、まだ48あった。今は21しかない。しかも、点検と再評価を目前に控えている。今、新しい規則違反の記録が一つでも増えれば、その意味は、あのときとは比べものにならないほど重くなる。
分かっていて、亮は番号を入力した。
もう後戻りはできない、という感覚が、指先から伝わってきた。決定ボタンに触れるまでの数秒間、亮は自分の心臓の音を、はっきりと聞いていた。
《アクセス権限を確認しています》
この一文が、まず出た。以前にはなかった手順だった。あのときは、権限が新しく付与された直後で、確認など挟まれなかった。今は、残存価値が21まで落ちている。閲覧権限そのものが、すでに剥奪されていてもおかしくない数字だった。
数秒の沈黙のあと、画面が切り替わった。
《権限は維持されています》
《照会中》
剥奪されていないことに、安堵よりも先に、違和感が来た。組織が、意図的に残しているのか、単なる事務処理の遅れなのか。どちらであっても、今の亮には、それを確かめている余裕はなかった。
エンジンの低い振動だけが、車内を満たしていた。窓の外を、猫が一匹、音もなく横切っていった。それだけのことに、亮は肩を強張らせた。
《該当記録を発見しました》
《表示制限:一部項目》
ほとんどの項目が、黒く塗りつぶされたように表示された。氏名――抹消。生年――抹消。現住所――抹消。一つ一つ、期待して開いては、同じ黒い帯にぶつかる。それを繰り返すうち、亮の中で、何かを知りたいという気持ちと、これ以上知るのが怖いという気持ちが、同じ速さで膨らんでいった。
だが、いくつかの項目だけが、消し忘れたように残っていた。
《最終登録区分:労働評価B》
《最終所属区域:第五管理区域》
《身元整理進行度:完了》
第五管理区域。慎吾が送られた場所であり、亮が以前、百人単位の戸籍抹消済リストを見つけた場所だった。あの忠告をくれた誰かは、やはり「消された側」の人間だったということだ。
しかも、身元整理は「完了」していた。金融、通信、雇用、戸籍――すべての段階が、すでに終わっている。この番号は、本来ならとうに使えなくなっているはずのものだった。それなのに、あの夜、この番号から着信があり、メッセージが届いた。
亡くなっているはずの回線から、まだ何かが動いている。その事実だけで、亮の背筋が冷えた。誰かが、消された後もなお、その回線を使う手段を持っていたということだ。管理区域の内部からなのか、外部の協力者を通してなのか、想像すらつかなかった。もし内部から動かせるのだとすれば、あの一覧に載っていた数百人のうち、まだ何かを発信できる人間が、他にもいるのかもしれない。
もう一段階、下の項目に、亮は指を伸ばした。表示制限の壁を、もう一枚だけ剥がすつもりだった。
《関連登録情報》
《直近勤務先(抹消前):――運輸株式会社》
社名の一部が、文字化けしたように途切れていた。だが、末尾の「運輸株式会社」という文字だけは、はっきり読み取れた。タクシー会社、あるいはそれに近い運送業に、この人物は、かつて勤めていたということだ。
亮の心臓が、大きく跳ねた。
同じ業界。もしかしたら、同じ会社。黒瀬の弟のように、この人物もまた、選定員として働いていたことがあるのだろうか。だとすれば、慎吾たちの一覧を見つけたときの興奮とはまた違う、もっと個人的な糸が、そこに繋がっているのかもしれなかった。この数日で、亮の周りには「先に同じ場所に立っていた誰か」が、何人も現れすぎている。黒瀬の弟。小野寺の言う「潰れていった奴」。そして、今、画面の向こうにいる、名前を失った誰か。それが一人の人物を指しているのか、複数の別々の人間を指しているのか、亮にはもう見分けがつかなくなっていた。
意味を探すな、という橋本の言葉が、頭の片隅をよぎった。だが、これは意味を探しているのとは違う、と亮は自分に言い聞かせた。誰かの人生の意味を知りたいのではない。ただ、この一件がどこから始まり、どこに繋がっているのかを知りたいだけだった。もっとも、その区別自体が、都合のいい言い訳に過ぎないのかもしれなかった。
これ以上、深く辿ろうとした瞬間だった。
《規則外照会を検知しました》
《抹消済み記録への接触は、記録されます》
《本件は要注意事案として保存されます》
通知の文面は、これまでのどの警告よりも簡潔だった。簡潔であるということが、かえって、これがもう「初犯」への警告ではなく、既に何度も同じことを繰り返している人間への、事務的な処理に近いものであることを示していた。
亮は、もう一度、着信履歴のあの番号を見つめた。かけ直せば、また同じ合成音声が流れるだけかもしれない。それでも、番号自体は、まだ「使われて」いる形跡がある。呼び出しボタンに、指がかすかに動きかけた。
だが、思いとどまった。今この瞬間、通話記録まで残せば、規則外照会どころの話では済まなくなる。手がかりは手に入れた。それ以上を、今夜、この場所で欲張るべきではなかった。指を、静かにボタンから離す。
残存価値の数字は、まだ動かなかった。だが、それが救いになるとは、亮には思えなかった。数字が動かないまま記録だけが積み上がっていくことの方が、むしろ不気味だった。組織は、いつでも好きなときに、積み上がった記録をまとめて突きつけることができる。今、動かないのは、単に、まだそのときが来ていないだけかもしれなかった。
エンジンをかけたまま、亮はしばらく画面を見つめていた。
――運輸株式会社。文字化けした社名の断片。それだけの情報で、何が分かるわけでもなかった。会社名の全体が分かったところで、そこから先、どう辿ればいいのかも見当がつかない。だが、何も分からないよりは、確かにましだった。手がかりというものは、最初から完全な形ではやってこない。それを、この数週間で、亮は嫌というほど学んでいた。
画面を閉じようとした指が、途中で止まった。
消せば、この痕跡は二度と戻ってこない。次に同じ照会をすれば、今度こそ、残存価値そのものが動くだろう。だが、消さなければ、これは亮の中に残る。誰にも預けられない、自分だけが抱える手がかりとして。
小野寺には、もう預けられない。黒瀬は、もういない。この手がかりを分け合える相手は、どこにもいなかった。
亮は、画面のスクリーンショットを一枚だけ撮った。証拠の一覧と同じ場所に――換気扇のカバーの裏に、後で移すつもりだった。それから、端末の履歴を、丁寧に消した。消したところで、組織側の記録が消えるわけではない。それでも、何もしないよりはましだった。
点検まで、あと二日。再評価まで、あと三日。両方を同時に乗り越えられる保証は、どこにもなかった。片方をやり過ごしても、もう片方で足を掬われるかもしれない。それでも、今夜手に入れた「――運輸株式会社」という五文字だけは、失うわけにいかなかった。
時間はなかった。それでも、亮は端末を閉じ、配車アプリを再開した。
次の依頼が、画面に表示される。行き先は、いつもと変わらない住宅街の一角だった。
亮はアクセルを踏んだ。




