第三十二話「先客」
営業所の掲示板に、点検対象の一覧が貼り出されたのは、その日の朝だった。
亮は、自分の車両番号を見つけた瞬間、息を止めた。ロッカーと工具箱だけではない。担当車両の車内清掃記録、ドライブレコーダーの保存データ、そして「乗務員個人の携行品」という一文までが、対象の欄に含まれていた。
隣で同じ掲示を見ていた同僚が、小さく舌打ちした。
「今回、範囲広くないですか。工具箱の中まで見るなんて、初めてですよ」
「そうですね」
「監督強化がどうとかいう話、須藤さんのところだけじゃなかったんですね」
同僚は、それ以上深くは聞いてこなかった。ただ、迷惑そうに首を振りながら、自分のロッカーの方へ歩いていった。範囲が広がったのは、亮一人のためではなく、営業所全体を巻き込む形になっていたらしい。それが、かえって不気味だった。組織にとって、亮という一人の存在の異常が、もう一人だけの問題ではなくなっている。
小野寺の工具箱に戻したところで、意味がなかったということだ。あの場所も、対象に入っている可能性が高い。
亮はコートの内ポケットに手を当てた。スマートフォンの硬さが、いつもより重く感じられた。どこに隠すべきか、まだ答えは出ていなかった。会社の敷地内であれば、どこも同じだった。
*
昼過ぎ、営業所の事務室に、黒瀬が姿を見せた。監査人としての制服を着ているのは、いつも通りだったが、腕に抱えたファイルの分厚さが、いつもと違った。
「須藤さんの、担当引き継ぎの説明です」
黒瀬は、事務員に断ってから、亮を空いている面談スペースへ促した。パーテーションで区切られただけの、狭い一角だった。
「来月から、須藤さんの監督業務は、別の監査人が担当します。今日は、その引き継ぎに必要な事項を確認します」
事務的な言葉が、いつも通り並んだ。だが、黒瀬の視線は、書類よりも、亮の顔に向けられている時間の方が長かった。
「異動、決まったんですね」
「はい」
「俺のせいです」
「原因の一つには、数えられているでしょうね」
黒瀬は、否定しなかった。それが、かえって亮の胸を重くした。
「すみません」
「謝罪は、記録に残る行為ではありません」
御子柴と同じ言葉を、黒瀬も口にした。組織の人間は皆、同じ台詞を覚えさせられているのかもしれなかった。だが、黒瀬の声には、御子柴にはなかった、わずかな疲れがにじんでいた。
「小野寺さんが、以前、俺に似たような目をしてた人間がいた、と言っていました」
黒瀬の手が、書類の上で止まった。
「何のことですか」
「何かを抱え込んで、誰にも預けられずに、一人で潰れていった奴がいた、と。詳しくは、教えてもらえませんでした」
沈黙が落ちた。パーテーションの向こうから、電話の呼び出し音が聞こえてきた。誰かがそれに出て、事務的な受け答えを始める声も。
「小野寺さんが言っていたのは、私の弟のことかもしれません」
黒瀬の声は、平坦だった。だが、その平坦さは、いつもの規則を読み上げるときの平坦さとは、少し違って聞こえた。
「弟さん」
「五年前、同じ会社で、選定員をしていました。今の須藤さんより、少し年上でした」
亮は、言葉を失った。
「同じ会社、って」
「この営業所です。小野寺さんが、当時からいたかどうかは、私からは分かりません。ですが、年数を考えると、重なっていてもおかしくありません」
黒瀬は、ファイルを閉じた。
「弟は、判定の仕事に慣れてから、だんだんと、対象者の背景を調べるようになりました。誰が、なぜ処分されたのか。統計の裏に、何があるのか。須藤さんが今、しているのと、似たようなことです」
「名前は」
黒瀬は、少し間を置いた。
「聞いても、須藤さんの役には立ちません。ただ、覚えておきたいなら、言います。黒瀬亘、といいました」
くろせ・わたる。亮は、頭の中でその名前を繰り返した。今まで、記録の中で見たことがない名前だった。だが、もし五年前に処分されたのなら、亮がアクセスできる範囲の記録には、もう残っていないのかもしれなかった。
「その人は、今」
「五年前、処分されました」
短い一言だった。だが、その一言が、事務室の空気を一段冷たくした。
「弟自身が、対象になったんですか」
「残存価値が、限界まで下がりました。理由は、規則違反の積み重ねと、周囲との軋轢だったと聞いています。詳しい経緯は、私にも開示されていません」
「開示されない、って、姉なのに」
「家族だからこそ、開示されないんです。感情的な干渉を避けるための措置だと、説明されました」
「納得したんですか、それで」
「納得する、しないの問題ではありません。規則は、納得を必要としません」
黒瀬の口調は変わらなかったが、その言葉を口にする速さが、わずかに速くなっていた。何度も自分に言い聞かせてきた言葉なのだろう、と亮は思った。納得できないまま、規則という言葉の後ろに隠れ続けることでしか、五年間を保てなかったのかもしれない。
黒瀬の指先が、ファイルの角を、無意識に撫でていた。
「私が、この仕事に就いたのは、弟のあとです。理由は、聞かないでください」
「聞きません」
「須藤さんを見ていると、時々、弟を見ているような気持ちになります。それが、私が須藤さんに、必要以上の裁量を使ってしまう理由の一つだと思います」
亮は、何も言えなかった。橋本との会話を査定から外してくれたこと。今回の異動。すべてが、目の前の女性が、五年前に失った誰かの面影を、自分に重ねていたからだったということだ。
「俺は、その人の代わりじゃありません」
「分かっています。分かっていて、それでも、重ねてしまうんです」
黒瀬の声に、初めて感情らしいものが滲んだ。抑えていたものが、ほんの少しだけ漏れ出たような響きだった。
「俺も、同じ結末になると思いますか」
黒瀬は、すぐには答えなかった。パーテーションの向こうの電話の呼び出し音が、また一つ、鳴っては切れた。
「分かりません。ただ、似た道を歩いている人間を、二度見送りたくないとは、思っています」
「それは、答えになってません」
「なっていないことは、分かっています。ですが、それ以上は、私にも言えません」
「小野寺さんの言っていた人が、本当に弟さんかどうかは」
「分かりません。同じ会社に、似たような末路を辿った選定員が、複数いた可能性もあります。断定はできません」
黒瀬は、あえて曖昧さを残した。だが、その曖昧さの奥にあるものを、亮はもう感じ取っていた。
「もう一つ、業務上、お伝えしておくことがあります」
黒瀬の口調が、また事務的なものに戻った。
「来週の点検についてです。対象は、ロッカー、工具箱、車両登録情報、乗務員の私物のうち、会社の管理下にあるとみなされるものです」
「携行品、とも書いてありました」
「携行品は、乗務員が常時身につけているものまでは含まれません。規定上、私物として身体に所持しているものは、令状なしに開示を求めることはできません」
黒瀬は、亮の目を見た。
「これは、業務上の一般的な説明です。それ以上の意味は、ありません」
「分かりました」
「分かったのであれば、それで結構です」
黒瀬はファイルを抱え直し、立ち上がった。
「須藤さん」
「はい」
「次の担当者には、私と同じ裁量は期待しないでください。組織の平均的な運用に、戻ると考えてください」
「厳しくなる、ってことですか」
「標準に戻る、ということです。厳しいかどうかは、須藤さんがこれまで、どれだけ甘く扱われていたかによります」
その言い方には、初めて、わずかな苦笑のようなものが混じっていた。
「黒瀬さん」
「何ですか」
「異動先で、無理しないでください」
黒瀬は、一瞬だけ、動きを止めた。
「その言葉、記録には残りませんよ」
「記録のために言ったんじゃありません」
黒瀬は、それ以上答えず、パーテーションの外へ出ていった。振り返ることはなかった。廊下を歩く足音が、次第に遠ざかっていった。
*
亮は、面談スペースに一人残された。
黒瀬亘。五年前。同じ会社。小野寺の言っていた「そういう目をしてた奴」が、本当に彼女の弟だったのかどうか、確かめる術はなかった。だが、確かめなくても、亮の中では、もう一つの絵として繋がってしまっていた。
自分より先に、この場所で、同じように記録を追い、同じように誰にも預けられずに潰れていった人間がいる。処分という形で、その道の先には終わりがあった。その人間の姉が、今、自分を庇い続けた末に、異動という代償を払わされている。
連座は、上からだけ降りてくるものではなかった。過去から、下からも、静かに這い上がってくるものだった。五年前に始まった何かが、今、亮という別の人間を通して、もう一度繰り返されようとしている。組織にとって、これは異例の事態ではなく、むしろ想定の範囲内の、ありふれた再発なのかもしれなかった。だとすれば、自分の先には、黒瀬の弟と同じ結末しか用意されていないのだろうか。
似た道を歩いている人間を、二度見送りたくない。黒瀬はそう言った。だが、見送りたくないという気持ちだけで、結末が変わるとは、亮には思えなかった。弟のときも、彼女はきっと、何かを守ろうとしたはずだった。それでも、弟は処分された。今度は違う、と信じる根拠は、どこにもなかった。
「携行品は、会社の管理下にあるとみなされるものではない」
黒瀬の言葉を、もう一度、頭の中で繰り返す。あれは、業務上の説明であると同時に、彼女なりの、最後の裁量だったのかもしれない。弟を助けられなかった代わりに、今度こそ、誰かを守ろうとしている。そう考えるのは、都合のいい想像に過ぎないのかもしれなかったが、それでも、亮はそう思わずにいられなかった。
亮はコートの内ポケットに、もう一度手を当てた。スマートフォンは、まだそこにあった。会社の敷地を出るまで、肌身離さず持っておく。それだけは、決まった。
点検まで、あと四日。再評価まで、あと五日。黒瀬の弟が辿った道のりを、自分がなぞっているのだとしたら、残された日数の意味も、これまでとは違って見えてくる。急がなければならないのは、証拠をどうするかだけではない。自分がどこで、その道を折れるかということだった。
亮は席を立ち、次の乗務に向かった。




