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第三十一話「点検」

「明日、車庫に行っていいですか」


そう言った自分の声が、まだ耳の奥に残っていた。小野寺は「ああ」とだけ答えて、電話を切った。それ以上の言葉はなかった。


翌朝、亮は始発に近い時間に家を出た。腕を振ると、まだ関節の奥にわずかな抵抗があったが、三角巾がない分、動きそのものは以前より自由だった。自由になったはずの腕が、かえって心もとなく感じられるのは、まだ慣れていないせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、亮自身にも判然としなかった。


外はまだ暗く、街灯の光が濡れたアスファルトに滲んでいた。夜のうちに降った雨は上がっていたが、空気は湿ったままだった。エンジン音の響き方まで、いつもより硬く感じられる朝だった。


信号待ちのたびに、また癖が顔を出した。この時間、後部座席には誰もいない。それでも、亮はミラーを覗いた。観察者を探す癖は、乗客がいなくても止まらなくなっていた。空っぽの後部座席を見つめながら、自分がどこまで壊れているのか、亮自身にも分からなかった。


裏口から車庫に入ると、小野寺はすでに来ていた。整備用の作業台の前に立ち、いつものように缶コーヒーを片手にしている。だが、表情はいつもより硬かった。


「早いな」


「約束でしたから」


小野寺は缶コーヒーを一口飲み、亮を上から下まで一瞥した。


「腕、外したのか」


「昨日、医者に」


「動くのか」


「まだ、少し」


小野寺は頷いただけで、それ以上は聞かなかった。ロッカーの奥へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。


「その前に、話がある」


「何ですか」


「来週、車両点検がある。ロッカーも一斉に、中身を確認するらしい」


亮の胸に、冷たいものが走った。


「いつも、あるやつですか」


「季節ごとの、定例のやつだ。だが今回は、範囲が広い。工具箱の中まで見るとは、これまで聞いたことがない」


「偶然、ですか」


「分からん。監督強化がどうとかいう話が出てから、急に決まった。掲示が貼られたのは、三日前だ。俺には、それ以上のことは分からない」


小野寺の声には、苛立ちの色が混じっていた。偶然かもしれない。だが、偶然ではないかもしれない。その両方を同時に抱えたまま働くことが、この数日、小野寺にとってどれほどの負担だったか、亮は今さらのように思い知らされた。


「点検、いつですか」


「来週の火曜だ。お前の再評価とやらより先に来る」


「誰が、点検するんですか」


「本社から、専門の業者が来るらしい。車両の整備記録から、ロッカーの中身まで、写真を撮って回るそうだ。うちの所長も、急に決まったことに戸惑ってる様子だった」


現場の責任者すら、理由を知らされていない。そのこと自体が、この点検が単なる季節の行事ではないことを、亮に確信させた。


五日後。亮の再評価まで、あと五日。点検は、それより早い。


「見つかったら」


「見つかったら、俺だけの話じゃ済まない。分かってて言ってるんだろう」


亮は何も言えなかった。小野寺の言うとおりだった。


「娘のことは、前にも言った。あれは脅しじゃない」


小野寺の声が、低くなった。


「お前の数字がどうなろうと、正直、俺の知ったことじゃない。だが、俺の家族に何かあったら、話は別だ」


「分かっています」


「分かってて、まだ預けたままにさせるつもりか」


亮は、首を横に振った。


「今日、返してもらいに来ました」


小野寺の眉が、わずかに動いた。


「気が変わったのか」


「変わったわけじゃありません。ただ、これ以上、誰かを巻き込みたくないだけです」


「今さらだな」


「今さらでも、遅いよりはましです」


小野寺は、しばらく亮の顔を見ていた。それから、ため息のような息を吐いた。


「昨日、御子柴という選定員が、乗客のふりして俺の車に乗ってきました」


小野寺の眉間に、皺が寄った。


「監督強化フェーズの一環だそうです。それで、黒瀬さんが――橋本さんとの一件で俺を庇ってくれた監査人が、来月、担当区域を変えられることになりました」


「庇った代わりに、飛ばされるのか」


「連座、というやつです。誰かが俺を助けようとすると、その誰かが代わりに何かを差し出させられる。今のところ、そういう仕組みになっているみたいです」


小野寺は、缶コーヒーの空き缶を、静かに握りつぶした。


「それを、俺に聞かせる理由は」


「小野寺さんまで、同じ目に遭わせたくないからです。これ以上、俺のせいで誰かの生活が壊れるのは、もう見たくない」


「今さら、都合のいいことを言うな」


小野寺の声は、鋭かったが、怒っているようには聞こえなかった。むしろ、疲れているように聞こえた。


「都合がいいのは、分かっています」


「お前、あの一覧を公開したら、どうなると思ってる」


亮は、すぐには答えられなかった。


「数百人の記録だ。名前も、家族構成も、たぶん載ってる。公開したら、お前が助けたいと思ってる連中の中にも、今より状況が悪くなる奴が出るかもしれない。戸籍が消された人間の存在が公になれば、その分、行き場をなくす人間だって出てくるだろう。お前は、そこまで考えてるのか」


「考えて、いません。まだ」


「だろうな」


「それでも、隠したままにしておくよりは、ましだと思ってます」


「思ってるだけか」


「今は、それしか言えません」


「誰かに見せるつもりなのか。組織の外の人間に」


「考えては、います。新聞記者とか、そういう人間に届ける方法がないか」


「あては、あるのか」


「ありません。正直、何も決まってません。ただ、可能性としてです」


「可能性の話をするには、時間が足りなすぎる」


「分かってます」


小野寺は、鼻から短く息を吐いた。呆れたような、それでいて、どこか納得したような音だった。


「前に、似たような目をしてた奴がいたって、言ったことがあったな」


亮は、記憶をたどった。数日前、営業所で顔を合わせたときの一言だった。


「覚えています。深追いしてる目だ、と」


「あいつも、こういう顔をしてた。何かを抱え込んで、誰にも預けられずに、一人で潰れていくような顔だ」


「その人は、今」


「今の話は、いい」


「その人、今どうしてるんですか」


「今の話は、いいと言ったんだ」


小野寺の声に、初めて明確な拒絶が混じった。それ以上踏み込むことを許さない、線の引き方だった。亮は、口をつぐんだ。


小野寺は、それ以上語ろうとしなかった。だが、その一言だけで、亮の背筋に、また新しい重さが加わった。自分と同じ道を、すでに誰かが歩いていたということ。その先に、何が待っていたのか、小野寺は言わなかった。言わないということ自体が、答えのようにも思えた。


「分かってるなら、いい。データは、返す。だが」


小野寺は、工具箱の鍵を取り出しながら、続けた。


「返したからって、俺が何も知らないことにはならない。娘に聞かれたら、正直に答えるかもしれない。父さんは、ある時期、危ないものを預かってたことがある、と」


「それで、構いません」


小野寺は工具箱の二重底を開け、中からスマートフォンを取り出した。機内モードの表示は、変わらず点いたままだった。


「電源、入れてみたか」


「いや。中身を見ることも、しなかった」


「見なかったのか」


「見たら、何かを決めたくなる。決める前に、確かめておきたいことがあった」


小野寺は、スマートフォンを亮の手のひらに乗せた。冷たく、そして思ったより軽かった。数百人分の記録が入っているとは思えない重さだった。


「点検までに、片をつけろ」


「はい」


「片をつけるっていうのが、どういう意味かは聞かない。聞いたら、俺も連座とやらの対象になるんだろう」


「なるかもしれません」


「だったら、聞かない方がいい」


小野寺は工具箱を閉じ、いつもの位置に戻した。それから、亮の肩を一度だけ、軽く叩いた。


「五日だな」


「五日です」


「短いな」


「短いです」


小野寺は、ふっと息を漏らした。笑ったのか、ため息なのか、判別のつかない音だった。


「一つだけ言っとく。お前が潰れても、俺は拾わないからな」


「拾わなくていいです」


「じゃなくて、拾えないんだ。俺には俺の生活がある。それだけは、勘違いするな」


「勘違いしてません」


「なら、いい」


小野寺は、それ以上何も言わず、整備場の奥へ歩いていった。缶コーヒーの空き缶が、ゴミ箱に落ちる音だけが、静かな整備場に響いた。



亮は、スマートフォンをコートの内ポケットに入れた。皮膚の上から、四角い硬さが伝わってくる。重さはなくても、その存在は、今までよりずっとはっきりと感じられた。


これまでは、小野寺の工具箱の中に、預けたという事実だけがあった。今は違う。すべてが、亮自身の手の中にある。誰かに背負わせることも、誰かのせいにすることも、もうできない。


小野寺が語らなかった「前にもそういう目をしてた奴」のことが、頭の中に引っかかったままだった。自分より先に、同じ場所に立った誰かがいる。その誰かが、今どこにいるのか、聞くことはできなかった。聞けば、答えが返ってくることが、怖かったのかもしれない。


車に乗り込み、エンジンをかける。配車アプリを開く前に、亮はコートの上から、もう一度スマートフォンの輪郭を確かめた。


五日後、選定員適性の再評価がある。その前に、この記録をどうするのか、自分一人で決めなければならない。小野寺が投げかけた問いも、まだ答えを出せていなかった。公開することで救われる人間と、公開することで追い詰められる人間が、同じ記録の中に、同じだけ存在しているかもしれない。それでも、決めるのは自分しかいなかった。誰かに分けてもらうことは、もう選べなかった。


新聞記者、という言葉を、自分で口にしてみて初めて、亮はその考えがどれほど頼りないかに気づいた。あてもなく、伝手もなく、ただ「そういう人間」に届けるという曖昧な希望だけで、数百人分の記録を動かそうとしている。それでも、何もしないよりはましだった。少なくとも、亮にはそう思うしかなかった。


亮はアクセルを踏み、営業所の門を出た。空は、まだ夜の名残を残して薄暗かった。ヘッドライトの先で、路面の水たまりが白く光った。

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