第三十話「連座」
三日経っても、その癖は消えなかった。
信号待ちのたびに、亮はバックミラー越しに後部座席をうかがった。乗客の表情、視線の動き、手の置き方――そのすべてが、まだ観察者を探すための材料になっていた。疑うことに疲れたはずなのに、体はまだ疑うことをやめていない。
二日目に乗せた老人は、後部座席から身を乗り出し、亡くなった息子の話を延々と続けた。何度も同じ話に戻っては、そのたびに違う細部をつけ加える。本物の記憶なのか、繰り返すうちに作り変えられた記憶なのか、亮には見分けがつかなかった。降りるとき、老人は「聞いてくれてありがとう」とだけ言い、釣り銭を丁寧に受け取って去っていった。それが、かえって不気味だった。
観察者は、疑わせるために来るとは限らない。むしろ、疑いようのないほど自然に振る舞うことこそが、観察者の仕事なのかもしれない。そう考え始めると、疑うべき対象は際限なく広がっていった。
その日の午前、亮は病院に寄った。医者は右腕を丁寧に確認し、三角巾を外すことを許可した。
「もう固定しなくて大丈夫です。ただ、しばらくは重いものを持ったり、急な動きは控えてください」
外された布が診察台の上に置かれると、腕は思ったより軽く、そして頼りなく感じられた。皮膚には、まだうっすらと圧迫の跡が残っている。腕を回してみると、関節の奥に鈍い違和感があった。骨そのものは治っていても、動かし方をどこかで忘れてしまったような感覚だった。慎吾の車にぶつけられてから何週間も、その布が守っていたのは腕そのものより、亮自身の何かだったのかもしれない。それが今、なくなった。
車に戻り、配車アプリを再開する。二件、三件と客をこなすうち、腕の感覚にも少しずつ慣れていった。だが、守られていたものが一つ消えたという感覚だけは、消えなかった。
昼過ぎ、対象者用端末が短く震えた。
《本日、面談を実施します》
《対応時間は追って指示》
《担当選定員:――》
担当者の欄だけが、空白になっていた。
これまでの通知には、必ず名前があった。御子柴からの直接のメッセージにも、送信者の表記が欠けたことはない。名前のない指示は、初めてだった。
亮は端末を閉じ、次の依頼を受けた。
*
指定された乗車地点は、いつもと変わらないオフィス街の一角だった。時間通りに車をつけると、グレーのコートを着た人物が、傘も差さずに歩道に立っていた。小雨が降っていたが、気にする様子もない。
乗り込んでくると、行き先を告げた。特に変わったところのない声だった。年格好は四十前後、化粧は薄く、疲れた勤め人にしか見えない。
亮は無言で車を出した。ミラー越しに一瞥する癖が、また顔を出す。女は窓の外を見ているようで、実際には、ガラスの反射越しに、じっとこちらの手元を見ていた。ハンドルを握る指の力加減、ミラーを覗く間隔――値踏みするような視線に、亮の背筋が強張った。
信号で止まったとき、女がふいに口を開いた。
「驚かせて、すみません」
声の抑揚に、聞き覚えがあった。ミラー越しに、もう一度、正面から顔を見る。眼鏡の奥の目だけは、面談室で見たものと同じだった。
御子柴だった。
「今日は、乗客としてです。事前の通知に名前を出さなかったのも、わざとです。須藤さんが、観察者をどう見分けるか、実際に試してみたかったので」
「見分けられませんでした」
「ええ。ですが、表情には出ていました。信号待ちのたびに、ミラーを見る癖がありますね」
亮は答えなかった。ハンドルを握る手に、汗がにじんだ。ワイパーが一定の間隔でガラスの水滴をぬぐい、そのたびに、御子柴の輪郭が一瞬だけぼやけては、また鮮明に戻った。
「本題に入ります。良いですか」
「拒否できるんですか」
「形式的には」
「形式的にはってことは、実際は違うんですね」
「拒否すれば、それも記録されます。それだけのことです」
御子柴の口調に、皮肉の色はなかった。ただ、拒否したところで意味がないことを、二人とも分かっていた。
「モデルケースへの対応、興味深く見せていただきました」
「判定を拒否したことが、興味深いんですか」
「はい。あれは、須藤さんの適性を見るための試験でしたが、同時に、別のことも測っていました」
「別のこと」
「判定を拒否する選定員が、どれくらいいるか。そして、拒否したとき、組織がどう扱うべきかです」
亮の胃の底が、冷たくなった。あの女の涙も、声の震えも、すべてが亮自身の反応を測るための一環だったということだ。
「あの女性は、演技だったんですか」
御子柴は、少し間を置いた。
「演者は用意しました。ですが、語った内容は、須藤さんが思っているほど作り物ではありません」
「どういう意味ですか」
「再審査四回、二十八年の結婚、労働評価Cの夫。すべて、実際にあった申請記録を組み合わせて作られています。誰か一人の話ではなく、複数の実例の合成です。ですが、細部のどれ一つとして、完全な虚構ではありません」
「誰の記録を、使ったんですか」
「それをお伝えすることは、できません」
「橋本さんの話も、入ってるんですか」
御子柴は、答えなかった。答えないことが、そのまま答えだった。
「二日前に乗せた老人がいます。息子の話を、何度も繰り返す客でした。あれも、モデルケースの一部だったんですか」
「一件ごとの詳細については、お答えできません」
「答えないんじゃなくて、答えられないんですか。それとも、答えたくないんですか」
「両方かもしれません」
御子柴の声に、初めてわずかな揺らぎが混じった気がした。だが、それが演技なのか、本音なのか、亮にはもう判断のしようがなかった。同じ問いが、自分にもそのまま返ってくることに、亮は気づいていた。
亮はフロントガラスの向こうの雨を見つめたまま、喉の奥に言葉が張りついているのを感じた。
嘘か本当かのどちらかであってほしかった。だが、御子柴が今言ったのは、そのどちらでもなかった。あの涙は、誰か一人の涙ではなく、何十人分もの涙を継ぎ合わせたものだったということだ。演技でありながら、噓ではない。その中間にあるものが、これまでのどんな判定よりも、亮の胸を重くした。
「それを、俺に言う意味は」
「須藤さんに、正確な理解をしてほしかったからです。本物か偽物かという問いの立て方自体が、この組織の設計では、あまり意味を持ちません」
「じゃあ、何が意味を持つんですか」
「須藤さんが、その問いにどう応えるか、です」
沈黙が落ちた。ワイパーの音だけが、車内を規則正しく刻んでいた。
「もう一つ、お伝えしておくことがあります」
御子柴が言った。
「黒瀬さんについてです」
亮の手に、力が入った。
「黒瀬さんの裁量については、こちらでも注視していると、前回お話ししました。今回、正式に判断が下りました。来月から、担当区域の見直しが行われます」
「異動、ってことですか」
「そう受け取っていただいて構いません」
「俺のせいですか」
「原因を一つに絞るのは、正確ではありません。ですが、須藤さんとの関わり方が、審査の対象になったのは事実です」
「黒瀬さんに、会えますか」
「それは、須藤さんが決めることではありません」
「せめて、謝らせてください」
「謝罪は、記録に残る行為ではありません。意味を持つとしたら、それは須藤さんの気が済むという、それだけのことです」
亮は、何も言えなかった。橋本との会話を査定から外してくれたこと。黒瀬なりの、精一杯の庇い方だった。それが今、彼女自身の立場を危うくしている。自分の気が済むためだけの謝罪なら、しない方がましかもしれなかった。
「最後に、監督強化フェーズの三つ目についてです」
御子柴の声は、変わらず平坦だった。
「選定員適性の再評価。実施日が決まりました。六日後です」
「その日、何をするんですか」
「今の時点では、お伝えできません。ただ、今回の面談も、その材料の一部になることは、申し上げておきます」
「落ちたら、どうなるんですか」
「対象者用の評価軸に移行します。前回、申し上げたとおりです」
言葉自体は前と同じだったが、今度は、脅しではなく確定した予定として語られていた。その違いが、亮の背筋を冷たくした。
御子柴は端末を軽く操作し、画面をこちらに向けた。
《残存価値:21》
《秩序従属性:6》
《協調係数:21》
《危険逸脱傾向:68》
《組織推奨対応:選定員適性再評価(実施日確定)/信頼度91%》
数字だけを見れば、残存価値はわずかに上向いている。だが、他の指標は、軒並み前回より悪化していた。上がった数字と、悪化した数字が、同じ人間の同じ行動から導き出されている。その矛盾が、亮には一番恐ろしかった。
「目的地です」
御子柴が言った。車は、いつの間にか指定された住所の前に停まっていた。
「今日は、ありがとうございました」
御子柴はドアを開け、傘も差さずに雨の中へ降りていった。振り返ることはなかった。コートの背中が、雑踏に紛れて見えなくなるまで、亮はミラー越しに目で追っていた。
*
亮はエンジンをかけたまま、ハンドルに額をあずけた。
黒瀬が異動になる。自分のせいで。庇ってくれた人間が、代わりに何かを差し出させられている。連座、という言葉が、頭の中に浮かんだ。誰かを守ろうとすれば、その誰かが罰を受ける。この組織の中では、優しさそのものが、罪になるらしかった。
六日後。選定員適性の再評価。何が起きるのか分からないまま、期限だけが決まった。落ちれば、判定される側に回る。御子柴はそう言った。
助手席の足元、段ボール箱の中で、陸のクレヨンはまだ二つに折れたままだった。返す約束は、また少し先に延びている。だが、今の亮には、それ以上に急がなければならないことがあった。
小野寺に預けたスマートフォンの中の記録。あと六日で、亮自身の適性が再評価される。その前に、証拠をどうするのか、自分の中で決めておかなければならない。眠らせたままにしておく猶予は、もうなかった。黒瀬が代わりに何かを差し出す前に、自分の側でも動かなければ、割に合わない。
御子柴は、須藤さんの反応そのものが記録の一部になる、と言った。だとしたら、これから何をするかも、いずれ誰かに測られる。それでも、測られることを理由に、何もしないままでいることだけは、もう選べなかった。
亮はスマートフォンを取り出し、小野寺の番号にかけた。
呼び出し音が鳴る。もう迷っている場合ではなかった。
「もしもし」
低い声が応じた。
「頼みがあります」
亮は、雨に濡れたフロントガラスを見つめたまま、言葉を続けた。
「明日、車庫に行っていいですか」




