第二十九話「擬態」
その日から数日、亮は誰を乗せても、乗客の一挙手一投足を観察するようになった。
行き先を告げる声のわずかな抑揚。支払いのときの視線の置き所。世間話を振ってくるタイミング。どれも、これまでなら気にも留めなかったものだった。だが今は、そのすべてが「これは本物の客か、観察者か」という問いに変換されてしまう。
ある客は、乗った瞬間から一言も発さず、降りるときだけ丁寧に礼を言った。別の客は、行き先を告げたあとすぐに眠り込み、いびきをかいた。どちらも、疑おうと思えばいくらでも疑えたし、疑うのをやめようと思えばただの客にしか見えなかった。判断のしようがない、というのが一番近い感覚だった。
二日目の夜、若い男を乗せたとき、亮は思わず聞いてしまいそうになった。あなたは観察者ですかと、口から出かかった言葉を、ハンドルを握り直すことで飲み込んだ。男はスマートフォンを見ながら、ただ静かに座っているだけだった。何も起きなかったことに、安堵よりも先に、疲労が来た。疑い続けることは、判定そのものよりも体力を削った。
営業所で顔を合わせた小野寺が、亮の顔を見て、一言だけ言った。
「悪い顔してるな」
「そうですか」
「深追いしてる目だ。前にもそういう目をしてた奴がいた」
それ以上は何も聞かれなかった。証拠のことにも、御子柴のことにも触れず、小野寺はいつも通り整備の道具を片付けて、先に営業所を出ていった。触れないでいてくれることが、今の亮にはありがたかった。
三日目になると、亮は自分の中に、奇妙な癖が生まれていることに気づいた。乗客を降ろすたびに、頭の中でその客の特徴を短く記録するようになっていたのだ。年恰好、行き先、口調、目つき。紙に書き残すことはしなかった。それをすること自体が、また新たな規則違反として端末に拾われかねないと分かっていたからだ。だから、すべては頭の中だけに留めた。誰かに見せるためではなく、ただ自分が、まだ何かを見極めようとしていることを、自分自身に確かめるためだけに。
三角巾は、少しゆるめられるようになっていた。医者には、あと数日で外せると言われている。傷そのものより、外せない緊張の方が、まだ体の奥に居座っていた。
その日の午後、対象者用端末が短く震えた。
《モデルケース対応を開始します》
《対応車両:本車両》
《対応時間:本日中》
これまでの通知にあったはずの一文が、どこにもなかった。
《本件は評価用シナリオです》
御子柴が説明したとき、そう表示されると言っていたはずだった。だが画面には、それらしき注記が一切ない。これが本物の判定業務なのか、モデルケースなのか、通知そのものからは判別できなかった。
配車アプリに、新しい依頼が入る。指定された乗車地点は、いつもと変わらない住宅街の一角だった。
*
女は、五十代の半ばに見えた。乗り込んでくるなり行き先を告げ、それきり黙り込んだ。膝の上に置かれた鞄を、両手できつく握りしめている。窓の外は小雨で、ワイパーの動く音だけが車内の沈黙を埋めていた。
亮は無言で車を出した。しばらく沈黙が続いたあと、女の方から口を開いた。
「運転手さん、こういう仕事をしていると、いろんな人を乗せますよね」
「まあ、そうですね」
「みんな、行き先だけ告げて、黙って座ってるんでしょうね。何を考えてるかなんて、分からないまま」
「大抵は、そうです」
女は小さく笑った。笑ったというより、息を吐いただけのようにも見えた。
「主人が、労働評価Cになったんです。第五管理区域に送られて、もう半年になります」
亮の手に、力が入った。労働評価C。第五管理区域。数字の羅列が、頭の中で何かと結びつきかけて、すぐには言葉にならなかった。慎吾のデータを検索したときに見た区分と、同じだった。
「面会には行けるんですか」
「月に一度だけ。行くたびに、主人の言葉数が減っていく気がします。この前なんて、私の名前を、一瞬忘れたみたいでした」
「それは……」
「再審査は、もう三回却下されました。次はまた半年後だそうです。理由は、いつも同じ。『改善の見込みが認められない』。それだけです」
三回却下。半年ごとの申請枠。橋本の口から聞いた話と、輪郭がそっくり重なった。誰かの実話なのか、統計上のよくある型を組み合わせただけの、作られた背景なのか、亮には判断がつかなかった。
「ひどい制度だ、って言ってほしいわけじゃないんです。ただ、聞いてほしいだけで」
女は窓の外に視線をやった。街灯の光が、等間隔に車内を横切っていく。
「主人と結婚して二十八年になります。子供はいません。ずっと二人でやってきました。それが、端末の数字一つで、こんなことになるなんて、思ってもみませんでした」
「数字が、全部を決めるわけじゃ――」
言いかけて、亮は口をつぐんだ。自分自身が、まさに数字一つで動かされている身だった。慰めにもならない言葉を、今さら口にする資格はなかった。
女は、亮の沈黙を気にする様子もなく続けた。
「私、時々思うんです。主人は、もう戻ってこられないなら、いっそ――」
女はそこで言葉を切った。続きを言うつもりがあったのか、なかったのか、判然としなかった。雨粒がフロントガラスを叩く音だけが、しばらく続いた。
亮の対象者用端末が、静かに光った。振動はなかった。画面を見ずとも、何が表示されているか分かった。
《判定を求めますか》
いつもの《生存/処分》の二択ではなく、判断そのものを亮に委ねる、初めて見る形式だった。
背中に汗が伝った。これが本物の相談なら、判定を下すこと自体が許されない場面だった。これがモデルケースなら、ここで動じずに機械的な選択を下すことこそが、組織の求める「適性」なのだろう。
指が、画面の上で止まった。《生存》の文字に触れかけて、止めた。触れて何が変わるのか、亮自身にも分からなかった。ただ、この女を数字のどちらかに押し込むことだけは、どうしてもできなかった。
御子柴の声が、頭の中で蘇った。個人的な感情や、独自の判断基準が、業務に混ざり始めている兆候として。だが同時に、望月菜緒の件を引き合いに橋本が語った言葉も、耳の奥で繰り返されていた。理由を差し出せと言われること自体が、もう一度傷つけることだ。
判定を下すことも、下さないことも、どちらも間違っているように思えた。
亮は、端末には触れなかった。代わりに、バックミラー越しに女を見た。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「あなたは、本物ですか」
女の顔から、表情が消えた。数秒の間、車内には走行音とワイパーの音だけが響いた。
「……どういう、意味ですか」
「今、話してくれたこと。全部、本当のことですか」
女の目に、みるみる涙が盛り上がった。
「本当かどうかって、そんなこと、聞かれると思ってませんでした」
「すみません」
「主人のことが、噓だとでも思ったんですか」
「そうじゃありません。ただ、確かめたかっただけです」
「確かめて、どうするんですか。本物だったら助けてくれるんですか。噓だったら、忘れるんですか」
亮は答えられなかった。女の言うとおりだった。本物かどうかを確かめたところで、亮にできることは何も変わらない。それでも聞かずにはいられなかった自分の弱さを、今さら思い知らされた。
女は、涙を拭いもせずに続けた。
「主人も、きっと同じことを聞かれたんだと思います。あなたは本物ですか、って。誰かに、どこかで」
その言葉が、亮の胸の奥に、鈍く刺さった。慎吾も、橋本も、望月も、誰もが一度はそう問われたのかもしれない。組織にとって、人間の真偽を確かめることと、人間を数字に変えることは、同じ作業の裏表でしかないのだろう。
女は鞄を強く抱え、それ以上何も言わなかった。目的地に着くまでの間、車内には気まずい沈黙だけが残った。
支払いを終え、女が降りるとき、亮はもう一度謝ろうとした。だが女は振り返らず、傘も差さずに雨の中を足早に歩き去った。その背中は、悲しみに暮れる人間のそれにしか見えなかった。
女の姿が見えなくなってから、亮はハンドルを握ったまま、配車アプリの再開ボタンに指を伸ばせずにいた。手のひらに、じっとりと汗がにじんでいた。心臓が、必要以上の速さで打っていた。本物であれ、模擬であれ、あの涙を引き出したのは自分の質問だったという事実だけは、消えなかった。
*
対象者用端末には、判定を求める表示がまだ残っていた。亮は、それに触れないまま、車を発進させた。
数分後、通知が届いた。
《判定放棄を検知しました》
《本件は規定外対応として記録します》
《残存価値を更新します》
《19→21》
小さな上昇だった。理由の説明は、どこにもなかった。
判定を拒んだことが、なぜ評価につながるのか、亮には分からなかった。御子柴が求めていたのは、独自の判断基準を業務に混ぜないことだったはずだ。だとすれば、これは褒賞ではなく、別の何かを試すための、さらに一段深い仕掛けなのかもしれなかった。分からないことが、また一つ増えただけだった。
続けて、メッセージが一件。
《須藤さん。今日のこと、興味深く見ました。次回、詳しくお話ししましょう》
送信者は、御子柴だった。「興味深く」という言葉が、何を意味するのか、亮には測りかねた。褒められているのか、警戒されているのか、その両方なのか。
亮は返信せず、端末をポケットにしまった。
結局、あの女が本物の乗客だったのか、組織が用意した模擬の一件だったのか、答えは出なかった。もし本物だったなら、亮は絶望している一人の人間を、意味もなく傷つけたことになる。もし模擬だったなら、あの涙も、あの声の震えも、すべて演技だったということになる。
どちらの答えも、亮を安心させてはくれなかった。むしろ、答えが出ないという事実そのものが、これからの毎日にずっと付きまとうのだと、亮は理解し始めていた。次に乗せる客も、その次の客も、同じ問いを抱えたまま運ぶことになる。本物かどうかを、もう二度と確かめられないまま。
三角巾の中で、腕がまた鈍く疼いた。医者は、もうすぐ外せると言った。だが、外れたところで、何かが元に戻るわけではないと、亮は今になって気づいた。
信号が青に変わる。亮はアクセルを踏み、次の依頼へと車を進めた。もう、乗客の誰が本物で誰が観察者なのか、見分けようとすること自体が、無意味に思えた。
それでも、亮はミラー越しに、後部座席を一瞥する癖だけは、やめられなかった。




