第二十八話「矯正」
対象者用端末の画面には、昨夜のメッセージがまだ残っていた。
《お久しぶりです。また、あなたを見る番になりました》
亮はそれを一瞥し、点呼を終えると、いつも通り担当車両に乗り込んだ。
いつも通り、とはいかなかった。
一件目の乗客を降ろしたところで、決済端末に見慣れない表示が出た。
《本人確認を実施します》
指紋認証を求められたのは、これまでなかったことだった。二件目でも、三件目でも、同じ確認が入った。乗客が変わるたびに、まるで亮自身が疑われているかのように、端末がいちいち念を押してくる。
三件目の客は、四十絡みの男だった。行き先を告げたきり黙り込み、後部座席からずっと亮の運転を見ているような気配がした。バックミラー越しに視線が合うと、男はすぐに窓の外へ顔を向けた。気のせいだと思おうとしたが、降車のとき、男は釣り銭を受け取らずに車を降りた。細かい金額ではなかった。
観察者かもしれない、という考えが、初めて頭をよぎった。まだ何も言われていないのに、身体の方が先に、誰かに見られている前提で動き始めていた。
三角巾で吊った右腕が、ハンドルに触れるたびに鈍く疼いた。慎吾にぶつけられた傷は、まだ完全には塞がっていない。痛みは、いつのまにか体の一部として馴染みつつあった。
昼過ぎ、信号待ちの車内で、対象者用端末が短く震えた。
《適性面談室への出頭を命じます》
《本日十七時までに、港区西新橋三丁目・中央適性管理棟九階へ》
《応じない場合、審査対象として即時再評価します》
行き先の住所には見覚えがなかった。管理区域でも、いつもの黒瀬の詰め所でもない。「中央」という響きが、これまでとは違う階層の場所であることを示していた。
亮は配車アプリを一時停止にし、車を西新橋へむけた。
*
外観は、何の変哲もない雑居ビルだった。一階に古い法律事務所とコインパーキングの精算機が並び、看板の類はどこにも出ていない。エレベーターは九階のボタンだけが他より磨り減っていた。
降りた先の廊下は白く、蛍光灯の光が均一すぎて、逆に落ち着かなかった。案内の表示もなく、突き当たりの一室だけ扉が開いている。
「どうぞ」
中から声がした。低く、抑揚の少ない声だった。
亮は部屋に入った。窓のない六畳ほどの空間に、机が一つと椅子が二つ。壁の一面が薄く発光し、そこに数字が並んでいる。空調の低い唸りだけが響いていて、外の気配は一切入ってこなかった。汗が首筋を伝う。室温のせいなのか、それとも別の理由なのか、判然としなかった。
机の向こうに座っていたのは、想像していたよりずっと若く見える人物だった。眼鏡の奥の目は、こちらの動きを一つも見逃すまいとしているのに、表情そのものは驚くほど平坦だった。
「はじめまして、で合っていますよね。須藤さん」
「メッセージは、もらいました」
「ええ。お久しぶりです、と書いたのは、本当は正確じゃありません。直接お会いするのは初めてですから」
御子柴は手元の端末を軽く操作した。壁の数字が切り替わる。
《対象:須藤亮》
《残存価値:19》
《秩序従属性:9》
《協調係数:24》
《危険逸脱傾向:61》
《組織推奨対応:監督強化フェーズ/信頼度89%》
前回、矯正プログラムの対象になったときは、六十二から四十七だった。今回は、十九。落差の大きさが、そのまま事態の深刻さを物語っていた。
「数字だけ見ると、心配になる内訳です」
「見せるために呼んだんですか」
「見ていただくために、です。ご自分の状態は、ご自分で把握しておいた方がいい。それが今日の趣旨の一つです」
御子柴は椅子に浅く腰かけ直し、両手を机の上で軽く組んだ。爪の先まで手入れの行き届いた指が、一瞬だけ机の端をなぞり、また止まった。癖なのか、何かを測っているのか、亮には分からなかった。
「データベースへの異常照会、車列の追走、既処分者施設への無許可入域。三件、まとめて処理されたそうですね」
「知ってるはずです。決めたのはそちらなんですから」
「知っています。ただ、須藤さんご自身の口から、理由を聞いていません」
亮の中で、橋本の声がよみがえった。理由を差し出せと言われること自体が、もう一度傷つけることだという話です。黒瀬が、それをなぞるように言い残していったことも。
「理由なら、端末が全部持ってるはずです」
「行動の記録は持っています。動機までは、記録できません」
御子柴の口調に、苛立ちの気配はなかった。世間話でもするような平静さで、こちらの内側に手を入れようとしている。それが、かえって不気味だった。
「言いたくないなら、それでも構いません。無理に聞き出すのが目的ではないので」
「じゃあ、何が目的なんですか」
「一つは、確認です。前回、須藤さんが矯正プログラムを受けたときのことを、覚えていますか」
「あまり、覚えていません」
正直な答えだった。五十を割った直後に呼び出され、何時間か拘束されたことは覚えている。だが、その場で何を見せられ、何を聞かされたのか、輪郭がぼやけたまま思い出せない。
「無理もありません」
御子柴は事もなげに言った。
「あれは、意識に強く残らないように設計されています。須藤さんには、複数の既存事例――判定が正しかったと事後的に評価された案件の記録映像と、対象者の生前の生活データを、時間をかけて視聴していただきました。感情の動きを計測しながら」
「そんなことのために、時間を取られてたんですか」
「感情そのものを変えるのではありません。判定における揺らぎの幅を、組織が想定する範囲に近づける。それだけのことです。効果があったかどうかは、その後の須藤さんの数字が示しています」
亮の胃の底が、冷たく縮んだ。自分が知らないうちに、自分の中の何かが調整されていたということだ。何を見せられたのかさえ思い出せないまま。
「二つ目は、須藤さんに、今後の運用を説明することです」
御子柴が端末をこちらへ向けた。画面に、新しい項目が表示される。
《監督強化フェーズ・実施内容》
《一、同乗観察の導入》
《二、モデルケース対応の実施》
《三、選定員適性の再評価(実施日未定)》
「一つ目から説明します。今後、須藤さんの乗務には、不定期に観察者が同乗します。乗客として。事前の通知はありません」
「乗客の、ふりをするってことですか」
「ふり、というと語弊があります。観察のために乗車する、というだけです。ただ、須藤さんの側からは、それが本物の乗客なのか、観察者なのか、区別する手段はありません」
背筋を、冷たいものが伝った。今日からは、車に乗ってくる誰もが、疑いの対象になる。行き先を告げる声、支払いの仕方、ちょっとした世間話――そのすべてが、監視かもしれないという前提の上に置かれることになる。
「今日の午後、釣り銭を受け取らずに降りた客がいました。あれも、そうですか」
御子柴は、こちらを見返しただけで、何も答えなかった。答えないことが、そのまま答えだった。
「次に、二つ目です。近日中に、モデルケースと呼ばれる対応を一件、指定します。実際の対象者ではなく、こちらで用意した想定に基づく判定業務です」
「訓練ってことですか」
「訓練というより、確認です。須藤さんが、選定員としてまだ機能しているかどうかの」
「まだ、っていうのは」
御子柴は、初めてわずかに口の端を動かした。笑ったのかどうか、判断がつかなかった。
「残存価値が下がるということは、判定への適性そのものが揺らいでいる、と組織は見ます。個人的な感情や、独自の判断基準が、業務に混ざり始めている兆候として」
「独自の判断基準の、何が悪いんですか」
「悪いとは言っていません。ただ、それは選定員に求められているものとは違う、という話です」
沈黙が落ちた。壁の数字だけが、変わらず光っていた。
「もう一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「黒瀬さんは、これを知ってるんですか」
御子柴は、少し間を置いた。
「黒瀬さんの裁量については、こちらでも注視しています。橋本さんとの会話を査定から外した判断も含めて」
その一言で、十分だった。黒瀬が亮を庇ったことは、既に組織の記録に残っている。庇う側の立場が、これから危うくなっていくのだろうということも。
「須藤さんに、一つだけお伝えしておきます」
御子柴が、初めて机から少し身を乗り出した。
「モデルケースへの対応の仕方によって、監督強化フェーズが解除される可能性もあれば、逆に、対象者用の評価軸に移行する可能性もあります。どちらに転ぶかは、須藤さん次第です」
「脅してるつもりですか」
「事実を、正確にお伝えしているだけです」
黒瀬が同じ言葉を使っていたことを、亮は思い出した。規則の適用範囲を、正確に守っているだけです。組織の人間は皆、同じ言葉を覚えさせられているのかもしれなかった。
「以上です。今日は、これで結構です」
御子柴が端末を閉じると、壁の数字も消えた。
亮が椅子を立ち、扉に向かいかけたとき、背中に声がかかった。
「須藤さん」
「何ですか」
「前回の矯正で、須藤さんの数字は上がりました。あのときは、うまくいった例です」
「それが、何か」
「うまくいかなかった例も、須藤さんにはお見せできます。必要であれば」
振り返っても、御子柴の表情に変化はなかった。ただ淡々と、選択肢の一つを提示しているだけの顔だった。亮は何も言わずに、部屋を出た。
*
エレベーターを降り、雑居ビルの外に出ると、夕方の空気が肌に触れた。三角巾の中で、腕がまた鈍く疼いた。
車に戻り、対象者用端末を確認する。数字に変化はなかった。十九のまま。ただ、これまでなかった項目が新しく追加されていた。
《次回モデルケース対応:通知待ち》
いつ来るか分からない、正体の分からない一件。それがいつ、どんな形で降ってくるのか、亮には見当もつかなかった。
エンジンをかけながら、亮は考えた。
これから乗せる客の一人一人が、観察者かもしれない。今日という日から、亮の運転席は、常に見られている場所になった。
だが、それは同時に――と、亮は思った。向こうが観察するというなら、こちらにも、観察する側に回る余地があるということだ。モデルケースという茶番に付き合いながら、その裏で、こちらが何を拾えるか。御子柴が寄越す「想定」の中に、組織の判断基準そのものが透けて見えるかもしれない。
利用されるだけで終わるつもりはなかった。
助手席の足元に置いたままの段ボール箱が、視界の端に映った。陸のクレヨンは、まだ二つに折れたままだった。返す約束は、また少し先に延びた。それでいい、と亮は思った。今は、それどころではなかった。
亮は配車アプリを再開し、車を発進させた。西日が、フロントガラスの向こうを橙色に染めていた。




