第二十七話「不通」
黒瀬の視線が、橋本の消えた方向から戻ってきたとき、亮の対象者用端末が短く震えた。
《規則違反、確定》
《データベース異常照会:検知》
《無許可の車列追走:検知》
《既処分者施設への無許可入域:検知》
《残存価値を更新します》
数字が動き始める。
《48→19》
亮は画面を見たまま、しばらく声が出なかった。
十九。
組織は、限界まで下がればどうなるか、はっきりと言ったことがない。ゼロで自動的に処分される、というのは脅し文句に過ぎないと聞かされてきた。だが、脅し文句がどこから本当になるのか、誰も教えてくれなかった。十九という数字は、亮がこれまで見た中で一番低かった。
「三件、まとめて処理しました」
黒瀬が言った。
「橋本さんとの会話の内容は、さっき言ったとおり含めていません。含めていたら、もう少し下がっていたと思います」
「庇ってるつもりですか」
「規則の適用範囲を、正確に守っているだけです」
亮は端末を閉じた。手のひらに汗がにじんでいる。三角巾で吊った右腕が、鈍く疼いた。慎吾の車にぶつけられた傷は、まだ塞がりきっていない。
「これで、終わりですか」
「今夜の分は」
黒瀬は腕の端末に視線を落とし、それから顔を上げた。
「出口まで、送ります」
「監視ですか」
「同じ経路を、もう一度単独で通らせるわけにはいきません。今の須藤さんの数字で単独通過を試みれば、次のゲートは理由をつけて止めます」
「理由なら、いくらでも作れるんでしょう」
「作らなくても、通せない理由がもう揃っています」
黒瀬の口調に、皮肉の色はなかった。ただ事実を並べているだけだった。それが、かえって亮の胸を冷たくした。
*
黒瀬が先に立って歩き出す。亮は言われるまま、路地に停めた車まで戻った。エンジンをかけると、黒瀬が助手席側の窓を軽く叩いた。窓を下げると、彼女は身をかがめて中を覗き込んだ。
「須藤さん」
「何ですか」
「橋本さんが言ったこと、覚えていてください」
「意味を探すな、ですか」
「それもですが」
黒瀬は一拍置いた。
「理由を差し出せと言われること自体が、もう一度傷つけることだという話です」
「俺に言ってるんですか。それとも、自分に」
黒瀬は答えず、体を起こした。
「前を走ります。ついてきてください」
黒瀬の車が先導すると、ゲートは今度は止められることなく開いた。警備員は敬礼のような仕草をしただけで、亮のIDを確認しようとすらしなかった。往きに亮を足止めした二人と同じ顔だったが、目も合わせてこなかった。監査人が同行するというのは、それだけの意味を持つらしかった。
湾岸線に戻ったのは、日付が変わる直前だった。黒瀬の車は途中で分かれ道に入り、追ってこなかった。テールランプが遠ざかるのを、亮はミラー越しに見ていた。
*
信号のない直線が続いた。亮は片手でハンドルを握ったまま、もう片方でスマートフォンを取り出した。着信履歴の一番上に、あの非通知の番号が残っている。
かけ直した。
呼び出し音が鳴らないまま、合成音声に切り替わる。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
聞き間違いかと思い、もう一度、番号を確かめてからかけ直す。
『おかけになった電話番号は――』
亮は通話を切った。
慎吾の番号にかけたとき、タネが聞いたのと同じ声だった。慎吾はデータベース上では生きていた。だから、あの合成音声は「存在しない」という意味ではない。ただ、その番号を持っていた人間が、もうその番号を使える場所にいない、というだけのことだった。
同じ声が、非通知の相手にも流れている。
忠告をくれた誰かは、もう自分の携帯を持っていないのかもしれない。番号ごと、存在を消されたのかもしれない。あるいは、最初から誰の携帯でもなかったのかもしれない。
どちらであっても、答えは変わらなかった。今夜、湾岸線を走ったことに変わりはない。忠告は届いていたのに、亮はそれを無視して走った。もしあの一文が、亮の代わりに誰かが払った代償だったとしたら――そう思うと、ハンドルを握る手に、余計な力が入った。腕の傷が、また鈍く痛んだ。
料金所の明かりが、フロントガラスの向こうを一定の間隔で流れていった。
*
上石神井のワンルームに戻ったのは、深夜一時を過ぎたころだった。玄関で靴を脱ぐ手も、まだ強張っていた。
亮はスマートフォンを取り出し、登録してある番号の中から、めったに使わない一件を選んだ。
呼び出し音は、三回で切れた。
「こんな時間に、珍しいな」
小野寺の声だった。低く、寝起きではなかった。
「起きてたんですか」
「夜勤明けだ。まだ興奮が抜けない」
「話したいことがあります」
「聞くだけなら聞く。手伝うかどうかは、内容による」
亮は迷いながら、言葉を選んだ。
「預かってほしいものがあります」
「物か」
「データです。スマホの中の写真です」
「見せられないやつか」
「見せられます。ただ、俺の端末に置いたままだと、消される可能性があります」
沈黙があった。
「何を撮った」
「第五管理区域の、移送者一覧です。数百人分」
小野寺が息を吸う音が聞こえた。
「お前、それ、どこで」
「決済端末のデータベースです」
「規則違反だろう、それ」
「はい」
「今さら聞くのも間抜けだが、なんでそんなもん撮った」
「分からなくなったからです。何人が、どこに消えたのか」
小野寺はしばらく黙っていた。
「分かって、どうする」
「まだ決めていません」
「決めてないものを、俺に預けるのか」
「はい」
「今この電話、誰かに聞かれてないか、心配にならないんですか」
「なる。だから、さっきから手短にしろって思ってる」
「すみません」
「謝るなら、先に要件を全部言え」
もう一度、沈黙があった。
「望月さんに謝りに行ったときのこと、覚えてるか」
「覚えています」
「あのとき、お前は俺を止めなかった。止めた方がいい場面だったのに、止めなかった」
「今も、止めた方がいいと思いますか」
小野寺の答えは、すぐには返ってこなかった。受話口の向こうで、ライターの音がした。
「娘に、まともな仕事してる父親だと言えるうちは、無茶はしない。それが俺の線だ」
「今回のことで、線を越えますか」
「越えるかどうかは、預かってから決める」
「断ってもいいです」
「断らないとは言ってない。預かるとも言ってない」
小野寺の声に、初めて小さな笑いが混じった。
「お前の今の数字、いくつだ」
亮は一瞬、答えるのをためらった。
「十九です」
短い間があった。
「そこまで落として、まだ隠す気か」
「隠すためじゃありません。守るためです」
「同じことだろう」
「違います。これは、俺のためだけじゃない」
小野寺は鼻で笑うような息を吐いた。
「口だけは、一丁前になったな。明日、車庫に来い。俺のロッカーに、鍵付きの引き出しがある。そこに入れておけ。それ以上は聞かない」
「ありがとうございます」
「礼はいい。その代わり」
小野寺の声が、少し低くなった。
「これで俺の娘に何かあったら、お前を許さない。それだけは覚えとけ」
通話が切れた。
亮は、しばらくスマートフォンを握ったまま、部屋の暗がりを見ていた。
小野寺を巻き込んだ。断れない頼み方をしたのは、自分だった。数字が十九まで落ちた男が持ちかける頼みが、どれほど危ういか、亮自身が一番よく知っていた。
助手席から持ち帰った段ボール箱の中で、陸のクレヨンの欠片が、まだ二つに折れたままになっている。返す約束は、また一つ、後回しになった。
*
シャワーを浴び終えたころ、対象者用端末が鳴った。
《選定員適性矯正プログラム》
《対象:須藤亮》
《残存価値50未満を継続して検知》
《監督強化フェーズへ移行します》
《担当選定員:御子柴慧》
数秒後、メッセージが一件届いた。
《お久しぶりです。また、あなたを見る番になりました》
送信者は、御子柴だった。
亮はメッセージを閉じ、返信しなかった。矯正プログラムがどんなものか、数週間前に一度受けている。あのときは、五十を割った直後に呼び出され、何を「矯正」されたのか、今でもうまく説明できない。御子柴が今度は何を直すつもりなのか、想像したくなかった。
それでも、明日の朝一番にやることは、もう決まっていた。
*
翌朝、亮は始発に近い時間に営業所へ向かった。事情を聞かれないよう、制服には着替えず、私服のまま裏口から車庫へ入る。
小野寺はすでに来ていた。整備用の作業台の前に立ち、缶コーヒーを片手に、亮を一瞥しただけで何も言わなかった。
「持ってきたか」
「はい」
亮はスマートフォンを差し出した。画面には、機内モードの表示が出たままになっている。
「電源、切らなくていいのか」
「切ると、逆に不自然です。位置情報が急に途絶えると、そこだけ見られたときに目立ちます」
「詳しいな」
「詳しくなりたくて、なったわけじゃありません」
小野寺は苦笑いも見せず、ロッカーの奥から鍵を取り出した。二重底になった工具箱の底に、小さな金属製の引き出しがある。会社の備品には見えなかった。
「昔、盗まれたら困る免許証と現金を入れてた場所だ。今はもう、誰も気にしてない」
引き出しの中に、スマートフォンを横たえる。小野寺はそれを見届けると、蓋を閉め、鍵をかけた。
「明日から、俺のスマホで連絡しろ。お前のは、しばらくこっちに置いとく」
「番号、変えるんですか」
「変えるとまでは言ってない。ただ、当分は距離を置け」
亮は頷いた。
「一つだけ聞いていいか」
小野寺が言った。
「あの一覧、公開するつもりなのか」
亮はすぐには答えられなかった。
「まだ、分かりません。ただ、消される前に、誰かの手元に残しておきたかった」
「それが、俺か」
「はい」
小野寺は工具箱を元の位置へ戻し、蓋の上に古びた雑巾をかぶせた。
「軽々しく預かったわけじゃない。娘のことは、本気で言ったからな」
「分かっています」
「分かってるやつの目じゃないな、それは」
小野寺は缶コーヒーを飲み干し、空き缶を潰した。
「まあいい。乗務の時間だ」
そう言って、いつもと変わらない足取りで整備場を出ていった。
亮は工具箱の蓋を、もう一度だけ見た。あの一覧は、もう自分だけのものではなくなった。
対象者用端末には、まだ昨夜のメッセージが残っている。
《お久しぶりです。また、あなたを見る番になりました》
亮はそれを消さないまま、制服に着替え、乗務の準備を始めた。




