第三十五話「私物」
通路の奥、二人が立ち止まったのは、亮のロッカーのちょうど正面だった。
事務所にいた全員の視線が、その一点に集まっていた。誰も声を出さなかったが、空気の重さで分かった。今日、この営業所にいる誰もが、自分のロッカーでなかったことに、密かに安堵している。亮だけが、その安堵を持てなかった。
クリップボードを持った方が、番号を読み上げる。
「三一七番、須藤亮さん」
呼ばれて、束の間、声が出なかった。喉の奥に貼りついていた空気を、無理やり押し出す。
「はい」
「開けていただけますか」
拒否できるとは思えなかった。それでも、体のどこかが、まだ拒否する余地を探していた。無駄だと分かっている計算を、頭の隅で続けながら、亮はポケットから鍵を取り出した。指先が、思ったより震えていることに気づく。震えを見られるほうが、震えを隠そうとして手間取るよりも、まだましな気がした。あえて動きを止めず、鍵穴に差し込む。回すと、金属のこすれる音が、静まり返った事務所にやけに大きく響いた。
扉を開ける。中身は、いつもと変わらなかった。予備の制服、タオル、常備薬の小袋、乗務記録の控え。点検員はそのひとつひとつを手袋越しに取り出し、カメラで撮影し、クリップボードに何かを書き込んでいった。手つきに迷いはなく、何百回と繰り返してきた作業なのだと分かった。
「これで全部ですか」
「はい」
「棚の奥まで、確認させてください」
もう一人の点検員が、懐中電灯を取り出した。狭いロッカーの奥に光を当て、何も見えないことを確かめると、今度は棚板に指をかけた。
「棚、外れる作りになってるんですね」
「知りませんでした」
嘘ではなかった。入社してからずっと、棚板を外そうと思ったことなど一度もない。自分のロッカーのはずなのに、自分が知らない構造が、まだ内側に残っている。その事実だけで、亮の胸の奥が冷えた。
*
続けて、点検員はドライブレコーダーの話を切り出した。
「担当車両の保存データを、提出していただきます」
「今、車に乗ってからのものですか」
「保存されている全期間分です。上書きされていない範囲で」
亮の背筋に、冷たいものが走った。深夜、裏路地に車を停め、決済端末で番号を照会したあの夜も、記録に残っているはずだった。停車位置、時間、エンジンをかけたままの滞在時間――何をしていたか、映像そのものがなくても、走行データだけで十分に不自然さは伝わる。人気のない路地に、意味もなく長時間車を停める理由を、亮はまだ考えついていなかった。
「解析は、こちらでするんですか」
「本社で行います。結果は追って」
追って、といういつもの曖昧な言い回しが、今日はいつもより重く聞こえた。結果がいつ、どんな形で自分に返ってくるのか、想像することすらできなかった。
「もう一つ、確認させてください」
点検員がクリップボードのページをめくった。
「乗務員が身につけている私物について、内容の確認をお願いできますか」
亮は、コートの内側に手を当てたい衝動を抑えた。今日はもう、あのスマートフォンはここにはない。それでも、聞かれること自体に体が反応した。掌に、じわりと汗がにじむ。
「携行品は、令状なしに開示を求められないと聞いています」
点検員は、驚いた様子も見せなかった。
「よくご存じですね」
「業務上の一般的な説明として、聞きました」
「結構です。開示を求めない旨、記録します」
あっさりと引き下がる態度が、かえって不気味だった。争われずに済んだことに安堵するより先に、その規定を知っていたこと自体が記録される、という事実の重さが亮にのしかかった。誰から聞いたか、まで書かれるのだろうか。黒瀬の名前が、こんな形で記録に残ってしまうのだとしたら。
*
棚板が外れる、乾いた音がした。
点検員の手が止まった。
「これは」
もう一人が振り返る。棚板の裏、本来は空洞であるはずの隙間に、薄い板状のものが挟まっていた。取り出されたそれは、色褪せたプラスチックのカードだった。
古い様式の乗務員証だった。今の亮のものより一回り大きく、写真の部分は変色して、輪郭しか分からない。氏名の欄は、経年による染みと、何かで意図的にこすったような跡が重なって、判読できなかった。亮は目を凝らしたが、一文字も拾えなかった。この形式の証を、亮は見たことがなかった。今の乗務員証にはICチップが埋め込まれ、材質も薄い。これほど厚みのあるカードは、少なくともここ数年の支給品ではないはずだった。
「須藤さんのものですか」
「違います」
即答した声が、自分でも聞いていて硬かった。
「では、誰のものですか」
「知りません。見たこともありません」
「このロッカーは、いつからお使いですか」
「入社したときから、ずっとこの番号です」
点検員は、カードを透明の袋へ入れ、番号を書いたラベルを貼った。それだけの動作が、やけに時間をかけて行われているように見えた。ラベルに書かれた数字を、亮は覚えようとしたが、角度のせいで読み取れなかった。
「本社で確認します」
「それは、いつまでこの営業所に――」
「今はお答えできません」
同じ言葉を、亮はもう何度も聞いていた。今はお答えできません。今はお伝えできません。答えの代わりに積み上がっていくのは、いつも、時間だけだった。
近くで見ていた事務員が、小さな声で言った。
「そのロッカー、須藤さんが来る前は、しばらく空いてたはずですよ」
「しばらく、というのは」
「さあ……台帳を見ないと、正確には」
事務員は、それ以上踏み込まず、視線をそらした。空いていた期間がどれくらいなのか、誰が最後に使っていたのか、この場で答えられる者は誰もいなかった。
亮は、自分が配属された日のことを思い出そうとした。ロッカーの中には、埃が薄く積もっていた記憶がある。長く使われていなかった痕跡には見えた。だが、それがどれだけの「長く」だったのか、当時の亮には知る由もなかった。空いていたのが半年なのか、五年なのか。台帳と現実の間に、誰も埋めようとしない隙間があるらしかった。
*
灰色のバンが営業所を出ていくころには、外はもう夕方に近い色に変わっていた。事務所の空気は、少しずつ普段の速度を取り戻していく。誰かが冗談めかして「肝が冷えたわ」と笑い、別の誰かがそれに相槌を打った。だが亮の中では、何一つ終わっていなかった。
対象者用端末が短く鳴った。
《点検記録を登録しました》 《提出物:ドライブレコーダー保存データ/私物一点(所有者未確認)》 《本件は本社預かりとします》
所有者未確認、という五文字が、画面の中でやけに平坦に並んでいた。誰のものか分からないという表現が、これほど不穏に見えるとは思わなかった。
亮は、整備場の隅で工具を片付けている小野寺を見つけた。声をかけるより先に、小野寺の視線が、点検員の乗ってきたバンの方に向いているのに気づいた。透明の袋に入ったあのカードが、バンの荷室へ運び込まれる瞬間だった。
小野寺の表情が、一瞬だけ動いた。驚きでも、無関心でもない、もっと具体的な何かを見た目だった。だがそれは瞬きの間に消え、いつもの硬い顔に戻った。その一瞬を、亮は見逃さなかった。
「小野寺さん」
「なんだ」
「今、見ましたよね」
「何をだ」
「あのカードです」
小野寺は工具箱の蓋を閉めた。手の動きが、いつもよりわずかに固かった。
「見た。それだけだ」
「知ってる顔でしたか」
「顔なんか、写真じゃ分からなかっただろう」
「知ってるものだったんですか、それとも――」
「今の話は、いいと言っただろう」
以前と同じ拒絶だった。だが今日は、その拒絶の速さが、いつもよりわずかに遅かった。ほんの一呼吸分。それだけの差が、亮には十分だった。前に同じ言葉で断られたときとは、明らかに質の違う間だった。
「小野寺さんは、あれが誰のものか、知っているんですね」
小野寺は答えなかった。答えないことが、もう答えだった。
「潰れていった奴がいた、と言いましたよね」
「言った」
「そいつの持ち物だったんじゃないですか」
小野寺は、工具箱を担ぎ直した。
「今、それを俺に聞いて、お前は何がしたいんだ」
亮は答えられなかった。知りたいのか、繋げたいだけなのか、自分でも分からなくなっていた。
「今日はもう、帰れ」
小野寺はそれだけ言って、背を向けた。
*
点検員たちが最後にもう一度、事務所に戻ってきた。所長に何かを確認したあと、一人が亮の方へまっすぐ歩いてきた。
「須藤亮さんで、間違いありませんね」
名簿と、亮の顔を見比べるような仕草だった。今日、何十人もの乗務員を確認してきたはずの相手が、最後にもう一度だけ、名前を確かめに来た。
「はい」
「ご協力、ありがとうございました」
それだけ言って、点検員は踵を返した。
儀礼的な言葉のはずだった。だが、点検の対象が営業所全体だったはずなのに、去り際にわざわざ名前を確かめられたのは、亮だけだった。
灰色のバンのテールランプが門を出ていくのを、亮は動けないまま見送った。証拠のスマートフォンは、今も自宅の換気扇の裏にある。物としては、何も見つかっていない。それなのに、点検が始まる前より、はるかに深いところまで踏み込まれた気がした。
自分より先に、この番号のロッカーを使っていた誰かがいる。その誰かの名残が、ずっと棚板の裏で、亮の知らないまま眠っていた。何も持ち込んでいないつもりの場所に、すでに何かが仕込まれていた。今日、それを見つけたのが自分でなく、組織の側だったという事実だけが、はっきりと残った。




