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第二十五話「欠番」

透析室前の廊下には、消毒液と、乾いた血の匂いが薄く残っていた。


須藤亮は、案内された病室のドアの前で、一度だけ手を止めた。ノブは冷たく、指の腹に感触だけが伝わって、力が入らない。中から物音はしなかった。


思い切って開けると、藤堂タネはベッドを起こし、点滴の管をつないだまま、窓の外を見ていた。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、白いシーツの上に細い線を引いている。亮に気づくと、少し驚いた顔をした。


「須藤さん……どうして、ここに」


「近くまで来ていたので」


嘘だった。タネはそれ以上追及せず、皺の寄った手で布団の端を握った。昨夜、防波堤で会ったときの慎吾の顔が、亮の中でまだ消えていない。


「慎吾は。息子は、来ましたか」


「今、連絡を取っています」


「そう」


タネは安心したように、小さく頷いた。頬の腫れは引いていたが、瞼の下にはまだ薄い黄色い痣のようなものが残っている。点滴のスタンドには、昨夜より一本多く袋が下がっていた。


「あの子、電話に出ないと、いつも仕事が忙しいだけなの。そういう子だから」


「そうかもしれません」


「須藤さんの腕、大丈夫?」


タネが亮の三角巾へ目をやった。


「昨日、慎吾があなたに何かしたんじゃない」


「転んだだけです」


「嘘、下手ね」


タネは小さく笑った。笑うと、頬の皮膚が薄く突っ張った。


そこへ、看護師が検温のために入ってきた。血圧計のカフを腕へ巻きながら、タネが「息子はまだ?」と聞くと、看護師はカルテを確認し、少し表情を止めた。


「藤堂さん……ご家族欄に、息子様のお名前は記載があるんですが」


「ええ、慎吾です」


「保険証の紐付けが、確認できないみたいで。システムには、お名前だけ残っていて、それ以外の情報が全部……」


看護師は自分の言葉に戸惑いながら、端末をもう一度操作した。画面を三度タップし、それでも同じ表示が出るのか、眉根を寄せる。


「変ですね。少し前まで、面会記録もあったはずなんですけど。一度、システム管理へ確認してみます」


「よろしくお願いします」


タネはそう答えたが、声の張りが一段だけ落ちていた。


看護師が部屋を出ていく。血圧計の数値を読み上げるのを忘れたことに、誰も気づかなかった。


タネは枕元のスマートフォンを取り、震える指で画面をタップした。老眼鏡をかけ直し、慎吾の番号を呼び出す。呼び出し音のかわりに、聞き慣れない合成音声が流れた。


『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』


タネは同じ操作を、もう一度繰り返した。


『おかけになった電話番号は――』


「壊れてるのかしら」


「電波が悪いのかもしれません」


「あなたの電話で、かけてみてくれる?」


亮は断れなかった。自分のスマートフォンを取り出し、履歴に残っていた慎吾の番号を呼び出す。


同じ合成音声が流れた。


タネはそれを、亮の顔を見ながら聞いていた。


「須藤さんの電話でも、同じなのね」


「番号が変わったのかもしれません」


「三十年、変わったことないのに」


タネはスマートフォンを膝の上へ置いた。老眼鏡の奥で、瞳がゆっくり亮へ向く。何かを問い詰める目ではなかった。むしろ、答えを聞くのを恐れているような目だった。



「須藤さん」


タネがようやく口を開いた。


「前に、私が言ったこと、覚えてる?迷惑をかけるくらいなら、消えた方がいいって」


「覚えています」


「あれ、本気だったのよ。慎吾に、これ以上迷惑をかけたくなかった」


「藤堂さんは、迷惑なんかじゃない」


「じゃあ、慎吾は」


タネの声は震えていなかった。ただ、静かに、確かめるような響きだった。


「あの子も、迷惑だったの?」


亮は、口を開きかけて、閉じた。


正しい言葉がどこにもなかった。


「……分かりません」


「分からないのに、あなたの顔、そう言ってるように見える」


タネは点滴の管を指先でなぞった。


「若洲で、あなたが来てくれたとき」


「はい」


「あなた、卑怯な人になったのねって、わたし言ったでしょう」


亮は答えなかった。ちゃんと聞こえていた。あの日から、ずっと耳の奥に残っている言葉だった。


「あれ、取り消そうと思ってたの。あなたが来てくれたから、わたし今生きてる。だから、間違ってたって言おうと思ってた」


タネは窓の外へ視線を戻した。


「でも、いま慎吾がいないって聞いて、また同じ気がしてきた」


「藤堂さん」


「もういいわ。ありがとう、須藤さん。今まで、乗せてくれて」


それは、別れの言葉のように聞こえた。


「どこにも行きません」


「行かなくても、いいの。ただ、あなたがどっち側の人か、もう聞かないことにする」


「藤堂さん」


「いいのよ、無理して答えなくて」


タネは老眼鏡を外し、畳んでサイドテーブルへ置いた。


「わたし、透析を四十年近くやってるの。針を刺されるたび、看護師さんの手が上手いか下手か、すぐ分かるようになる。今日の人は上手だった。あなたも同じ。上手に、何も言わない」


「藤堂さんを、傷つけたくないだけです」


「傷つけないようにするのと、本当のことを言わないのは、同じじゃないわ」


亮は何も言い返せないまま、しばらくベッドの脇に立っていた。タネはもう亮を見ておらず、窓の外の、洗濯物を干すベランダのようなものを眺めていた。


点滴の落ちる音だけが、規則正しく部屋に響いていた。


看護師が戻ってこないまま、面会時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。



タクシーのエンジンをかけても、しばらく動かせなかった。


助手席に置いた対象者用端末には、まだ《48》の数字が表示されている。慎吾を処分してから、まだ半日も経っていなかった。


黒瀬から着信があったのは、駐車場を出て五分ほど走ったころだった。


「須藤さん。今回の判定、組織の評価が確定しました」


「評価なんて、聞きたくないです」


「聞いてください。予測との一致率、九十二パーセント。危険行為の未然防止も加点対象になっています」


「それで、何が言いたいんですか」


「報酬の段階が、一つ上がりました」


亮はハンドルを強く握った。信号が赤になり、車列の最後尾に着く。


「今までの現金や記録抹消とは別に、閲覧権限が付与されます。今夜中に、端末へ反映されるはずです」


「閲覧権限」


「他人の残存価値と、処分後の移送状況を照会できます」


「それ、俺が欲しがると思ったんですか」


「欲しがるかどうかは関係ありません。基準を満たしたので付与されるだけです」


「基準」


「予測との一致率が九十を超えた選定員には、自動的に付与されます。須藤さんの意思は、審査項目に入っていません」


亮は前を見た。信号はまだ赤だった。


「藤堂タネさんの容体は、そちらでも見えるんですか」


「見えます」


「教えてくれますか」


「安定しています。ただし、息子さんの現況に関する開示は、須藤さんの権限では行えません」


「今、権限をもらったばかりでしょう」


「移送状況の照会と、家族への説明は別の権限です」


信号が青になった。亮はアクセルを踏んだ。


「藤堂さんに、何て言えばいいんですか」


「それは、私が答える質問ではありません」


「あなたたちは、いつもそうだ」


亮は信号待ちの間、ハンドルに額を寄せた。


「答えられない質問だけが、俺のところに残る」


「須藤さん」


黒瀬の声のトーンが、わずかに変わった。


「権限は、使わなければ意味がありません。付与された以上、あなたにも使う責任があります」


「責任、押しつけるんですね」


「押しつけているのではなく、説明しています。使い方を知らないまま持っていれば、いずれ誤って使うことになります」


「誤った使い方を、教えてくれるんですか」


「教えるのは規則だけです。判断はあなたがします」


通話はそれだけで切れた。


信号が青に変わっても、亮はしばらく動かなかった。後ろの車がクラクションを鳴らし、ようやくアクセルを踏む。


助手席の段ボール箱に、陸のクレヨンが入っていた。二つに折れた青い欠片を、亮は片手で拾い上げた。返しに行くと約束したまま、まだ果たしていない。


陸の生存責任を引き受けたとき、亮は誰かの将来へ責任を持つとはどういうことか、まだ分かっていなかった。今なら分かる気がした。責任とは、相手の人生の重さを、自分の残存価値に置き換えて計算されることだった。


慎吾にも、同じ重さがあったはずだった。タネという母親を支え続けた十年間が、亮の端末では三十七という数字に変わり、処分の判断材料になった。


亮はクレヨンを箱へ戻し、蓋を閉めた。



赤信号で止まったとき、決済端末に新しいアイコンが現れた。


《データベース照会》


指で触れると、検索窓が開いた。利用規約らしき短い文章が一行だけ表示され、すぐに消える。《本機能の利用は記録されます》。


亮は迷いながら、藤堂慎吾と入力した。


《氏名:藤堂慎吾》

《現況:移送済》

《移送先:第五管理区域》

《労働評価:C》

《備考:戸籍抹消済》


生きている。


それだけは分かった。だが、生きているという言葉が、これほど空しく響いたことはなかった。


亮は画面をスクロールした。もう一段下に、細かい項目が並んでいる。真壁のときには見られなかった内訳だった。


《健康状態:良好》

《面会許可:不可》

《再審査申請資格:処分後三年経過より》


三年。


橋本は三回申請して、まだ一度も通っていない。慎吾に許される最初の申請までの三年間、タネがどれだけ生きていられるのか、誰も保証していなかった。


亮は次に、榊原直人と入力した。以前、御子柴が語った名前だった。


《氏名:榊原直人》

《現況:移送済》

《移送先:第三管理区域》

《労働評価:D》

《備考:戸籍抹消済》


数字と記号だけの記録。人がいたことを示すのは、名前の一行だけだった。


信号が青になった。後ろの車がクラクションを鳴らす。


亮は車を発進させながら、もう一度、検索窓に触れた。


今度は名前を入れず、地域だけで検索した。


《第五管理区域・移送者一覧》


画面に、名前の列が流れ始めた。


百人、二百人。スクロールしても終わらない。


年齢も、性別も、職業もばらばらだった。共通しているのは、氏名の横に並ぶ「戸籍抹消済」の四文字だけだった。


亮は路肩に車を停めた。


これは、慎吾や榊原だけの話ではなかった。


一覧の中ほどに、見覚えのある苗字があった。


《望月》


指が止まる。小野寺の事故の被害者、望月菜緒とは違う苗字の並びだったが、一瞬だけ心臓が跳ねた。別人だった。それでも、この一覧のどこかに、亮が知らない誰かの人生が、同じ四文字で片付けられている。


亮は一覧を上から数えてみようとした。三十七人まで数えたところで、指がスクロールの速度を見失った。数えることに、意味があるとは思えなかった。百人でも、二百人でも、この画面の外にいる人間からすれば、同じ「いなくなった」でしかない。


タネが慎吾にかけた電話の、あの合成音声を思い出した。


『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』


この一覧の一行ずつに、同じ声を聞かされている家族がいる。今日、明日、来週。順番に、同じ言葉を聞くことになる。



端末の画面を、亮はスマートフォンのカメラで撮った。


システムの注意書きが浮かぶ。


《画面の複製・外部保存は規則違反です》

《違反は査定に反映されます》


亮は構わず、次のページへ進み、また撮影した。指が止まらなかった。


これまで、処分は個別の事件だった。橋本、三崎、タネ、小野寺、そして慎吾。一件ずつ、理由があり、迷いがあり、痛みがあった。


だが、この一覧には、迷いも痛みもなかった。ただ、数として並んでいるだけだった。


亮は端末を閉じ、スマートフォンをポケットへ戻した。


対象者用端末に、通知が入った。


《異常な照会パターンを検知しました》

《査定担当者へ報告されます》


亮は構わず、車を発進させた。


行き先は決まっていた。


第三管理区域。橋本がいる場所。


あの区域から出られなかった橋本になら、この一覧の意味が分かるはずだった。橋本はすでに三回、再審査を申請し、三回とも却下されている。慎吾が最初の申請にたどり着くころには、橋本はさらに何度、同じ結果を見せられているのか分からなかった。


前に会ったとき、橋本は聞いた。


――お前が次に誰を選ぶかじゃない。俺を消したあと、お前が誰になったか聞いてるんだ。


あのときは答えられなかった。今なら、少しだけ分かる気がした。答えたくないから、また車を走らせている。


亮は湾岸線への入口を目指し、アクセルを踏んだ。


対象者用端末の《48》という数字が、これから先、意味を持たなくなる予感がした。

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