第二十四話「共犯」
《対象:藤堂慎吾》
《判定期限:72時間》
白と黒の文字が消えないまま、対象者用端末の下に、もう一つの表示が重なった。
《身元整理・次段階》
《雇用資格の失効まで:3時間12分》
須藤亮は運転席で、二つの時計を見比べた。
慎吾の72時間はまだ始まったばかりだった。だが、亮自身の時間は、そこまで残っていない。
タクシーの無線が鳴った。営業所からだった。
「須藤。お前の乗務員証、明日付けで失効するって通知が来てる」
小野寺の声だった。いつもの軽口はなかった。
「本社の判断ですか」
「厚生安定化庁とかいう、聞いたこともない役所からの照会だ。断れる話じゃないらしい」
「明日の何時ですか」
「日付が変わる瞬間だとよ。お前、いったい何をやらかしたんだ」
亮は答えなかった。
「須藤。まだ何とかなるうちに――」
「すみません。今、手が離せません」
通話を切る。
雇用資格を失えば、タクシーは動かせなくなる。今夜のうちに、この車も、この仕事も、亮のものではなくなる。
*
病院からの着信は、その直後だった。
「藤堂タネさんの容体ですが」
看護師の声は落ち着いていた。
「峠は越えました。今夜が山だと思っていましたが、数値が安定しています」
「意識は」
「まだ戻っていません。ただ、この調子なら、明日には」
安堵よりも先に、別の考えが浮かんだ。
目を覚ましたタネの前に、慎吾がいなかったら。
「藤堂慎吾さんの連絡先はお持ちですか。ご家族への説明が必要なので」
「今、捜しています」
亮はそれだけ答え、通話を切った。
*
慎吾を捜すため、亮は決済端末で貸金業者の情報にアクセスした。正式な閲覧権限はもう亮にはなかったが、対象者となった慎吾の関連記録として、一部だけが自動的に開示されていた。
《藤堂慎吾・借入状況》
三百二十万円。返済期日、明日正午。
貸主の欄には、正規の消費者金融ではなく、個人名義の貸付業者が記されている。
その下に、通話記録の抜粋があった。
『期日までに用意できなければ、車で仕事してもらう』
『仕事って何ですか』
『簡単だ。指定した場所で、指定した時間に、決められた車とぶつかればいい。向こうは任意保険にしっかり入ってる。示談金の半分をこっちに回してもらう』
日付は、今日の午後だった。
亮は端末を握った。
保険金目的の当たり屋。指定された場所には、まだ名前が出ていない。
慎吾のスマートフォンへかけても、電源が切られている。位置情報だけが、若洲から都心方向へ移動していた。
亮はエンジンをかけた。
雇用資格が失効するまで、あと二時間半。
*
慎吾の位置情報は、環七通りと明治通りが交わる交差点付近で止まっていた。
亮が現場に着いたとき、慎吾は歩道の隅で、古いシルバーの軽自動車の運転席に座っていた。エンジンはかかったままだった。
「藤堂さん」
窓を叩くと、慎吾はゆっくりこちらを向いた。
「まだ、消してなかったんですか」
「これから、何をするつもりですか」
慎吾は答えず、対向車線を見た。信号が赤から青に変わるところだった。
歩道を、自転車に乗った女性が渡ろうとしている。
「藤堂さん」
「金、明日までなんですよ」
慎吾の声は乾いていた。
「向こうの車、あと二分でここを通る。国産の白いセダン。ぶつかって、脚の一本でも折れば、示談金が入る」
「わざと事故を起こすんですか」
「タイミングさえ合わせりゃいい。相手にも保険が入る。誰も損しない」
「損しない、はずないでしょう」
「じゃあ、どうしろって言うんです」
慎吾がハンドルに手をかけた。
「母さんの医療費も、俺の借金も、あんたが払ってくれるんですか」
亮は答えられなかった。
信号が変わる。白いセダンが、少し先の車線から近づいてくる。
自転車の女性も、横断歩道へ入ろうとしていた。
「藤堂さん、待って」
「待てない」
慎吾がアクセルを踏んだ。
軽自動車が車道へ飛び出す。
亮は反射的に自分の車を前へ出した。軽自動車の進路と、白いセダンの間へ、割り込む形になる。
鈍い音がした。
慎吾の車が、亮のタクシーの後部へ接触した。ぶつかった衝撃で、割れていた後部窓のフィルムが完全に剥がれ、ガラスの破片が座席へ散った。
白いセダンは急ブレーキをかけ、自転車の女性は転倒せずに済んだ。悲鳴だけが響いた。
亮の車は歩道の縁石へ乗り上げて止まった。
*
慎吾の車は、少し先で停止していた。
亮は運転席から降りた。腕の傷が、衝撃でまた鈍く痛んでいる。
「藤堂さん」
慎吾は動かなかった。ハンドルに額を押しつけ、両手で顔を覆っている。
「本当に、やる気だったんですか」
「あんたが、邪魔しなければ」
「相手の車に乗ってた人がどうなるか、考えましたか」
「考えたよ。何度も」
慎吾が顔を上げた。目が赤い。
「考えて、それでもやるしかないと思った。それの、どこが悪いんですか」
亮は対象者用端末を開いた。
慎吾の判定画面が、今も待機している。
《生存》《処分》
白いセダンの運転手が、こちらへ駆け寄ってくるのが見えた。自転車の女性も、まだ震えながら立ち尽くしている。
亮は、今起きたことのすべてを見ていた。
慎吾が本気で当たり屋をやろうとしたこと。止めなければ、無関係な人間が巻き込まれていたこと。
これは資料の中の数字ではなく、たった今、目の前で起きた事実だった。
処分を支持する理由が、これで揃った。
亮は端末を握った。
雇用資格が失効するまで、あと一時間五十一分。
黒い《処分》に指を近づける。
慎吾を止めるために、自分の車を犠牲にした。今度は自分の生活を守るために、慎吾を消す。
筋は通っているように思えた。
慎吾が自分を消せば、あの母親をこれ以上苦しめる人間はいなくなる。母親の医療費を心配する必要も、借金を重ねる心配も消える。
そう考えている自分に、亮は初めて気づいた。
正しい理由を並べれば並べるほど、それが自分を助ける理由と重なっていく。
御子柴が最初に言っていたことだった。
理由は、もともと本人の中にある。誰かが外へ出すだけだ。
亮は、慎吾の中にあった理由を、自分の都合のいい形に整えていた。
それでも、指は止まらなかった。
《処分》を押す。
確認画面が現れる。
《対象:藤堂慎吾》
《判定:処分》
《確定後の変更はできません》
白いセダンの運転手が、慎吾の車の窓を叩いている。
亮は《確定》を押した。
*
慎吾のスマートフォンから、通信が切れる音がした。
車のエンジンが止まる。
慎吾が窓を開けようとしても、パワーウインドーは反応しなかった。
「なんだ、これ」
慎吾がドアを開けようとする。ロックが外から効いているように動かない。
亮の対象者用端末に、処理状況が並んだ。
《住民登録:失効》
《金融口座:凍結》
《運転資格:失効》
《判定完了》
続いて、亮自身の画面が切り替わる。
《判定結果:処分》
《組織予測と一致》
《危険行為の未然防止》
《残存価値を更新します》
《10→48》
数字が青く点灯した。
雇用資格失効の表示が消える。
保険証の失効通知も、住居契約の警告も、すべて取り消された。
元どおりの生活が、指一本で戻ってきた。
慎吾は車の中で、ドアを何度も引いていた。声は聞こえなかった。ガラス越しに、口だけが動いている。
灰色の車が、路地の奥から現れた。
*
三十分後、現場には警察と保険会社の人間が集まっていた。
白いセダンの運転手は無事で、自転車の女性も軽い擦り傷だけで済んだ。亮のタクシーは後部が大きく凹み、警察から事情を聞かれたが、故意にぶつけられた被害者として扱われた。
灰色の車に乗せられていく慎吾を、亮は見ていた。
慎吾はもう暴れなかった。白いカードを片手に持たされ、促されるまま乗り込んでいく。
一度だけ、亮の方を見た。
何も言わなかった。
車が走り去る。
亮の対象者用端末が鳴った。
御子柴からだった。
「早かったですね」
「あなたの言うとおりにしただけです」
「私は、処分しろとは言っていません」
「同じことでしょう」
「違います」
御子柴の声に、いつもの平坦さがあった。
「理由は本人の中にあった。それを外へ出したのは、あなたです」
「あなたが最初に言った言葉です」
「はい」
短い沈黙があった。
「須藤さん」
「何ですか」
「今の気分は、どうです」
亮は答えられなかった。
助けられた気がした。生活が戻り、車も、部屋も、失わずに済んだ。
同時に、胸の奥に何かが硬く残っている。慎吾を止めたことは間違っていない。だが、止めたあとに、消す必要まではなかったかもしれない。
その迷いごと、自分は数字と引き換えにした。
「分かりません」
「分からないまま、次も同じことをするんですか」
御子柴は答えを待たずに、通話を切った。
*
病院から着信が入ったのは、その十分後だった。
「藤堂タネさんが、目を覚まされました」
看護師の声は明るかった。
「意識もはっきりしています。息子さんに会いたいと、何度もおっしゃっていて」
亮は病院の駐車場に、まだ車を停めたままだった。凹んだ後部を、街灯の光が照らしている。
「須藤さん?」
「……今から向かいます」
通話を切り、亮はエンジンをかけなかった。
対象者用端末には、まだ《48》の数字が表示されている。
タネに何と伝えればいいのか、その言葉を、まだ持っていなかった。
亮は病棟の明かりを見上げた。
エレベーターの前で、慎吾に会いたいと繰り返す母親が待っている。
亮はドアに手をかけたまま、しばらく車を降りられずにいた。




