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第二十四話「共犯」

《対象:藤堂慎吾》

《判定期限:72時間》


白と黒の文字が消えないまま、対象者用端末の下に、もう一つの表示が重なった。


《身元整理・次段階》

《雇用資格の失効まで:3時間12分》


須藤亮は運転席で、二つの時計を見比べた。


慎吾の72時間はまだ始まったばかりだった。だが、亮自身の時間は、そこまで残っていない。


タクシーの無線が鳴った。営業所からだった。


「須藤。お前の乗務員証、明日付けで失効するって通知が来てる」


小野寺の声だった。いつもの軽口はなかった。


「本社の判断ですか」


「厚生安定化庁とかいう、聞いたこともない役所からの照会だ。断れる話じゃないらしい」


「明日の何時ですか」


「日付が変わる瞬間だとよ。お前、いったい何をやらかしたんだ」


亮は答えなかった。


「須藤。まだ何とかなるうちに――」


「すみません。今、手が離せません」


通話を切る。


雇用資格を失えば、タクシーは動かせなくなる。今夜のうちに、この車も、この仕事も、亮のものではなくなる。



病院からの着信は、その直後だった。


「藤堂タネさんの容体ですが」


看護師の声は落ち着いていた。


「峠は越えました。今夜が山だと思っていましたが、数値が安定しています」


「意識は」


「まだ戻っていません。ただ、この調子なら、明日には」


安堵よりも先に、別の考えが浮かんだ。


目を覚ましたタネの前に、慎吾がいなかったら。


「藤堂慎吾さんの連絡先はお持ちですか。ご家族への説明が必要なので」


「今、捜しています」


亮はそれだけ答え、通話を切った。



慎吾を捜すため、亮は決済端末で貸金業者の情報にアクセスした。正式な閲覧権限はもう亮にはなかったが、対象者となった慎吾の関連記録として、一部だけが自動的に開示されていた。


《藤堂慎吾・借入状況》


三百二十万円。返済期日、明日正午。


貸主の欄には、正規の消費者金融ではなく、個人名義の貸付業者が記されている。


その下に、通話記録の抜粋があった。


『期日までに用意できなければ、車で仕事してもらう』


『仕事って何ですか』


『簡単だ。指定した場所で、指定した時間に、決められた車とぶつかればいい。向こうは任意保険にしっかり入ってる。示談金の半分をこっちに回してもらう』


日付は、今日の午後だった。


亮は端末を握った。


保険金目的の当たり屋。指定された場所には、まだ名前が出ていない。


慎吾のスマートフォンへかけても、電源が切られている。位置情報だけが、若洲から都心方向へ移動していた。


亮はエンジンをかけた。


雇用資格が失効するまで、あと二時間半。



慎吾の位置情報は、環七通りと明治通りが交わる交差点付近で止まっていた。


亮が現場に着いたとき、慎吾は歩道の隅で、古いシルバーの軽自動車の運転席に座っていた。エンジンはかかったままだった。


「藤堂さん」


窓を叩くと、慎吾はゆっくりこちらを向いた。


「まだ、消してなかったんですか」


「これから、何をするつもりですか」


慎吾は答えず、対向車線を見た。信号が赤から青に変わるところだった。


歩道を、自転車に乗った女性が渡ろうとしている。


「藤堂さん」


「金、明日までなんですよ」


慎吾の声は乾いていた。


「向こうの車、あと二分でここを通る。国産の白いセダン。ぶつかって、脚の一本でも折れば、示談金が入る」


「わざと事故を起こすんですか」


「タイミングさえ合わせりゃいい。相手にも保険が入る。誰も損しない」


「損しない、はずないでしょう」


「じゃあ、どうしろって言うんです」


慎吾がハンドルに手をかけた。


「母さんの医療費も、俺の借金も、あんたが払ってくれるんですか」


亮は答えられなかった。


信号が変わる。白いセダンが、少し先の車線から近づいてくる。


自転車の女性も、横断歩道へ入ろうとしていた。


「藤堂さん、待って」


「待てない」


慎吾がアクセルを踏んだ。


軽自動車が車道へ飛び出す。


亮は反射的に自分の車を前へ出した。軽自動車の進路と、白いセダンの間へ、割り込む形になる。


鈍い音がした。


慎吾の車が、亮のタクシーの後部へ接触した。ぶつかった衝撃で、割れていた後部窓のフィルムが完全に剥がれ、ガラスの破片が座席へ散った。


白いセダンは急ブレーキをかけ、自転車の女性は転倒せずに済んだ。悲鳴だけが響いた。


亮の車は歩道の縁石へ乗り上げて止まった。



慎吾の車は、少し先で停止していた。


亮は運転席から降りた。腕の傷が、衝撃でまた鈍く痛んでいる。


「藤堂さん」


慎吾は動かなかった。ハンドルに額を押しつけ、両手で顔を覆っている。


「本当に、やる気だったんですか」


「あんたが、邪魔しなければ」


「相手の車に乗ってた人がどうなるか、考えましたか」


「考えたよ。何度も」


慎吾が顔を上げた。目が赤い。


「考えて、それでもやるしかないと思った。それの、どこが悪いんですか」


亮は対象者用端末を開いた。


慎吾の判定画面が、今も待機している。


《生存》《処分》


白いセダンの運転手が、こちらへ駆け寄ってくるのが見えた。自転車の女性も、まだ震えながら立ち尽くしている。


亮は、今起きたことのすべてを見ていた。


慎吾が本気で当たり屋をやろうとしたこと。止めなければ、無関係な人間が巻き込まれていたこと。


これは資料の中の数字ではなく、たった今、目の前で起きた事実だった。


処分を支持する理由が、これで揃った。


亮は端末を握った。


雇用資格が失効するまで、あと一時間五十一分。


黒い《処分》に指を近づける。


慎吾を止めるために、自分の車を犠牲にした。今度は自分の生活を守るために、慎吾を消す。


筋は通っているように思えた。


慎吾が自分を消せば、あの母親をこれ以上苦しめる人間はいなくなる。母親の医療費を心配する必要も、借金を重ねる心配も消える。


そう考えている自分に、亮は初めて気づいた。


正しい理由を並べれば並べるほど、それが自分を助ける理由と重なっていく。


御子柴が最初に言っていたことだった。


理由は、もともと本人の中にある。誰かが外へ出すだけだ。


亮は、慎吾の中にあった理由を、自分の都合のいい形に整えていた。


それでも、指は止まらなかった。


《処分》を押す。


確認画面が現れる。


《対象:藤堂慎吾》


《判定:処分》


《確定後の変更はできません》


白いセダンの運転手が、慎吾の車の窓を叩いている。


亮は《確定》を押した。



慎吾のスマートフォンから、通信が切れる音がした。


車のエンジンが止まる。


慎吾が窓を開けようとしても、パワーウインドーは反応しなかった。


「なんだ、これ」


慎吾がドアを開けようとする。ロックが外から効いているように動かない。


亮の対象者用端末に、処理状況が並んだ。


《住民登録:失効》


《金融口座:凍結》


《運転資格:失効》


《判定完了》


続いて、亮自身の画面が切り替わる。


《判定結果:処分》


《組織予測と一致》


《危険行為の未然防止》


《残存価値を更新します》


《10→48》


数字が青く点灯した。


雇用資格失効の表示が消える。


保険証の失効通知も、住居契約の警告も、すべて取り消された。


元どおりの生活が、指一本で戻ってきた。


慎吾は車の中で、ドアを何度も引いていた。声は聞こえなかった。ガラス越しに、口だけが動いている。


灰色の車が、路地の奥から現れた。



三十分後、現場には警察と保険会社の人間が集まっていた。


白いセダンの運転手は無事で、自転車の女性も軽い擦り傷だけで済んだ。亮のタクシーは後部が大きく凹み、警察から事情を聞かれたが、故意にぶつけられた被害者として扱われた。


灰色の車に乗せられていく慎吾を、亮は見ていた。


慎吾はもう暴れなかった。白いカードを片手に持たされ、促されるまま乗り込んでいく。


一度だけ、亮の方を見た。


何も言わなかった。


車が走り去る。


亮の対象者用端末が鳴った。


御子柴からだった。


「早かったですね」


「あなたの言うとおりにしただけです」


「私は、処分しろとは言っていません」


「同じことでしょう」


「違います」


御子柴の声に、いつもの平坦さがあった。


「理由は本人の中にあった。それを外へ出したのは、あなたです」


「あなたが最初に言った言葉です」


「はい」


短い沈黙があった。


「須藤さん」


「何ですか」


「今の気分は、どうです」


亮は答えられなかった。


助けられた気がした。生活が戻り、車も、部屋も、失わずに済んだ。


同時に、胸の奥に何かが硬く残っている。慎吾を止めたことは間違っていない。だが、止めたあとに、消す必要まではなかったかもしれない。


その迷いごと、自分は数字と引き換えにした。


「分かりません」


「分からないまま、次も同じことをするんですか」


御子柴は答えを待たずに、通話を切った。



病院から着信が入ったのは、その十分後だった。


「藤堂タネさんが、目を覚まされました」


看護師の声は明るかった。


「意識もはっきりしています。息子さんに会いたいと、何度もおっしゃっていて」


亮は病院の駐車場に、まだ車を停めたままだった。凹んだ後部を、街灯の光が照らしている。


「須藤さん?」


「……今から向かいます」


通話を切り、亮はエンジンをかけなかった。


対象者用端末には、まだ《48》の数字が表示されている。


タネに何と伝えればいいのか、その言葉を、まだ持っていなかった。


亮は病棟の明かりを見上げた。


エレベーターの前で、慎吾に会いたいと繰り返す母親が待っている。


亮はドアに手をかけたまま、しばらく車を降りられずにいた。

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