第二十三話「身元整理」
《処分準備段階へ移行》
《身元整理を開始します》
文字は消えないまま、対象者用端末の画面が暗くなった。
須藤亮は病院の会計窓口で、財布から保険証を出した。左腕は三角巾で固定され、指先だけがかろうじて自由に動く。裂けた傷はさっき縫い直されたばかりで、包帯の内側がまだ熱を持っていた。
「保険証、確認できないんですけど」
会計の職員が、カードリーダーへもう一度差し込む。反応はない。
「番号、間違ってないですよね」
「間違ってません」
「じゃあ、システムの方かな……少々お待ちください」
職員が奥の端末を操作する間、亮は自分のスマートフォンで残高を確認しようとした。銀行アプリが開かない。パスワードを何度入力しても、《一時的にご利用いただけません》という文字が繰り返された。
「須藤さん」
背後から声がした。黒瀬梓だった。灰色のファイルを抱え、いつもの黒いスーツで立っている。
「保険証は、まだ有効なはずでは」
「まだ、です」
黒瀬は職員へ小さく頭を下げ、亮を廊下の端へ促した。
「身元整理は段階的に進みます。最初に金融、次に通信、それから雇用と公的資格、最後に戸籍と住民記録です」
「順番があるんですね」
「混乱を避けるための措置です。急に全部失えば、対象者が事故や事件を起こす可能性が高くなりますから」
「俺のためじゃない。周りのためだ」
黒瀬は否定しなかった。
「今、どの段階まで進んでます」
「金融の一部です。クレジットカードと後払い決済はすでに停止済み。保険証は、次の更新タイミングで失効します」
「次っていつです」
「今夜、日付が変わる頃です」
亮は自分の腕時計を見た。午後八時を少し過ぎている。あと数時間で、この体は保険の効かない体になる。
「止める方法は」
「判定が確定していない間は、残存価値を回復させることで停止できます」
「じゃあ、俺は今から何をすればいいんですか」
「それを決めるのは、あなたです」
*
御子柴慧は、会計窓口から少し離れた自動販売機の前にいた。ペットボトルの水を買い、亮の方へ差し出す。亮は受け取らなかった。
「案件があります」
御子柴は水を自分で飲みながら言った。
「対象:藤堂慎吾」
亮は聞き返さなかった。名前を聞いた瞬間、透析室の前で床に座り込んでいた男の背中が浮かんだ。
「タネさんの息子ですか」
「はい。今日、母親を透析中断で死なせようとした事実、過去の借金と虚偽申告、暴力性のある発言。処分理由は十分に揃っています」
「生存理由は」
「十年以上、母親の医療費と送迎の一部を実質的に負担してきた実績」
御子柴はペットボトルの蓋を閉めた。
「須藤さんが正式にこの案件を担当し、組織推奨どおりに処分を確定させれば、残存価値は最大で三十七回復します」
「三十七」
「身元整理は停止します。保険証も、住居契約も、通常どおり維持されます」
亮はポケットの中に手を入れた。二つに折れた青いクレヨンの欠片が、指先に触れる。陸が病院のテーブルで握りしめていたものだった。
「タネさんを生かすために、俺は何回も動いた」
「はい」
「その息子を消せば、タネさんに残る家族がいなくなる」
「事実です」
「それを近道だって言うんですか」
御子柴は水のボトルを潰さず、ゆっくりと自販機の脇へ置いた。
「近道とは言っていません。あなたが押せば、それだけの結果が出るという事実を伝えているだけです」
「同じことでしょう」
「違います。私は判定していません。あなたが判定するんです」
*
亮は端末を開き、慎吾の資料を見た。
年齢、四十歳。職業、日雇いの設備工事作業員。消費者金融からの借入残高、三百二十万円。過去三年の職歴、六社。いずれも短期で離職。
《処分支持要素》
母親の生命維持措置を意図的に妨害。過去に暴力的言動、複数回。将来の再発リスク、高。
《生存支持要素》
十年以上、母親の通院付き添いと生活費の一部を負担。本人に自傷または加害の前歴なし。
数字だけを見れば、御子柴が言う三十七という値は妥当に見えた。処分すれば、亮は保険証も、住居も、あと数日の生活も取り戻せる。
タネは今夜を越えられるかどうかも分からない状態で透析を受けている。もし彼女が助かったとして、目を覚ました先に、息子がいなくなっていたら。
「行き先は」
亮は御子柴に聞いた。
「若洲海浜公園の駐車場に、車が残っています。本人の位置情報は、まだ生きています」
「会って話します」
「資料だけで十分でしょう」
「十分じゃない」
亮は決済端末をポケットへ戻した。
「橋本さんのときも、資料だけで済ませました。それで、俺は今こうなってる」
御子柴は何も言わなかった。
*
臨時運行証を貼ったままのタクシーは、後部の割れた窓に応急フィルムが貼られたままだった。亮は右腕だけでハンドルを握り、湾岸線へ入った。
夜の首都高は空いていた。フィルムの隙間から入る風が、絆創膏の端をめくり上げる。
対象者用端末に、慎吾の判定画面が待機したまま表示されている。
《対象:藤堂慎吾》
《判定を開始しますか》
《開始》と《保留》。
まだ、どちらも押していなかった。
若洲海浜公園の駐車場に、シルバーの軽自動車がそのまま停まっていた。左の方向指示器はもう点滅していない。バッテリーが切れたのか、慎吾が止めたのかは分からなかった。
車内に、慎吾はいなかった。
亮は懐中電灯代わりにスマートフォンのライトを使い、周辺を歩いた。防波堤の先に、座り込んだ人影がある。
「藤堂さん」
慎吾は振り返らなかった。膝を抱え、暗い海の方を向いている。
「母さん、どうなりました」
「透析中です。まだ、何とも言えません」
「そうですか」
「あなたを、探すように言われました」
慎吾の肩がわずかに動いた。
「消しに来たんですか」
「まだ決めていません」
「決めてないのに、来たんですか」
「決める前に、話を聞きたかった」
亮は防波堤の端に座った。潮の匂いと、遠くの照明塔の光が、慎吾の横顔を照らしている。
「母さんの手、握れなかった」
慎吾が言った。
「握ったら、また頼られる気がした。俺が握らなければ、あの人はもう俺を頼らない」
「頼られるのが、そんなに嫌ですか」
「嫌なんじゃない」
慎吾は膝の間に顔を伏せた。
「頼られて、応えられなかったときのことを考えるのが嫌なんです」
「今日、応えなかったのはあなたですよ」
「分かってます」
「その結果、母さんは死にかけた」
「分かってるって言ってるだろ!」
慎吾の声が、波の音に負けないくらい大きくなった。すぐに、自分の声の大きさに戸惑ったように黙る。
「俺は、母さんを助けようとして、逆に殺しかけた。それが全部です」
亮は端末を握った。
《処分支持要素》に並んでいた文字が、目の前の男の輪郭とうまく重ならない。
「藤堂さんは、これからどうするつもりですか」
「分かりません」
「借金は」
「返せる当てはない」
「母さんが助かったら」
「会う資格、ないでしょう」
「それを、母さんが決めることじゃないんですか」
慎吾が顔を上げた。
以前、タネが亮に向かって同じような問いを投げたことがあった。息子を見捨てていいのか、と。
今度は、その息子が同じ場所に立っている。
「須藤さん」
「はい」
「俺を消せば、あんたは助かるんですよね」
亮は答えなかった。
「さっき、母さんの病院で見ました。あんたの端末、赤く光ってた。あれ、あんたの数字でしょう」
「見えるはずないです」
「見えたんですよ。切羽詰まった顔してたから」
慎吾は膝を伸ばし、防波堤の縁に両手をついた。
「いいですよ。俺を使ってください」
「使うって、何をですか」
「俺を消せば、あんたが助かって、母さんも一人分、迷惑かけられずに済む。それでいいじゃないですか」
「よくない」
亮は立ち上がった。
「藤堂さんが消えたら、母さんが目を覚ましたとき、また一人になる」
「今も、一人みたいなもんです」
「違う」
亮は端末を慎吾へ向けた。
「あなたが握らなかった手を、もう一度握れる機会が残ってる。俺が消したら、その機会までなくなる」
慎吾は端末の光を見た。
《対象:藤堂慎吾》
《開始》《保留》
「押すなら、押してください」
「まだ、押しません」
「じゃあ、何しに来たんですか」
亮は答えを探した。
正しい理由を並べれば、また逃げ場を作ることになる。
「分かりません」
「分からないのに、俺の人生を握ってるんですか」
「はい」
短い返事だった。
慎吾は乾いた声で笑った。
「あんたも、大概ですね」
*
車へ戻る途中、対象者用端末が低く鳴った。
《残存価値低下により、身元整理が次段階へ移行します》
《通信契約の一部を停止します》
亮のスマートフォンから、電波の表示が消えた。
御子柴からの着信も、もう受けられない。
亮は運転席に座り、端末だけを見つめた。
《対象:藤堂慎吾》
《開始》《保留》
慎吾を処分すれば、この画面は消え、通信も、保険証も、住居契約も、元どおりになる。
タネが目を覚ましたとき、息子はいなくなっている。
慎吾を保留にすれば、身元整理は止まらない。次は雇用記録、次は住居契約。何日か後には、亮自身がここに座っていられるかどうかも分からなくなる。
正しい答えは、まだどこにもなかった。
それでも、時計だけは動き続けている。
亮は《開始》を押した。
画面が切り替わる。
《対象:藤堂慎吾》
《判定期限:72時間》
《生存》
《処分》
《選定員:須藤亮》
《現在の残存価値:10》
白と黒の文字が、暗い車内で静かに発光していた。




