第二十二話「延命」
『だったら、最後までやってくださいよ』
通話が切れたあとも、須藤亮はスマートフォンを耳から離せなかった。包帯の下で開いた傷から血が流れ、掌を伝って、画面の角へ溜まっていく。やがて端末が滑り、縫合したばかりの左腕で支えようとした瞬間、皮膚の奥を熱い針で引かれたような痛みが走った。
「くそ……」
スマートフォンを右手へ持ち替えると、藤堂慎吾から位置情報が送られていた。
江東区若洲三丁目。若洲海浜公園の駐車場だった。
慎吾は逃げているのではない。亮を呼んでいる。
施設の玄関では、三崎唯が職員に付き添われてエレベーターを待っていた。頬と耳の下を縫ったばかりで、緑色の手術着をコートの上に羽織っている。こちらを振り返らない三崎の背中へ声をかけようとして、亮はやめた。いま口にすれば、気遣いさえ次の証言を求める行為に見える。
代わりに一一九番へ電話をかけ、タネの氏名、年齢、定期透析を二回受けていないこと、送られてきた位置を伝えた。応答した指令員は患者本人と話せるか、意識はあるかと順に尋ねたが、亮にはどちらも答えられない。
『救急車を向かわせます。通報者の方も現場へ行かれますか』
「いま向かいます」
『負傷されているようですが、運転はできますか』
病院からもらった鎮痛剤は、まだ飲んでいない。ハンドルを左へ切るたび傷口が引きつり、割れた後部窓には透明な応急フィルムが貼られている。
「できます」
答えてから通話を切った。できるかではなく、行くしかなかった。
対象者用端末には、すでに新しい項目が表示されている。
《証人候補:藤堂タネ》
《緊急移送を許可》
《判定残り53時間11分》
亮は血のついた右手でエンジンをかけた。
*
夕方の若洲海浜公園には、釣り道具を積んだワゴン車と配送トラックが数台残っていた。海から吹き込む風に応急フィルムが煽られ、ビニールを爪で引っかくような音が車内へ入り続ける。
慎吾の車は、駐車場のいちばん奥に停まっていた。年式の古いシルバーの軽自動車で、誰も乗り降りしていないのに左の方向指示器だけが点滅している。電話の向こうで聞こえていたのと同じ間隔だった。
亮が隣へ停めても、慎吾は出てこなかった。
助手席に藤堂タネがいた。薄いカーディガンの上から毛布を掛け、シートを倒さずに座っている。以前より顔が丸く見えたが、太ったのではない。瞼と頬が腫れ、皮膚の下へ水が溜まっていた。毛布から出た足も、靴下のゴムが肉へ食い込んでいる。
亮が窓を叩くと、タネは顔をこちらへ向けた。眼を開けるまでに時間がかかり、焦点が合ってからも、しばらく亮の名前を思い出せない様子だった。
「須藤です。病院へ行きましょう」
慎吾が運転席の窓を下ろした。
「早かったですね」
二日ほど剃っていない髭が頬を覆い、着ているスウェットの胸には乾いた食べこぼしが残っている。落ち着いた声とは違い、ハンドルを握る右手の親指だけが、剥がれかけた革を何度も引っ掻いていた。
「何をしてるんですか。透析を二回も休ませて」
「俺が休ませたことになってるんですか」
「電話で、もう受けさせないって言ったでしょう」
慎吾は、助手席へ眼をやった。タネの口が動いたものの、声にはならない。呼吸のたび喉の奥で湿った音が鳴り、胸ではなく肩が上下している。
「母さんからも言ってくださいよ」
「何を」
「頼んだのは自分だって」
タネは毛布の中から手を出し、窓を少し開けるよう慎吾へ合図した。冷たい風が入ると咳き込み、唇の端から透明な唾液が垂れた。
「わたしが……頼んだの」
掠れた声だった。
「病院へ、連れていかないでって」
亮は慎吾を見た。慎吾は勝ち誇るでもなく、ハンドルの革を剥がし続けている。
「本人がそう言えば、俺は悪くないですか」
「救急車を呼びました」
「人の話、聞いてます?」
「聞いてます。でも、このままじゃ死ぬ」
「そうですよ」
慎吾がようやく亮を見た。眼の下が黒く窪み、笑おうとした口元は途中で止まった。
「死ぬために来たんです」
*
亮はタネの側へ回り、助手席のドアを開けた。車内には尿に似た甘い臭いがこもり、タネが息を吐くたび、それが濃くなった。左前腕には透析用のシャントがあり、皮膚の下で太くなった血管が暗い紫色に浮いていた。
「藤堂さん、息が苦しいでしょう」
「座っていれば、まだ」
「横になれないんですか」
タネは返事をせず、毛布の端を胸元へ引き上げた。横になると息ができないのだと、その動きだけで分かった。
足元には、病院へ提出するはずだった透析予定表と、大学ノートから破った紙が置かれている。震えた字で《透析治療を希望しません》と書かれ、タネの署名と日付があった。
「これを書いたら、病院が認めると思った?」
「病院に、認めてもらうことじゃないでしょう」
いつもの柔らかな口調だったが、一文を言い終えるたび、タネは口を開けて空気を吸った。
「わたしの身体なんだから」
「慎吾さんの借金が理由ですか」
タネではなく、慎吾が反応した。
「それ、誰から聞いたんです」
「二人からです。前に」
「じゃあ分かるでしょう。母さんが透析を続ける限り、送迎と保証金と、仕事を休んだ分が増える。公的な支援で全部出るなんて嘘ですよ。足りないところは家族が埋める。誰も、俺が何時間休んだかなんて数えない」
「だから死なせる?」
「そういう言い方しかできないんですか」
慎吾は運転席を降りた。亮より少し背が低いが、肩幅は広く、近づくと汗と煙草が混じった臭いがした。
「母さんは近所の人にはパン配って、救急車呼んで、いい人やってた。俺には、息子なんだから当たり前って顔で全部回してきた。病院代が足りない。車出して。保証人になって。仕事休んで。……それで俺が競馬やったら、そこだけ見て馬鹿な息子だ」
「競馬で増やした借金もあるでしょう」
「あるよ」
慎吾は声を低め、亮の包帯へ眼を落とした。
「だから何だ。馬鹿なら、親が死ぬまで払えって?」
言い返しかけた亮の袖を、タネがつかんだ。力はほとんどなく、指が布の表面を滑っただけだった。
「慎吾を、責めないで」
「藤堂さんが死んだら、この人は自分が殺したと思う」
「もう思ってるよ」
慎吾が割り込んだ。
「透析へ連れていくたび、今日も死なせなかったって思う。そのたびに、いつまでやるんだって思ってる。どっちでも同じなんだよ」
遠くからサイレンが聞こえた。慎吾の眼が駐車場の入口へ向き、タネは毛布の下で身を縮めた。
「救急車、断って」
「できません」
「前は、生きていてほしいって言ってくれたでしょう」
「いまも――」
亮は言いかけ、止まった。
タネの眼が、亮の口元から対象者用端末へ移る。画面には残り時間が表示されたままだった。
「いまも、何?」
「生きていてほしいです」
言葉は嘘ではなかった。それでも、胸底にあるものを全部言ったことにもならない。
タネはその不足を見抜いたように、目を細めた。
「わたしが生きたら、あなたに何かいいことがあるの」
*
救急隊員三人が到着し、タネの指先へ酸素飽和度計を挟んだ。数値を見た一人が表情を変え、酸素マスクを出そうとしたが、タネは顔を背けた。
「病院には行きません」
「藤堂さん。血液に水分やカリウムが溜まっている可能性があります。息苦しさも出ています。このまま急に心臓が止まることも――」
「分かっています」
救急隊員は慎吾へ同意を求めるように眼をやったが、慎吾は車のボンネットへ腰を預け、腕を組んでいる。
「ご本人の意思です」
「呼んだのは、どなたですか」
亮が名乗ると、隊員は血の滲んだ包帯と、割れたタクシーの窓を見比べた。
「あなたも救急搬送が必要なんじゃないですか」
「縫ってもらったあとです。藤堂さんを先に」
「本人が明確に拒否している状態で、引きずって乗せることはできません。説得できるご家族は?」
亮と隊員の視線が慎吾へ集まった。
「俺が連れてきました」
慎吾は自分から言った。
「母に頼まれて」
隊員の一人が無線で医師へ連絡し、別の一人はタネへ氏名、生年月日、今日の日付を尋ねた。タネは途切れながらもすべて答え、自分が透析患者であり、中断すれば死ぬ可能性があることも理解していた。
その最中、タネの身体が一度大きく揺れた。
胸元を押さえ、息を吸ったまま吐けなくなる。眼が見開かれ、唇から薄い桃色の泡がにじんだ。
「お母さん?」
慎吾が駆け寄る。
タネはマスクを拒んでいた手で息子の袖をつかみ、何か言おうとした。しかし喉から出たのは、水を含んだ笛のような音だけだった。
「酸素を入れます。藤堂さん、いいですね」
隊員がマスクを当てる。タネは弱く首を振ったが、もう自分で外す力がない。
「心電図、準備。搬送先へ緊急透析の可否を確認して」
「待ってください」
慎吾がストレッチャーの前へ出た。
「母は行かないって言った」
「この状態では、ここに置けません」
「さっきまで意思ははっきりしてたでしょう!」
隊員が慎吾を避けてストレッチャーを寄せる。慎吾は退かず、両手で器材を押し戻した。
「やめろ!」
亮が肩をつかむと、慎吾は振り向きざまにその手を払った。次の瞬間、亮の左腕を包帯の上から握り、親指を傷口へ押し込む。
縫合糸が皮膚の内側で切れた。
鈍い音は身体の中でしかしなかった。亮の膝から力が抜け、声を出すより先に慎吾の胸へ額をぶつける。包帯へ赤い染みが広がり、指の間から血が落ちた。
「母を怖がらせてまで、生かしたいのかよ」
慎吾の息が亮の耳へ当たった。
「あんたが責任取るって言ったんだろ。金も出せない、病院にも付き添わない。なのに、生きろって言うだけか」
亮は痛みで曲がった身体を起こし、慎吾の胸元を右手でつかんだ。殴り返せば、隊員に取り押さえられる。御子柴の端末には暴力行為が追加される。それより何より、タネを乗せる時間がなくなる。
「金があれば、病院へ戻すんですか」
慎吾の指が傷へ食い込んだまま止まる。
「何だって?」
「送迎代も、保証金も、休んだ分も。俺が払えば戻すのかって聞いてる」
「払えるのかよ」
亮は対象者用端末を開き、《追加責任引受》を選んだ。藤堂タネの医療、移送、家族就労損失。慎吾が言った項目を入力して、申請する。
《申請者残存価値:13》
《既存引受:羽田陸》
《引受資格不足》
《申請拒否》
慎吾にも見えるよう、画面を向けた。
「払えません。口座からは一日五千円しか下ろせない。俺も、あと二日で処分されるかもしれない」
「……は?」
慎吾の指が緩んだ。
亮は腕を引き抜いた。開いた傷から血が噴き、地面に不揃いな点をつくる。
「藤堂さんが死ねば、俺の価値はもっと下がる。だから来たんです」
酸素マスクの奥で、タネの眼が亮へ向いた。
「生きてほしいのも本当です。でも、自分が処分されたくない。あなたがここで死んだら、俺まで消されるかもしれない。だから病院へ行ってほしい」
「須藤さん」
隊員が止めようとしたが、亮は続けた。
「あなたが死んで慎吾さんを楽にしても、その分は俺に来ます。誰か一人の負担を消しても、別の人間へ移るだけです」
タネの瞼が震えた。マスクの中で唇が動き、音にならない。隊員が耳を近づけると、タネは何度か同じ言葉を繰り返した。
「何と?」
慎吾が尋ねる。
隊員は答えず、タネへ確認した。
「病院へ行く、でよろしいですか」
タネが頷いた。
慎吾の顔から、血の気が引いた。
「母さん。いまの、こいつに脅されたからだろ」
タネは息子へ手を伸ばしたが、指は袖へ届かず、途中で落ちた。
「慎吾……ごめん」
慎吾はその手を取らなかった。
ストレッチャーが救急車へ運ばれる。扉が閉じる直前、タネはもう一度亮を見た。
「あなた、卑怯な人に……なったのね」
酸素マスクに遮られながらも、今度は聞こえた。
亮は否定しなかった。
*
緊急透析が始まったのは、病院へ到着して四十分後だった。
血液検査では高カリウム血症と著しい体液過剰が認められ、心電図にも異常が出ていた。医師は今夜を越えられるかは処置への反応次第だと慎吾へ説明した。
慎吾は透析室前の床へ座り込み、壁に背中をつけていた。警察から事情を聞かれたが、タネが自分の意思で同行したと確認され、逮捕はされなかった。亮の腕を握り潰したことについても、亮が被害申告をしなかったため、警察官は二人を離すよう注意しただけだった。
亮は開いた傷を再縫合され、左腕を固定されていた。裂けた糸を抜き、固まりかけた血を洗浄されるあいだ、傷の底をブラシで擦られているような痛みが続いた。局所麻酔を追加してからも、新しい糸が皮膚を引く圧だけは消えなかった。
「須藤さん」
透析室から看護師が出てきた。
「藤堂さんが、これをあなたに見せてほしいと」
渡されたタブレットには、証人画面が開いていた。
《須藤亮の生存を支持しますか》
白い《支持》が選ばれている。
自由記述欄には、短い文章があった。
《必要な人かは分かりません。でも、わたしを助けるふりをしませんでした》
亮は文章を二度読んだ。小野寺も三崎も押さなかった《支持》だった。それが嬉しいのか、恥ずかしいのか、自分でも分からず、看護師へ何と返せばいいか迷っているうちに、画面が切り替わった。
《証言時の利害誘導を検出》
《対象者が自身の処分可能性を提示》
《証言効力:無効》
続いて、残存価値が再計算される。
《保証対象者の医療悪化:-3》
《証人への心理的圧力:-1》
《緊急救命への寄与:+1》
《残存価値:13→10》
《判定残り47時間26分》
最初の支持は、数字になる前に消えた。
「それ、俺にも見せてもらえますか」
慎吾が床から立ち上がっていた。亮がタブレットを渡すと、証言無効の表示を読み、口元を歪めた。
「母さんに生きろって言わせて、あんたは三点減るだけか」
「藤堂さんは、生きています」
「まだ、だろ」
慎吾は画面を返し、ポケットから自分のスマートフォンを出した。
「あんたの名前、俺がどうして知ってたか、聞かないんですか」
亮は慎吾を見た。
「昨日、これが来たんですよ」
画面には、厚生安定化庁の通知が残っていた。
《藤堂タネの生存に伴う損失について》
《生存責任者:須藤亮》
《責任者への連絡を希望する場合は、以下を選択してください》
慎吾は《連絡する》の下にある詳細情報を開いた。
《情報開示承認者:御子柴慧》
「俺が母さんを連れ出すことも、あいつは知ってたんですかね」
亮は答えず、対象者用端末から御子柴へ電話をかけた。
三回目の呼び出しで、御子柴が出る。
『はい』
「慎吾さんに、俺の名前を開示しましたね」
『しました』
「こうなると分かってた?」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。御子柴は誰かの資料を読んでいるらしい。
『藤堂さんが透析を中断する確率は、開示前から六十八%でした』
「俺に連絡させたら?」
『八十九%です』
亮は固定された左腕を見た。二度縫われた傷の周囲が腫れ、包帯の上からでも脈が分かる。
「それを、審査って言うんですか」
御子柴はすぐには答えなかった。短い沈黙の向こうで、また紙が一枚めくられる。
『あなたが必要な人間なら、結果で証明できると思いました』
通話が切れた。
対象者用端末に、新しい通知が表示された。
《処分準備段階へ移行》
《身元整理を開始します》




