第二十一話「証人」
「私が押します」
御子柴慧の言葉が地下駐車場へ落ちたあと、須藤亮の手の中で、二つに折れた青いクレヨンがずれた。汗ばんだ指に青い粉がつき、爪の際へ入り込んでいる。それを拭うものを探そうとして、足元の段ボール箱に洗車用のタオルが入っていたことを思い出したが、手は動かなかった。
後部座席の小野寺誠が先に車を降りた。亮の横を通る際、一度だけ立ち止まったものの、声はかけず、そのままエレベーターの方へ歩いていく。書き損じた黒い点だけが残る引受書は、御子柴が灰色のファイルに挟んでいた。
「須藤さん」
地下駐車場の柱の陰から、黒瀬梓が現れた。いつからいたのか分からない。黒いスーツには皺一つなく、手には透明なビニールケースを持っている。
「対象者用端末です。今までのものと交換します」
「まだ持っていかれるんですか」
「端末だけです」
亮は渡さなかった。胸元へ引き寄せるほど露骨ではないが、黒瀬が差し出した手の上へ載せることもできず、電源の落ちた画面を親指でなぞった。橋本を処分したときも、三崎を生存させたときも、小野寺に会いにいったときも、この端末には亮だけが見える選択肢があった。
いまは、どこを押しても何も出ない。
「交換しない場合、証言資料を提出できません」
黒瀬は急かさずに言った。
「提出すれば、生存にできるんですか」
「御子柴さんの判断材料になります」
「そうじゃなくて。何人に必要だと言われれば、俺は生存になるんですか」
「人数による基準はありません」
「じゃあ金額? 俺を残した方が、いくら得ならいいんです」
黒瀬は、亮の手から出ている青いクレヨンの欠片へ眼を落とした。何か言おうとしたらしく、唇がわずかに開いたが、先に御子柴が車の外から答えた。
「あなた自身で探してください。生存理由を」
「それが分からないから聞いてるんです」
「分からないものを、私が代わりに決めるんです」
亮は御子柴を見た。相手は脅したつもりも、言い負かしたつもりもないらしい。判定期限を告げたときと同じ声だった。
端末を黒瀬へ渡す。透明なケースに入っていた対象者用端末は、同じ型なのに軽く感じた。不要な機能を外しているのかもしれない。
電源を入れると、最初に残り時間が表示された。
《判定残り71時間37分》
その下に《提出》《証人候補》《制限事項》の三項目が並ぶ。白い《生存》と黒い《処分》は、どこにもなかった。
「証人へ金銭、便宜、将来の利益を提示することは禁止です。証言内容の指定、脅迫、虚偽の説明も同様。車内の会話は御子柴さんへ転送されます」
「会話を聞かれながら、証言を頼めって?」
「頼むことは禁止していません」
「断りにくくするだけでしょう」
黒瀬は返事の代わりに、亮の担当車へ臨時運行証を貼った。《証人移送》と印刷された白い紙が、普段ならタクシー会社の料金表がある位置に重なる。
「一般客を乗せた場合は、規則違反になります。ただし証人候補と、審査に必要な関係者は運べます」
「会社は俺を休職にしたのに、組織は運転させるんですね」
「雇用主の判断と審査上の権利は別です」
「便利だな」
亮が吐き捨てると、黒瀬は否定しなかった。
「銀行口座は一日の出金上限を五千円へ変更。クレジットカード、後払い決済は停止されています。住居契約と通信契約は、判定終了まで維持されます」
「処分されたわけでもないのに?」
「処分されたあとで損失が出ないよう、事業者が先に制限しています」
「俺が消える前提で」
黒瀬は一呼吸置いた。その間に、遠くでエレベーターの扉が閉まり、小野寺の姿が見えなくなった。
「そうです」
亮は対象者用端末をポケットへ入れた。壊してしまえば、少なくとも残り時間を見ずに済む。だが壊したあとで、自分が何時間残っているのか知らないまま待つことには耐えられそうになかった。
*
証人候補は五人いた。
《小野寺誠――責任引受拒否》
《三崎唯――接触可能》
《藤堂タネ――通院記録異常》
《小田切真由――勾留中》
《羽田陸――未成年/証言不可》
タネの名前の横にある《通院記録異常》が気になった。詳細を開こうとすると、《生存対象者の保健情報は閲覧権限外です》と表示される。以前なら見られた情報まで、対象者になった途端に閉じられていた。
亮は三崎唯を選んだ。
理由は、数字だった。
三崎の内部告発をきっかけに、ミナミ商事が架空の外注会社へ流していた約三億一千万円が回収対象になった。関連する介護事業者への贈賄も発覚し、役員三名と自治体職員一名が起訴されている。一方で二十七人が自宅待機となり、十一人が解雇。元経理担当者一人が睡眠薬と酒を一緒に飲み、救急搬送された。
得たものと失ったものが、同じ画面に並んでいた。それでも三億一千万円という額は、十一人の失職より大きく見えた。少なくとも御子柴が使う秤なら、そうなるはずだった。
《証人移送を申請しますか》
亮は《申請》を押した。
*
午後二時過ぎ、東京拘置所の面会者用出入口から、三崎唯が出てきた。
保釈直後の人間がどんな顔をするのか、亮は考えたことがなかった。三崎は眩しそうに空を見上げることも、迎えを探して走り出すこともせず、守衛から指示された黄色い線に沿って、足元を確かめるように歩いてきた。
以前は身体に合った紺色のスーツを着ていたが、今日は肩の余るベージュのコートに、丈の短い黒いパンツを合わせている。弁護士事務所の女性職員から借りた服だと、証人資料には書かれていた。透明な所持品袋には、押収解除された黒い認証端末、財布、化粧の剥げた口紅、母親の施設から届いた未開封の封筒が一つ。パンプスの踵が擦り減り、歩くたびに右足だけが少し外へ流れていた。
亮が車を寄せても、三崎はドアを開けなかった。臨時運行証と運転席の顔を交互に見たあと、後部座席の窓を指で叩く。
「施設の車じゃないですよね」
ガラス越しの声は聞き取りづらく、亮が窓を下ろすと、冷えた風と一緒に三崎の声が入った。
「迎えを頼んだ覚えもありません」
「お母さんの施設まで送ります。費用はかかりません」
「保釈された人間に、無料の送迎なんて付かないでしょう」
拘置所を出たばかりとは思えないほど、疑う声には力があった。亮はすぐに名乗ろうとしたが、三崎は運転席を覗き込み、眉間に皺を寄せた。
「どこかで……」
「以前、入館証を届けました」
三崎の指が窓枠から離れる。
「ああ」
思い出した声に、懐かしさはなかった。
「私に、別れた方がいいと言った人」
「そうです」
「どうして私が今日出てくるって知ってるんですか」
答えられずにいると、守衛が門の内側から三崎を呼び、立ち止まらないよう手で示した。後ろには報道関係者らしい男が二人、スマートフォンを構えている。
三崎はそちらを振り返り、所持品袋を胸へ寄せた。
「……走ってください」
後部座席へ乗り込むと同時にドアを閉め、顔を伏せる。亮が発進してからも、カメラを避けるように身体を低くしたままだった。
*
「弁護士事務所の車が来るはずだったんです」
荒川沿いへ出たところで、三崎が言った。拘置所が見えなくなってからも透明な袋を抱え、前の座席との隙間へ眼を向けている。
「急に、迎えへ行けないと連絡があったそうです」
「そうですか。私には連絡、来てませんけど」
亮はバックミラーを見た。三崎の視線は、車内カメラの赤いランプで止まっている。
「誰が断らせたんですか」
「俺じゃありません」
「じゃあ、誰です?」
「説明します。ただ、その前に――」
「車、停めてもらえますか」
三崎の指がパワーウインドーのスイッチへ触れた。窓は数センチ下がったが、風の音に驚いたようにすぐ閉じる。ロックされていないと分かったのに、ドアを開けようとはしなかった。
「停めた方がいいですか」
「それを私に聞くんですか」
亮はブレーキへ足を移した。路肩に停められる場所は少し先にあるが、後続車が詰まり、すぐには寄せられない。
「以前も、そうでしたよね」
三崎が続けた。
「最初は私に決めさせようとして、最後に、別れた方がいいと言った」
「覚えてるんですね」
「拘置所では時間がありますから。思い出したくないことほど、よく思い出せます」
路肩へ入る。亮がハザードを点けても、三崎は降りなかった。透明な袋から黒い認証端末を取り出し、両手で確かめる。電源は切られているのに、それがまだ動くもののように親指を画面へ置いていた。
「それで、何の説明ですか」
亮は対象者用端末を取り出した。三崎の顔写真と、過去の判定記録を表示する。
《対象:三崎唯》
《判定者:須藤亮》
《判定:生存》
三崎は画面を見たまま、動かなかった。
「何ですか、これ」
「三崎さんが入館証を取りに来た日、俺の端末に表示されました。あなたを生存させるか、処分するか」
「処分って」
「社会から名前と記録を消して、管理区域へ移送することです」
「……待って」
三崎は認証端末を袋へ戻そうとしたが、開口部へうまく入らず、角が何度もビニールへ引っかかった。苛立ったように端末を座席へ置き、代わりに亮の画面を指さす。
「これ、私の顔ですよね。いつ撮ったんですか」
「俺は撮ってません」
「誰が、って聞いてるんじゃない。何であなたが持ってるの」
「俺が判定したからです」
「だから、その言い方――」
息が続かなくなったのか、三崎はコートの前を開き、喉元へ手を当てた。深く吸おうとするほど呼吸が浅くなり、胸だけが速く上下する。
「私を、生かした?」
「はい」
「やめてください」
すぐに返ってきた声は小さかった。
「でも、実際に――」
「その言い方を、やめてって言ってるんです」
三崎の掌が座席を叩いた。置いていた認証端末が跳ね、床へ落ちる。
「私が今ここにいるのは、あなたのおかげだって言いたいんですか」
「そうじゃありません」
「じゃあ、どうして会いに来たんです?」
亮はすぐに答えられなかった。三崎がそれを見逃さず、荒くなっていた呼吸を一度、無理に止める。
「何か、頼みたいんでしょう」
「俺も、判定対象になりました」
対象者用端末を自分の画面へ戻す。
《対象:須藤亮》
《判定残り56時間41分》
《組織推奨判定:処分》
三崎の眼が画面を追う。それから車内カメラへ向き、最後に亮の後頭部で止まった。
「それで、私に何を言わせるんですか」
「言わせたいわけじゃ――」
「また、それ」
三崎は目を閉じ、額を指で押さえた。
「違うって先に言って、相手が全部言うのを待つ。あなた、自分からは頼まないんですね」
小野寺にも同じことを言われた。亮はハンドルの上で手を組み直し、言葉を探す時間まで御子柴に聞かれていることを意識した。
「三崎さんがしたことを、証言に使わせてほしい」
ようやく言うと、三崎は眼を開けた。
「……私がしたこと?」
「内部告発で、不正が明らかになった。三億一千万円が回収される。介護事業者への贈賄も止まった。三崎さんを生存にしたことで、社会に利益が出たと証明できます」
話している途中で、三崎の表情から怒りが引いていった。許されたのではない。どこか遠いものを見るような顔になり、亮の言葉が終わるまで、黙って待っていただけだった。
「三億一千万円」
三崎は金額を確かめるように繰り返した。
「はい」
「それ、私が告発したあと、ニュースに出た数字ですよね」
「そうです」
「十一人が解雇されたことも、出ていますか」
「……出ています」
「小林さんのことは?」
亮には誰か分からなかった。三崎は返事を待つうちに唇を噛み、座席の下へ手を伸ばして認証端末を拾った。画面にはひびが入り、角の塗装が剥げている。
「経理にいた人です。私が帳簿を持ち出したことにも、不正にも気づいてた。でも、娘さんが大学へ受かった年で……黙ってた。会社が潰れたあと、睡眠薬と焼酎を一緒に飲みました」
「助かったと記録には」
「助かったから、何ですか」
声を荒らげたあと、三崎はすぐに顔を伏せた。言いすぎたと思ったのか、認証端末の傷を親指でこすりながら、今度は声を低くする。
「すみません。あなたが飲ませたわけじゃない」
「謝らなくていいです」
「でも、あなたはその人のことを知らない。知らないまま三億一千万円だけ持ってきて、私を残したのは正しかったって言う」
「正しかったと証明しないと、俺が――」
「処分される?」
三崎は最後まで言わせなかった。
「不正は明らかにするべきでした。私も裁かれるべきです。南部長に利用されたことと、私が会社から金を抜いたことは、別ですから」
そこまで言うと、口元を手で覆い、車内カメラへ一度眼をやった。
「でも、私がしたことを、あなたが生きるために使わないでください」
亮の胸底で、反論が熱を持った。自分が生存を押さなければ、三崎の告発も、三億一千万円の回収もなかった。その事実まで否定されれば、亮には何が残るのか。
「俺が処分を押していたら、あなたは――」
「分かってます」
三崎の声が重なった。
「だから、困ってるんです」
認証端末を握る指先が白くなっている。
「あなたを責めたら、命を助けてもらった恩知らずになる。必要だと言ったら、私の告発も、罪を認めたことも、全部あなたが生かした結果になる」
息を整えようとして、三崎は鼻からゆっくり吸った。それでも最後の言葉は掠れた。
「私は、あなたの善行じゃありません」
亮は前を向いた。路肩のハザードが規則正しく鳴り、そのたびに三崎の顔がミラーの中で明るくなったり、暗くなったりした。
「施設へ行きます」
返事はなかった。
亮は車を出した。
*
母親の介護施設まで、あと三百メートルだった。
赤信号で停車すると、助手席側の歩道から、作業服の男が近づいてきた。五十歳前後。グレーの上着には洗っても落ちなかった黒い油染みがあり、左胸に《ミナミ設備》の刺繍を外した跡が残っている。男は亮と眼が合うと、気まずそうに会釈し、そのまま後部座席へ回った。
三崎の身体が固まった。
「知ってる人ですか」
亮が尋ねても答えず、三崎は透明な袋を膝の下へ押し込んだ。男が窓を二度、指の背で叩く。
「三崎さん」
ガラス越しでも、よく通る穏やかな声だった。
「酒井です。施設管理の」
三崎は顔を上げない。
「久しぶりですね、とは言えないか。俺、毎日あなたのニュース見てましたよ」
歩行者信号が青になり、自転車と親子連れが横断歩道へ入ってくる。車道側の信号はまだ赤だった。
「窓、開けてもらえません?」
三崎の指がシートの上を探り、ドアのロックへ触れる寸前で止まった。
「開けないで」
吐息に近い声だった。
亮はすべてのドアをロックした。
「酒井さん、車を出すので離れてください」
「運転手さんには関係ないでしょう」
酒井は窓越しに笑った。口元だけが笑い、眼は三崎の俯いた頭から動かない。
「俺、謝ってほしいだけなんです。会社を潰したことじゃないですよ。悪いことしてたんだから、潰れて当然だ。俺たちも、まあ、見て見ぬふりした」
言いながら、肩から提げていた工具袋へ手を入れる。
「でも、妻が出ていったんです。息子の学費も止めた。娘には、犯罪者の会社にいたって言われた。そこまで予定に入れて告発したのか、それだけ聞きたい」
車道の信号が青へ変わったが、横断歩道には遅れて渡り始めた高齢者がいる。前の車も動かない。後ろからクラクションが鳴った。
「三崎さん」
酒井の手が工具袋から出た。握っているのは、柄の短い点検用ハンマーだった。
「俺たちには、謝らないの?」
三崎が顔を上げた。
「酒井さん、私は――」
最初の一撃が窓へ当たった。
鈍い音とともに、ガラス全体へ白い亀裂が走る。三崎が両腕で頭を庇い、亮は反射的にアクセルを踏みかけたが、車の前にはまだ親子がいた。母親が子どもの手を引き、割れた窓を見て立ち尽くしている。
「渡って!」
亮が叫んだ。
二撃目。
窓が内側へ崩れた。粒状のガラスが三崎のコートと髪へ降り、頬へ長い傷が開く。血が一筋流れたとき、三崎はようやく悲鳴を上げた。
酒井が割れた窓から腕を入れ、三崎の髪を根元からつかむ。頭が窓枠へ引き寄せられ、砕け残ったガラスが耳の下へ刺さった。
「謝れよ」
穏やかだった声が、そこで初めて裏返った。
「俺の息子に、大学辞めてごめんなさいって言え!」
亮はシートベルトを外し、運転席のドアを開けた。横断を終えた母親が子どもの顔を胸へ押しつけ、歩道へ走っていく。
酒井の横へ回り、その肩をつかんだ。
「離せ!」
「うるせえ!」
酒井が振り向きざまに右手を払う。ハンマーは落ちたが、工具袋から抜かれたカッターナイフの刃が、亮の左前腕を横へ走った。
厚い制服の袖が裂け、次いで皮膚が開いた。痛みより先に、切れた場所から肉が左右へ浮くのが見えた。遅れて熱が噴き出し、赤い血が肘の内側まで一気に流れる。
亮が腕を引いた隙に、酒井は再び車内へ身体をねじ込んだ。
「三崎、出てこい。お前だけ拘置所で守られて――」
黒い認証端末が、酒井のこめかみへ当たった。
硬い角が皮膚を裂く音は、小さかった。酒井の頭が傾き、窓枠へぶつかる。
三崎は端末を両手で握っていた。砕けたガラスを踏み、身体を浮かせ、もう一度振り下ろす。
二度目は眉の外側に当たり、酒井の眼の周りがすぐに腫れ始めた。
「三崎さん、やめろ!」
亮の声は届かなかった。
三度目。
端末の角が額を割り、酒井の血が窓枠へ飛んだ。握っていたカッターナイフが路面へ落ちる。それでも三崎は、両腕を振り上げた。
亮は後部ドアを開け、外から三崎の手首をつかんだ。切れた腕へ力を入れた途端、傷口がもう一度開き、袖の中を生温かい血が伝った。
「三崎さん、もう動いてない!」
「離して」
「死ぬぞ!」
「まだ、離してない」
三崎の声は震えていた。怒りではなく、息が足りず、歯が噛み合っていない。
酒井は窓枠へ上半身を預け、眼を閉じている。それでも左手だけは三崎の髪を握り、抜けた毛が指へ何重にも絡んでいた。
亮が一本ずつ指を開く。薬指だけが硬く曲がり、外そうとすると酒井の喉から低い呻きが漏れた。
「生きてる」
亮が言うと、三崎の手から認証端末が落ちた。床のガラスへ当たり、黒い外装が二つに割れる。
三崎は血のついた両手を見た。
「私が……やった?」
救急車のサイレンが聞こえ始めていた。
*
酒井は頭部裂傷と眼窩骨折。命に別状はなかった。
亮は左前腕を六針縫われた。麻酔が切れる前から傷の奥が脈打ち、少し指を動かすだけで縫合糸に皮膚を引かれる。医師から安静を言い渡されたが、対象者用端末の時間は処置中も減り続けていた。
三崎は頬と耳の下を縫合したあと、処置室の前の長椅子に座っていた。ベージュのコートには血と細かなガラスが残り、看護師から渡された緑色の手術着を上に羽織っている。認証端末を握っていた右手は、酒井の血が爪の間へ入ったままだった。
御子柴は、その三崎の隣へ座るでもなく、廊下の中央で端末を操作していた。
「乗客保護、公共安全維持、一般市民への二次被害回避は加点です」
「それで?」
亮が聞くと、御子柴は画面を亮へ向けた。
《証人への危険誘発》
《傷害事案発生》
《救急・警察対応コスト》
《残存価値:13→13》
「変わってない」
「加点と減点が相殺されました」
「襲われた人を守っても?」
「三崎さんが襲われた原因は、あなたが過去に生存を選んだ結果でもあります」
「酒井が殴ったんでしょう。俺でも三崎さんでもない」
「因果の有無を申し上げています。刑事責任の話ではありません」
御子柴は、血の滲んだ包帯を一瞥しただけで画面を戻した。亮の腕を切った刃の深さも、酒井の指から三崎の髪を外した感触も、端末の上では加点と減点の間に消えている。
「証言を取ります」
三崎が顔を上げた。
「今ですか」
「判定期限内であれば、あとでも構いません。ただし、警察の事情聴取と傷害事件の捜査が始まれば、再接触は難しくなります」
「考える時間を与えるような言い方で、今しかないって言ってるんですね」
御子柴は否定せず、三崎へ端末を渡した。
《須藤亮の生存を支持しますか》
白い《支持》と、灰色の《支持しない》が並んでいる。
三崎はしばらく画面を見ていた。亮の包帯へ眼を移し、何か言いかけて唇を閉じる。廊下の端では警察官が二人、酒井の工具袋を透明な証拠袋へ移していた。
「助けてもらった直後に、こんなことを言うのは……」
三崎は頬の縫合痕へ触れかけ、痛みに顔をしかめて手を下ろした。
「卑怯かもしれません」
「それは関係ないです」
亮が言うと、三崎は首を横へ振った。
「関係あります。いま《支持》を押したら、私はあなたに助けられたから押したことになる。押さなければ、腕を切られてまで守ってくれた人を見捨てる」
「じゃあ、あとで――」
「あとなら、本当に変わりますか」
問い返され、亮は黙った。三崎は画面へ視線を戻し、白い方へ親指を置く。押し込む直前まで指先が沈み、そのまま止まった。
「私は、あなたを必要だとは言えません」
親指が灰色へ移る。
《支持しない》
確定音が鳴った。
胸の奥が一段下がるような感覚があり、亮は縫った腕を反対の手で押さえた。痛みのせいにできるよう、少し強く握った。
三崎は自由記述欄を開き、文字を入力する。血の乾きかけた親指では画面がうまく反応せず、一文字打つたびに拭わなければならなかった。
《私の犯罪も、その後にしたことも、須藤さんの価値として計算しないでください》
「それも、証言です」
入力を終えた三崎が、御子柴へ端末を返す。
画面を受け取った御子柴は、文章を読み終える前に処理結果を表示した。
《自由記述:数値化対象外》
三崎の表情から血の気が引いた。
「読んでないでしょう」
「読みました」
「だったら、何で――」
「須藤さんの生存可能性を数値化できる内容ではないためです」
御子柴は三崎へ端末を返さず、画面を閉じた。
三崎は膝の上で、血のついた指を一本ずつ折り曲げた。認証端末を振り下ろしたときには止められなかった手が、いまは小さく震えている。
「これが、あなたのしてきたことですか」
誰に尋ねたのか分からなかった。
亮は答えなかった。
*
三崎を母親の施設へ送ったあと、亮は割れた窓へ透明の応急フィルムを貼った。左腕が上がらず、端を押さえるたびに包帯へ血が滲む。施設の職員は三崎を車椅子に乗せようとしたが、三崎は断り、自分の足で入口へ歩いていった。
一度も振り返らなかった。
対象者用端末に、証言結果が表示される。
《証言者:三崎唯》
《生存支持:なし》
《判定残り53時間18分》
その下へ、別の警告が重なった。
《保証対象:藤堂タネ》
《定期透析・二回連続未受診》
《登録住所:所在確認不能》
《生存責任損失を再計算中》
亮はタネの連絡先を開いた。呼び出し音が五回続き、留守番電話へ切り替わる直前に、男が出た。
『須藤さん、ですよね』
藤堂慎吾だった。声の向こうで、車の方向指示器が一定の間隔で鳴っている。
「藤堂さんは、どこですか」
『母さんには、もう透析を受けさせません』
「何を言ってるんです。二回も受けてないって――」
『受けたら、また生きるでしょう』
慎吾の声は落ち着いていた。酔っているようには聞こえない。それが余計に、亮の背中を冷たくした。
「いま、どこにいるんです」
返事はない。方向指示器の音だけが続き、やがて車のドアを開けたような風音が混じった。
「慎吾さん。お母さんに代わってください」
『母さんを生かしたの、あんたなんでしょう』
「代われ!」
包帯の下で傷が開き、熱い血が手首へ流れた。
『だったら、最後までやってくださいよ』
通話が切れた。




