第二十話「候補者」
須藤亮の社員証は、まだ亮を認識した。
西早稲田営業所の通用口にかざすと、いつもと同じ電子音が鳴り、ランプが赤から緑へ変わる。昨日までなら、それで一日の勤務が始まった。ところが配車端末へ社員番号を入力した途端、表示されたのは担当車両でも予約一覧でもなかった。
《特別運転資格・審査中》
《乗客を乗せないでください》
打ち間違えたはずはない。それでも亮は、指先に残っていた番号をもう一度、今度は一桁ずつ確かめながら押した。
表示は変わらなかった。
「須藤」
背後から名前を呼ばれ、亮は反射的に画面を伏せた。隠してから、何を隠そうとしたのか自分でも分からなくなった。
当直の係長が、両腕で段ボール箱を抱えていた。亮の名前が油性ペンで書かれている。本人に見せるには雑で、廃棄物に貼るには丁寧な字だった。
「来たのか。連絡、見てない?」
「今日、早番なので」
「いや、それは見れば分かる。そうじゃなくて」
係長は箱を渡そうとしたが、亮が受け取るより先に目を逸らし、床へ置いた。
「健康上の理由で一時休職。人事からは、そう聞いてる」
「健康診断なんて受けてません」
「俺に言われてもなあ……。とにかく、車の鍵を預かれって」
「誰に言われたんですか」
尋ねると、係長は事務所の中へ目をやった。点呼を待つ運転手たちが、いっせいに見ていないふりをする。壁の勤務表へ視線を戻す者、意味もなく運行記録をめくる者。その不自然さに気づいていないのは、そうしている本人たちだけだった。
「人事だよ。俺も、それ以上は聞いてない」
係長が掌を上にして待つ。亮はポケットの中で鍵を握った。角ばった金属が指の付け根へ食い込み、痛みが出てからも、なかなか離せなかった。鍵を渡せば本当に乗れなくなる――そんな子どもじみた考えが、いちばん先に浮かんでしまった。
「須藤。俺だって、取り上げたいわけじゃない」
「……分かってます」
鍵を掌へ落とすと、係長は受け止めながらも、すぐにはポケットへ入れなかった。
「病気なのか」
「違います」
「じゃあ、何なんだよ」
責める調子ではなかった。そのせいで、亮は答えに困った。勤務表には亮の名前を隠す白いテープが貼られ、その隣、小野寺誠の欄は空白になっている。警察への出頭が続いていることは聞いていたが、営業所へ戻る日を知る者はいなかった。
「俺にも、まだ……うまく説明できません」
「そうか」
係長はそこで待ってくれた。しかし亮が続きを口にしないと分かると、鍵を握った手を下ろし、事務所へ戻っていった。
段ボール箱には、軍手、洗車用のタオル、眠気覚ましのガム、小野寺から渡された古い道路地図が詰められていた。亮が担当車へ少しずつ持ち込んだ物を、誰かが一度に降ろしたのだろう。箱を持ち上げようと屈んだとき、地図の上に載っている青いものが目に入った。
陸が車内へ落としたクレヨンだった。
昨夜、病院のテーブルへ置いてきたはずだった。その巻紙には細い帯が貼られ、黒瀬梓の整った字で《返却物ではありません。引受物です》と書かれている。
「……冗談じゃない」
帯を剥がす。クレヨン一本まで、契約の証拠にされた気がした。半分に折って箱へ捨てようと両端をつまんだが、力を込める前に、営業所の外から短いクラクションが聞こえた。
白いタクシーが停まっていた。
ついさっき鍵を返した、亮の担当車だった。
*
運転席には御子柴慧がいた。
「乗ってください」
窓を少し開けただけで、降りてくる様子はない。
「人の車で、何してるんですか」
「会社から借りています」
「鍵なら今、返したばかりです」
「予備があります」
亮が助手席のドアノブを引くと、鈍い音だけが返った。御子柴は前を向いたまま、後部座席のロックだけを外した。
「後ろへ」
「そこまでされないと話せないことですか」
「外で説明すると、あなたは乗らないでしょう」
否定しようとして、亮は口を閉じた。開いたドアの向こうに、毎日客を迎えてきた後部座席がある。シートの端には小さな裂け目があり、黒い糸が一本だけ浮いていた。昨日まで何百回も見た車内なのに、運転席からでは気づかなかった。
「俺は、乗客ですか」
御子柴はルームミラーの角度を直しながら、一拍だけ置いた。
「今日は」
段ボール箱を足元へ押し込み、亮は後部座席へ入った。ドアが閉まった途端、ロックの落ちる音がする。内側のレバーを二度引いたが、ドアは動かなかった。
「チャイルドロックまで必要ですか」
「対象候補は、審査終了まで退出できません」
「逃げませんよ」
「そうですか」
あまりに軽く返され、亮は語気を強めた。
「本当に逃げません」
ミラーの中で、御子柴の目が亮へ向く。
「逃げる人も、最初はそう言います」
御子柴がメーターを入れると、いつもの料金表示の代わりに文字が浮かんだ。
《須藤亮・対象候補審査》
《残り47分00秒》
数字が減り始める。亮が決済端末へ手を伸ばすと、指が触れる寸前で画面が暗くなった。
「対象者による操作はできません」
「まだ対象候補でしょう。対象じゃない」
「ええ。ですから、今から審査します」
「誰がですか」
聞く必要はなかった。御子柴はすぐには答えず、シートベルトを締めてから車を発進させた。
「私が」
後部座席から見た営業所は、いつもより遠かった。係長が表へ出てきて、手の中の鍵と走り去るタクシーを交互に見ている。亮には説明できなかったことを、御子柴なら一言で説明できるのかもしれない。そう考えた瞬間、自分の仕事も車も、すでにこちら側から取り返せないところへ移されたように感じた。
*
高田馬場駅の裏で、御子柴は一人の男を拾った。
小野寺誠だった。
無精髭が伸び、ネクタイのないシャツは一番上のボタンが取れている。後部ドアを開けた小野寺は、座っている亮を見つけると、片足を車内へ入れた姿勢で止まった。
「……何で、お前が後ろにいる」
「乗ってください」
御子柴が代わりに答えた。
「あんたには聞いてない」
小野寺は亮から目を離さない。亮は何から説明すればいいのか迷い、結局、いちばん新しい事実だけを口にした。
「陸君の責任を引き受けました」
「誰だ、それ」
「八歳の子です。父親に殴られて――」
「待て。何の責任を、お前が引き受けたって?」
背後でクラクションが鳴った。小野寺は振り返って後続車を睨み、舌打ちしながら亮の隣へ身体を押し込んだ。二人分の体重でシートが沈み、肩と膝が近づく。ドアが閉まると同時にロックされ、小野寺がすぐレバーを引いた。
「おい。開かねえぞ」
「審査中です」
「こういうのは審査じゃなくて拉致って言うんだよ」
「乗車には同意されました」
「閉じ込められることには同意してねえ。……何の審査だ」
御子柴は車を出し、ミラーで二人を確認してから、亮と小野寺の間を目で示した。そこには灰色のファイルが置かれている。小野寺が表紙の《生存責任引受審査》を読み、嫌なものに触れるように端だけを持って開くと、一枚目に亮の顔写真があった。
「須藤亮さんを正式な判定対象へ移行するか、審査しています」
「……は?」
小野寺は御子柴ではなく、亮を見た。
「保留するには、過去に須藤さんが《生存》を選択した人物のうち一名が、責任引受人になる必要があります」
「ちょっと待て。何で俺なんだ」
「連絡可能な資格者の中で、須藤さんとの利害関係が最も明確だからです」
「こいつに生かされたからか」
「はい」
小野寺の口元が歪んだ。
「気持ち悪い言い方すんな」
ファイルを閉じかける。その動きを制するように、御子柴が続けた。
「署名した場合、小野寺さんの残存価値は四十四から二十六へ下がると予測されます。タクシー乗務員資格も継続審査に入る可能性があります」
「つまり、こいつを助けたら俺も仕事を止められる?」
「可能性があります」
小野寺はしばらく書類を見下ろしていた。やがて顔を上げたとき、先ほどまでの怒りは消え、代わりに警戒するような硬さが残っていた。
「お前、これを頼むために俺を呼んだのか」
「違います。俺も、小野寺さんが乗るなんて――」
「じゃあ、断っていいんだな」
「はい」
答えが早すぎた。
小野寺の眉がわずかに上がる。
「本当に?」
亮は膝の上に置いていたクレヨンを箱へ戻し、すぐには顔を上げられなかった。
「最後は、小野寺さんが決めることなので」
言い終えた途端、胸の奥が冷えた。相手へ判断を渡し、自分は傷つかない場所へ逃げ込むために、以前の亮が繰り返していた言葉だった。
「まだ、その喋り方してんのか」
「……頼んだら、書いてくれるんですか」
「話をずらすな」
「ずらしてません」
「ずらしてるよ。俺が決めることだって言えば、お前は頼まなくて済む。断られても、俺が勝手に決めたことにできるからな」
亮は反論する言葉を探した。しかし、探している間に残り時間が三十五分を切り、御子柴は何も言わずに前を走るトラックとの車間を調整している。沈黙さえ審査材料として聞かれている気がして、亮は焦って口を開いた。
「俺が生存を押さなければ、小野寺さんは今、ここにいません」
言葉が車内へ落ちたあとで、それがどう聞こえたかに気づいた。
小野寺の頬から、わずかに力が抜ける。
「それ、助けた人間が言うことか」
「違う。そういう意味じゃ――」
「じゃあ、どういう意味だよ」
亮は口を開けたまま止まった。生きていてくれてよかったと伝えたかったはずなのに、その言葉の後ろには、だから今度は俺を助けてくれ、という要求が貼りついている。否定すればするほど、きれいな部分だけを取り出そうとしているように思えた。
「署名してほしいって意味か」
小野寺が聞いた。
答えられずに窓へ顔を向けると、肩をつかまれた。指が服越しに食い込み、亮の身体が強引に小野寺の方へ戻される。
「こっち見ろ。人の生存を決めてきたんだろ。自分の番だけ黙るな」
「俺は……」
生存と処分を並べた画面は何度も見てきた。けれど、そこへ表示される名前が自分に変わった途端、考えていたはずの言葉が全部役に立たなくなった。
「俺は、生きたいです」
「聞こえねえ」
「生きたい」
二度目は、声が前の座席へぶつかった。御子柴の視線がミラーへ上がる。小野寺は亮の肩から手を離したが、表情は緩めなかった。
「なら、最初からそう言え」
*
御子柴は明治通りを南へ走りながら、行き先を表示しなかった。決済端末には残り時間だけがあり、亮の側から止めることも延ばすこともできない。
小野寺がファイルを読み進める。橋本修一を処分。三崎唯を生存。藤堂タネを生存。小野寺誠を生存。真壁省吾を処分。名前と結果が同じ大きさの文字で並び、その下には亮の発言記録が添えられていた。
《俺は、俺の目的であなたを処分します》
「これ、お前が言ったのか」
小野寺は紙から目を上げずに尋ねた。
「はい」
「目的って、何だ」
亮が答えるまでに間が空いた。隠しても、次のページには書かれている。
「橋本さんを探すためです」
そこで初めて、小野寺が顔を上げた。
「真壁って男を消せば、橋本さんの居場所が分かる。それで押したのか」
「それだけじゃありません。真壁さんは住民の保険証を利用して、弱い人を支配していた。処分する理由は――」
「そんなこと、聞いてねえよ」
ファイルの角が亮の胸へ押しつけられた。
「橋本さんを探すために、人を一人使ったのかって聞いてる」
「……使いました」
小野寺の腕へ力が入り、ファイルの角がさらに食い込んだ。殴られる、と亮は思った。だが小野寺は拳を上げず、息を一度だけ荒く吐いて書類を引いた。
「馬鹿野郎」
その一言の方が、殴られるより逃げ場がなかった。
「真壁さんは、他の人を利用していました。だから処分していいと言いたいわけじゃない。でも俺は、あの人の罪だけで決めなかった。それは――」
「正直に言えば、少しましになると思ってんのか」
「思ってません」
「じゃあ、何で生かされてんだ、お前は」
亮は反射的に答えを探した。納税、労働、引受責任。端末が人間を並べ替えるときに使う言葉ばかりが浮かび、どれも口にできなかった。
小野寺は待たずにページをめくった。そこには小田切真由の判定結果と、羽田陸の責任引受契約が記録されている。
「今度は、子どもか」
「父親に殴られて、脾臓から出血していました」
「それで、お前が親になる?」
「違います」
「何が違う」
「親権はない。会える保証もない。陸君がこの先、病気になったり、仕事に就けなかったりしたら、その分が俺の価値から引かれる。ただ、それだけで――」
「それだけ?」
小野寺の声が跳ね上がり、亮の言葉を切った。
「ガキ一人の先を背負って、それだけって言うのか」
「じゃあ、何て言えばいいんですか。俺にできることなんて、まだ何も分からない」
「分からないまま書いたのか」
「書かなければ、父親のところへ戻る可能性があった!」
声を上げた拍子に、前へ身を乗り出していた。シートベルトが胸へ食い込み、そこで初めて自分が御子柴へ訴えていることに気づく。
小野寺がゆっくりとファイルを閉じた。
「また、それだな」
「何がです」
「選ばなきゃ誰かがひどい目に遭う。だから俺が選んだ。お前、これから全部それで通すつもりか」
亮が答える前に、御子柴が車線を変えた。方向指示器の音が三回鳴り、その間を測ったように、決済端末へ新しい資料が表示される。
《規則外接触:三件》
《捜査車両からの逃走》
《道路交通法違反:七件》
《組織予測不一致:四件》
《規則遵守率:21%》
「須藤さんは、自分の判断を優先するとき、法令と手続きを継続的に破っています。今後も選定権限を保持した場合、被害が拡大する可能性は高い」
御子柴の話し方には、責める熱も、結論を急ぐ焦りもなかった。その整い方が、亮にはかえって不自然に聞こえた。
「俺を危険だと、小野寺さんに言わせたいんでしょう」
「はい」
御子柴は今度だけ、間を置かなかった。
「危険ではないとお考えなら、小野寺さんが反論できます」
「おい」
小野寺が運転席の背を蹴った。御子柴の身体が前へ揺れ、タクシーも一瞬だけ中央線へ寄る。隣の車が警笛を鳴らしたが、御子柴は速度を落とし、何も言わず車線の中央へ戻した。
「こいつを処分したいなら、自分で言え。他人の口を使うな」
「私は、処分が妥当だと考えています」
「だったら俺を呼ぶ必要ねえだろ」
「須藤さんに生存理由がある可能性を、確かめる必要があります」
「見つける気のない奴の聞き方だ」
御子柴は少し黙った。亮はミラーを見たが、そこに映っているのは目元だけで、何を待っているのかまでは分からない。
「では、小野寺さん」
信号が赤になり、車が止まったところで、御子柴は身体を半分だけ振り返った。
「あなたは署名しますか」
小野寺の視線が署名欄へ落ちる。口元は何度か動いたものの、返事は出なかった。
御子柴は青信号に変わると前へ向き直り、それ以上は促さなかった。残り十九分。車内には、一定の速度で刻まれる方向指示器と、小野寺が紙の端を指で擦る音だけが残った。
*
「感謝はしてる」
小野寺が言ったのは、残り時間が十分を切ってからだった。署名欄を開いた書類が膝の上にあり、親指が同じ場所を何度も往復して、紙の角を丸くしていた。
「お前が生存を押したから、俺は名前を残せた。警察にも行けた。菜緒に……謝ることもできた」
最後の言葉だけが遅れた。亮が横顔を見ると、小野寺は視線を合わせないまま続けた。
「でも、それでお前が正しかったことにはならない」
「分かってます」
「分かってねえから、すぐそう言えるんだよ」
小野寺の親指が止まる。
「お前は人を助けられるようになったんじゃない。自分で決めることに慣れただけだ」
亮の膝と小野寺の膝は触れていた。避ける余地はあるのに、どちらも動かなかった。
「今のお前を生かしたら、また誰かの人生を使う。今度は、自分の判断が正しかったって証明するためにな」
「だから、署名しないんですか」
「……ああ」
小野寺はそこで、ようやく亮を見た。
「俺は、お前を生かす責任を引き受けない」
息を吸ったはずなのに、胸の途中で止まった。亮は一度目を伏せ、何でもない返事をしようとした。そうすれば小野寺を責めずに済み、自分も惨めにならずに済む。
「そう、ですか」
「怒れよ」
「小野寺さんの言ってることは、間違ってないから」
「また正しい答えを探すのか」
「じゃあ、どうしろって言うんです」
抑えたつもりの声が、最後だけ裏返った。小野寺がわずかに身を引く。その反応を見た瞬間、亮の中で押さえていたものが切れた。
「俺は死にたくない。仕事もなくしたくない。陸君の責任だって、何をすればいいのか分からない。それでも引き受けた。なのに、あんたは俺を生かさないって言う」
握った拳の爪が掌へ食い込む。殴りたいと言えば、御子柴の資料へ暴力性が一行追加されるかもしれない。それが分かっていても、もう飲み込めなかった。
「怒ってますよ。今、あんたを殴りたいくらいに」
小野寺は目を逸らさなかった。少し経ってから、喉の奥で息を吐く。
「そうか。それでいい」
「何がいいんですか」
「俺に嫌われても、生きたいって言えた」
亮は小野寺の膝にある書類を見た。
「それで……署名してくれるんですか」
「しねえよ」
笑いそうになったのか、泣きそうになったのか、自分でも分からなかった。顔の筋肉が一度だけ歪み、すぐ戻った。
残り三分二十秒。
御子柴が灰色のファイルの上へペンを置く。
「署名する場合は、時間内にお願いします」
小野寺の指が伸びた。迷うように一度引っ込み、それからペンをつかむ。ノック音が鳴り、出たペン先が署名欄の上へ運ばれた。
亮は、その手を見ていた。
書いてほしい。
十八点くらい、あとで取り戻せる。そう考えた自分に気づき、亮は目を閉じた。小野寺には別居中の娘がいて、養育費を払い続けるために仕事へ戻ろうとしている。全部知っている。それでも、今だけは書いてほしかった。
「俺は、まだ――」
声が漏れ、小野寺のペン先が止まった。
「まだ、何だ」
必要な人間だ。
そう続ければいい。誰も言わないなら、自分で言うしかない。けれど、それを証明する代金を小野寺に払わせた瞬間、その言葉は御子柴の資料と同じものになる。
亮は、ペンを持つ小野寺の手首をつかんだ。
「署名しないでください」
「……お前」
「しないで」
声は頼むというより、縋るように震えた。小野寺の目が細くなる。
「離せ」
亮が指を解くと、手首には赤い跡が残っていた。
「俺を生かす責任まで、小野寺さんに負わせたら、今までと同じになる」
「本当に、それでいいんだな」
「よくないです」
残り一分四十二秒。
「今すぐ書いてほしい。書いてくれたら、たぶん安心する。でも……頼みません」
小野寺は長い間、ペン先を紙の上に浮かせていた。その指が一度震え、インクが署名欄のすぐ外へ小さな点を落とす。
やがてペン先が戻り、乾いたノック音がした。
署名欄には、名前ではなく黒い点だけが残った。
*
タクシーが適正化室の地下駐車場へ入ったとき、残り時間は十秒を切っていた。
御子柴は区画の中央で車を停める。メーターの数字が一つずつ減るたび、足元の段ボール箱まで狭い車内の空気を奪っていくようだった。
九。
八。
小野寺が灰色のファイルを閉じる。
七。
亮は箱から青いクレヨンを取り出した。折らないように持ったつもりだったが、指にはいつの間にか力が入っている。
六。
五。
乾いた音がして、クレヨンが二つに折れた。青い欠片が掌から滑り、靴の間へ落ちる。
ゼロ。
《生存責任引受人:該当なし》
《対象候補審査:終了》
文字が消えたあとの黒い画面へ、亮の顔がぼんやり映った。その顔へ重なるように、御子柴の端末が白く光る。
《対象:須藤亮》
《判定者:御子柴慧》
《判定期限:72時間》
《組織推奨判定:処分》
亮は自分の端末を開いた。画面のどこを探しても、白い《生存》と黒い《処分》は表示されない。代わりに、短い一文が中央に置かれていた。
《対象者による判定操作はできません》
これまで判定した人間は、誰一人、自分の名前を押すことができなかった。その意味を、亮は初めて後部座席で知った。
御子柴が運転席を降り、外からドアを開ける。ロックが外れているのに、亮はすぐには立てなかった。床に落ちたクレヨンの半分を拾い、もう半分を探しているうちに、指先が何度もシートの下へ滑った。
「俺は……何を調べればいいんですか」
ようやく拾った二つの欠片を握り、亮は御子柴を見上げた。
「自分が必要な人間だという証拠を探してください」
「見つからなかったら?」
御子柴は亮の顔が表示された端末を持ち上げた。答える前に、ごく短く、後部座席の小野寺へ目を向ける。
「私が押します」




