第十九話「引受人」
陸の母親が、書類へ手を伸ばした。
黒瀬梓は渡さなかった。
「私が母親です」
「はい」
「だったら、私が書きます」
「これは親権の同意書ではありません」
黒瀬は書類を灰色のファイルへ戻した。
「羽田陸さんに今後発生する損失を、署名者の残存価値から補填する契約です」
「損失って、何の」
「今回の医療費。退院後の保護費用。就学支援。将来、家庭環境を原因とする疾病や就労困難が認定された場合、その社会的損失も含みます」
「陸が悪いことをしたら?」
母親は聞いてから、唇を噛んだ。
「非行、犯罪、再被害。いずれも引受人の査定対象になります」
「再被害まで、陸の損失なんですか」
亮が言うと、黒瀬は首を横へ振った。
「陸さんの責任とは申し上げていません。制度が予測する社会的費用です」
「同じでしょう。数字にすると」
「違います。責任を負う人間を、被害者本人の外に置くための契約です」
母親が黒瀬のファイルをつかんだ。
「外にいるでしょう。私がいる」
黒瀬は引き戻さなかった。母親の指だけが、表紙の上で白くなる。
「羽田美紀さん。現在の総合残存価値は十八です」
母親の手が離れた。
「責任引受人の最低基準は四十。あなたには署名資格がありません」
「何、その数字」
「夫からの暴力を申告しなかったこと。陸さんの受傷を医療機関へ届けなかったこと。昨夜まで保護要請を出さなかったことが反映されています」
「出したら、殺されてた」
声が低くなった。
「あの人は、警察なんです。相談したことが分かったら、私も陸も――」
「その危険も記録されています」
「記録して、それで十八?」
母親が笑った。喉に何かが引っかかったような、短い音だった。
「殴る人が七十八で、殴られて動けなかった私が十八」
廊下の先で、ワゴンの車輪が鳴った。
誰も母親を見なかった。通り過ぎた看護師だけが、一度こちらを振り返る。
母親は腫れた頬を手で隠した。
「私、陸の母親じゃないんですか」
「母親です」
黒瀬はすぐに答えた。
「ただし、引受人にはなれません」
亮は手術室の扉を見た。
「誰も署名しなければ、どうなるんです」
「陸さんは最適化機構の児童保護施設へ移送されます。養育適性の再審査が終わるまで、母親との面会は停止されます」
「父親は?」
「同じく審査対象です」
「暴力を振るった父親へ戻す可能性がある?」
「刑事処分と養育適性は別に評価されます。羽田晃司さんの残存価値は七十八です。治療、矯正、監督によって家族波及価値が改善した場合、保護者候補へ戻る可能性はあります」
母親が壁を蹴った。
一度では足りず、もう一度。スリッパが脱げ、裸足の爪から血がにじんだ。
「それを保護って呼ぶの?」
警備員がこちらへ歩いてくる。
亮は書類を黒瀬から取った。
署名欄の上に、細かな文字が十一行並んでいた。医療、教育、再加害、就労不能。まだ眠っている八歳の将来が、事故の免責事項のように書かれている。
「これに署名すれば、小田切さんを生存にできるんですね」
「条件の一つが整います」
「私が書きます」
母親が言った。
「書けないって言ってるでしょう」
「名前くらい書けます!」
亮の手から書類を奪おうとする。亮が避けると、母親の指が紙の端を裂いた。
裂け目を見て、母親は手を引っ込めた。
「ごめんなさい」
誰に向けたのか分からない声だった。
亮は破れた紙を黒瀬へ返した。
「小田切さんと話をさせてください」
「話して、断る理由を探すんですか」
御子柴が売店前の椅子から言った。
亮は振り返った。
「決める前に、本人に聞くんです」
「何を?」
「また、同じことをするのか」
*
翌日の午後十一時、小田切は亮のタクシーへ乗せられた。
病院での事情聴取が長引き、警察署への移送が判定期限の一時間前までずれ込んだ。黒瀬が選定手続き上の最終面談を申請し、警察は亮の車両を移送車として認めた。
後部座席の中央に小田切が座る。両手には手錠。腰のベルトと座席の金具が短い鎖でつながれている。
助手席には御子柴。
後ろを、覆面の警察車両がついてくる。
亮がメーターを入れると、小田切が金属を鳴らして顔を上げた。
「これ、料金取るんですか」
「移送費で処理されます」
御子柴が答えた。
「聞いたのは、あなたじゃない」
小田切は窓へ顔を向けた。頬に乾いた血が残っている。病院で拭かせなかったらしい。
車が動き出す。
「陸君は」
「目を覚ましました」
亮が言うと、小田切の肩から少し力が抜けた。
「声は?」
「まだ会えてません」
「そう」
それきりになった。
病院の明かりが後ろへ流れる。右折するたび、小田切の鎖が座席の金具へ当たった。
「相沢花音さん」
亮が名前を出すと、音が止まった。
ルームミラーの中で、小田切がこちらを見ている。
「九歳。あなたが三年前、記録を変えて保護した女の子です」
「もう知ってるでしょう」
「十七通、手紙を送った」
小田切は答えなかった。
「返事は?」
「ありません」
「謝りましたか」
「……何を」
「殴られた日付を変えたことを」
信号が黄色になる。
亮はブレーキを踏んだ。覆面車も後ろで止まる。
「手紙には、謝罪を書いたんですか」
「経過を聞いただけです」
「十七回も?」
「児童相談所が答えなかったから」
「本人に送ったんでしょう」
「須藤さん」
小田切の声が硬くなる。
「運転してください」
信号はまだ赤だった。
亮はハンドルを握ったまま、ミラーから目を外さなかった。
「謝ったら、保護が間違いになるからですか」
「あの子を家に残していたら、もっとひどいことになってた」
「それは日付を変えた答えじゃない」
「現場にいなかった人は、そう言える」
「俺も言われました。陸君を一般病院へ運んだあとで。決めたのはお前だって」
御子柴は前を見たまま、口を挟まない。
青に変わる。
後ろから、短くクラクションを鳴らされた。
亮は発進した。
「小田切さん。謝ったら、次の子を助けられなくなるんですか」
小田切の靴が床を擦った。
「違う」
「じゃあ、何です」
「一度でも、あれが間違いだったと認めたら」
そこで切れた。
亮は待った。急かせば、小田切はまた正しい言葉を選ぶ。
交差点を二つ越えた。
「次に子どもが助けを求めたとき」
小田切は、手錠をかけられた手を膝の間へ挟んだ。
「私は、確認しますって言う。証拠が足りないって。前に失敗したから、今度は慎重にって。そうやって一晩待って、その間に――」
息を吸った音だけが続いた。
「死んだら、どうするの」
「だから、間違ってないことにした?」
「そうしないと、動けなかった」
言い終えた小田切が、手錠の鎖を強く引いた。金具が鳴り、手首の皮膚が赤く擦れた。
「今度も、記録を変えますか」
亮は聞いた。
御子柴が、初めて横を向いた。
小田切の口が開く。
「変えない」と言う形まで唇が動き、閉じた。
外ではコンビニの搬入作業員が、段ボールを台車へ積んでいる。二箱目を載せ、傾きを直し、三箱目を持ち上げる。
「分からない」
小田切が言った。
小さかったが、亮には聞こえた。
「その答えなら、処分を選ぶ理由になります」
御子柴が言う。
小田切が助手席を蹴った。
「待ってたみたいに喋らないで」
「待っていました」
御子柴は背もたれへ身体を預けた。
「処分を選べば、刑事裁判は開かれません。陸君が法廷で父親の暴力を説明する必要もない。あなたも、改ざんを何度も再現させられずに済む」
「私が楽になる話をしてる?」
「陸君もです」
「区域へ行ったあと、私は何をするの」
「第三管理区域では、児童対象者の生活指導員が不足しています。あなたの経験は使えます」
小田切が俯いた。
手首についた血が、手錠の縁へにじんでいる。
「そこにいる子は、名前で呼ばれてますか」
御子柴の返事が少し遅れた。
「公的には、管理番号を使用します」
「そう」
小田切は背もたれへ頭をつけた。
「でも、陸を証言台に立たせるよりは――」
言葉が細くなる。
亮の端末が鳴った。
黒瀬から、限定資料が送られてきている。
《相沢花音・心理面接記録》
停車できる場所を探し、亮は路肩へ車を寄せた。後ろの覆面車もハザードを点ける。
「本人の記録です」
端末を後部座席へ向ける。
小田切は手錠の手で受け取れず、身体を前へ曲げて読んだ。
《小田切さんには会いたくない》
《でも、あの人が全部嘘だったことにはしたくない》
次のページに、保管物の写真があった。
宛名が小田切真由になっている封筒が、輪ゴムでまとめられている。十七通。すべて未開封。
「捨ててないんだ」
小田切の声が崩れた。
亮は続きを開いた。
花音は、父親から殴られていた。
ただし、小田切が記録へ入力した日、父親は出張中だった。痣の写真は別の日のものだった。家庭が危険だったことと、記録が虚偽だったこと。その二つが、同じ画面に並んでいる。
「あなたは、全部嘘じゃなかった」
亮は言った。
小田切が顔を上げる。
「でも、全部正しくもなかった」
「分かってます」
「今、分かったんでしょう」
小田切は端末から目を離さない。
「……はい」
自分へ言い聞かせるような返事だった。
御子柴が時刻を確認した。
「出してください。移送期限を過ぎます」
亮は端末を戻し、車を走らせた。
*
警察署の地下搬入口で、小田切の鎖が座席から外された。
女性警察官が両腕を取る。
小田切は車を降りかけて、止まった。
「須藤さん」
「はい」
「処分にすれば、陸君は喋らなくていい。私は、たぶん楽になります」
警察官に促されても、小田切はドア枠を握ったまま離さない。
「だから、それで正しい気がしてくる」
「正しくはないです」
「分かってる」
指が一本ずつ、ドア枠から外れた。
「私を番号にしないでください」
小田切は警察署の中へ連れていかれた。
*
病院へ戻ったとき、判定期限は残り九分だった。
陸は集中治療室にいる。
母親はガラス越しに、ベッドの足元だけを見ていた。手には、小児用の青い歯ブラシを握っている。売店で買ったものの、今は使えない。
黒瀬が新しい引受書をテーブルへ置いた。
「署名後の予測値を表示します」
亮の端末に数字が出る。
《須藤亮 総合残存価値:27》
《責任引受後予測:13》
「十三になると?」
「選定員継続基準を下回ります。特別運転資格も再審査。新規の責任引受はできません」
「タクシーは」
「通常免許の適格性判断は別ですが、雇用主へ査定値が通知されます」
家賃の引き落とし日が、頭に浮かんだ。
車を失えば、収入も失う。十三という数字を見た会社が、客を乗せる仕事を任せるとは思えない。
署名しなければ、陸は施設へ行く。
小田切を処分にすれば、署名そのものが不要になる。裁判もなくなり、陸が父親のことを話す回数も減る。
誰か一人を消せば、残りの人間の手続きが軽くなる。
今まで何度も見た形だった。
「須藤さん」
御子柴がペンをテーブルへ置いた。
「処分は逃避ではありません。これ以上の被害を抑える選択です」
「小田切さんが逃げたいと言っても?」
「本人の苦痛が減ることは、選択を誤りにはしません」
「陸君が助かって、小田切さんも楽になって、俺も十三にならずに済む」
「はい」
「ずいぶん、きれいですね」
亮はペンを取った。
母親がこちらを見る。
喜んではいなかった。止めてもいなかった。
「陸が大人になって」
母親が歯ブラシの包装を折り曲げた。
「あなたを恨んだら、どうするんですか」
「会って聞きます」
「会いたくないって言われたら」
「そのときは、会わないで責任を取る方法を探します」
「そんなの、今決められないでしょう」
「はい」
亮は署名欄に、《須藤》と書いた。
続けて《亮》の一画目を引いたところで、線が薄くなった。
二画目は出なかった。
ペン先を紙へ押しつける。白い傷だけが残る。
御子柴が新しいペンを差し出した。
亮は取らなかった。
自分の上着を探る。領収書と、陸の青いクレヨンが出てきた。車内で拾い、無意識にポケットへ入れていた。
クレヨンでは署名できない。
亮はそれをテーブルへ置き、御子柴のペンを取った。
残りの画を書いた。
《責任引受人:須藤亮》
《契約成立》
端末の選択画面が開く。
《対象:小田切真由》
《残り58秒》
赤い《処分》と、白い《生存》が並んでいる。
「小田切さんは、次も記録を変えるかもしれません」
御子柴が言った。
「分からないと言いました」
「それは危険性の自認です」
「違う」
亮は《生存》へ指を置いた。
「やっと、正しいふりをやめたんです」
押した。
《判定:生存》
《組織予測:処分》
《生存責任引受:羽田陸》
《残存価値:27→13》
黒瀬の端末に、小田切の処遇が表示される。
《氏名維持》
《刑事手続継続》
《選定対象解除》
小田切は消えない。
花音にしたことも、陸にしたことも、自分の名前で答えなければならない。
母親が椅子へ座り込んだ。
握りつぶしていた歯ブラシの包装を開き、青い柄を見つめる。
「陸に、何て言えばいいんだろう」
亮は答えられなかった。
端末に、次の通知が重なった。
《残存価値が選定員継続基準を下回りました》
《対象候補への移行審査を開始します》
亮の指が画面から離れる。
御子柴の端末にも、別の通知が届いていた。
亮はその画面を横から見た。
《対象候補:須藤亮》
《選定担当:御子柴慧》
御子柴は画面を伏せなかった。
「今度は、俺を処分しやすい方へ誘導するんですか」
「もう始まっています」




