第十八話「右折」
赤信号の向こうを、二台のパトカーが横切った。
右へ曲がれば一般病院。
左へ曲がれば、第三管理区域の医療棟。
「左です」
御子柴慧が言った。
「区域なら警察は追ってこない。医療設備もあります」
「この子まで番号にする気?」
小田切真由が後部座席から身を乗り出した。
「処分されていない人間に番号は付きません」
「だったら、治療のあと出られる?」
「区域外移動の審査が必要です」
「それを出られないって言うの」
小田切の膝で、羽田陸の身体が傾いた。
握っていた青いクレヨンが床へ落ちる。
「陸君?」
小田切が頬を叩く。
陸は目を閉じたまま、返事をしなかった。
「須藤さん、早く!」
信号が青になる。
須藤亮は右へハンドルを切った。
カーナビの灰色の線が消える。
「一般病院へ行きます」
「警察に止められますよ」
「病院まで行ってから止まります」
亮はアクセルを踏んだ。
*
後ろの交差点から、赤色灯が追ってきた。
サイレンが一つ、すぐに二つへ増える。
「陸君。聞こえる?」
小田切は陸の顎を持ち上げ、口の中を確かめる。ガーゼが血で濡れていた。
「呼吸は?」
亮が聞く。
「浅い。脈も速い」
「救急車を呼んだ方が――」
「止まったら、そのまま警察に囲まれる」
「呼んでも同じです」
御子柴はサイドミラーで後方を見ている。
「あなたは黙ってて!」
小田切の声に陸の肩が反応しない。
小田切は自分の口を押さえ、声を落とした。
「陸君。寝ないで。あと少しだから」
亮はハンズフリーで救急外来へ電話をかけた。
『都立練馬総合医療センター、救急受付です』
「八歳の男の子です。口から出血、意識が落ちています。左の脇腹を痛がっていて、呼吸も浅い」
『お名前と現在地をお願いします』
「羽田陸。車で向かっています。環状八号線――」
『救急車を手配します。安全な場所に停車してください』
「後ろから警察が来ています」
電話の向こうが一瞬静かになる。
『運転手さん、警察の指示に従ってください』
「止まれば、父親のところへ戻されるかもしれない」
『その判断は病院ではできません』
「では、救急搬入口で待っていてください。白いタクシー、車両番号は練馬五〇〇――」
「自分で車両番号まで言うんですか」
御子柴が横から言った。
『同乗者の方は話さないでください。運転手さん、お名前は?』
「須藤亮です。三分で着きます」
『危険な運転はしないでください。救急搬入口へスタッフを向かわせます』
通話を切る。
「逃げ道を、自分で消しましたね」
「逃げるために右へ曲がったんじゃない」
後方から拡声器の声が響く。
『前方のタクシー、左へ寄せて停車しなさい』
亮は制限速度を超えていた。
赤信号が近づく。
減速すると、パトカーとの距離が縮まった。
前方の交差点に、別の警察車両が横向きに入ってくる。二車線のうち一車線をふさいだ。
「前にも来た」
小田切が言う。
「私が降ります。二人は陸君を病院へ」
「あなたが降りたら、陸君を保護した経緯を説明できない」
「私が捕まれば済む」
「済まないでしょう」
信号が赤になる。
左車線に路線バスが停まった。前方の警察車両は、バスの後ろへ回ろうとして一度切り返す。
右車線に、タクシー一台分の隙間が開いた。
「通れます」
御子柴が言った。
亮はブレーキから足を離した。
警察官が車道へ出て、停止棒を振る。
その横を抜ける。
サイドミラーに、警察官の顔が一瞬だけ映った。
病院まで九百メートル。
「陸君、目を開けて」
小田切が呼び続ける。
陸の唇は白くなっていた。
*
救急搬入口には、ストレッチャーが二台並んでいた。
亮がタクシーを止める前に、医師と看護師が走ってくる。
同時にパトカーが後方をふさいだ。
運転席のドアが外から開く。
「エンジンを切れ! 手を見える位置に!」
「子どもが――」
「降りろ!」
亮の腕をつかんだ警察官が、シートから引きずり出した。
膝が路面へ落ちる。
もう一人に肩を押さえられ、両手を背中へ回された。
「抵抗するな」
「してません。後ろの子を」
頬の腫れを見た警察官が言った。
「その傷、誰にやられた」
「陸君の父親です」
「連れ出すときに揉めたんだな」
「殴られてから――」
話している間に、後部ドアが開いた。
小田切が陸を抱き上げる。
「先にこの子を診て!」
ストレッチャーへ移そうとしたところで、女性警察官が小田切の手首をつかんだ。
「小田切真由さんですね」
「離して。今は――」
「未成年者略取の疑いで事情を聞きます」
「手術が必要かもしれないの!」
「子どもは医療スタッフへ渡してください」
「私も一緒に行く」
「できません」
小田切の腕が背後へ回される。
金属音がして、手錠が閉じた。
「先に、この子を診て!」
叫び声が、救急搬入口の壁へ跳ね返る。
医師が陸のシャツを切り、腹部へ触れた。
「左腹部が硬い。血圧、測って。すぐ中へ」
陸が運ばれていく。
亮は路面へ押さえられたまま、その姿を見た。
「御子柴さん!」
助手席から降りた御子柴は、警察官へ灰色の身分証を見せていた。
確認した警察官が一歩下がる。
「見てないで、何とかしてください」
御子柴は身分証をしまった。
「病院へ来ると決めたのは、あなたです」
「だから何ですか」
「ここから先の結果も、見てください」
亮の手首に手錠がかかった。
*
亮の手錠が外れたのは、二時間後だった。
御子柴が特別乗務の記録を警察へ提示し、小田切に依頼されて運転したことが確認された。亮には任意同行が求められたが、陸の手術が終わるまでは病院内で待機することを許された。
小田切は手錠を外されないまま、救急外来の別室にいる。
午前一時を過ぎたころ、担当医が亮と御子柴の前へ来た。
「羽田陸君は緊急手術に入りました」
「何があったんですか」
「上唇の裂傷と前歯一本の脱落。左第七肋骨の骨折。折れた肋骨が脾臓を傷つけ、腹腔内に出血しています」
亮は、自分の胸へ入った父親の肘を思い出した。
大人でも息が止まった。
「助かりますか」
「出血箇所は確認できています。ただ、手術が必要です」
「階段から落ちて、そうなりますか」
医師は亮の質問へすぐには答えなかった。
「今回の傷だけではありません。背中と両大腿部に、時期の違う打撲痕があります。右第九肋骨にも、治療されずに癒合した骨折痕がありました」
「前にも折られてた」
「可能性が高いです。少なくとも、階段から一度落ちたという説明だけでは合いません」
医師はそこで言葉を切り、救急処置室の方を見た。
「あと数時間遅ければ、出血性ショックを起こしていた可能性があります」
亮は椅子の背へ身体を預けた。
救えた、と思った。
その言葉を口に出す前に、御子柴が隣で聞いた。
「小田切の連れ出しがなければ?」
「今夜中の受診は難しかったでしょう」
医師が去る。
「これで、小田切さんの判断が正しかったと証明された」
亮が言うと、御子柴は首を横に振った。
「陸については」
「今は、それで十分でしょう」
「判定するのは小田切です」
*
羽田晃司は、制服ではなく私服で病院へ来た。
警察官二人に挟まれていたが、手錠はされていない。
右手首には、亮が指を外したときの爪痕が赤く残っている。
「あいつです」
羽田は亮を指した。
「勝手に家へ入り、俺を押さえつけた。児相の女と一緒に息子をさらった」
「陸君を殴ったでしょう」
「逃げようとしたから腕をつかんだ。口は転んで切った」
「肋骨が折れてた。前に折れた痕もあった」
羽田の目が一度だけ動いた。
「俺は知らない。あいつは階段から何度も落ちている」
「八歳の子が、何度も肋骨を折る階段ってどこですか」
「運転手に家庭の何が分かる」
羽田は警察官の方へ顔を向けた。
「この男にも殴られた。手首を見れば分かる」
「陸君の腕から、あなたの指を外した傷です」
「証拠は?」
羽田の口元がわずかに動く。
「あんたらがいつも聞く言葉だろ」
別室のドアが開いた。
手錠をかけられた小田切が、女性警察官と出てくる。
羽田は亮から小田切へ視線を移した。
「またか」
「陸君は手術中です」
「お前が連れ回したからだ」
「あなたが殴ったからです」
「証明できるのか」
小田切は答えようとした。
「この女、三年前にも記録を変えてますよ」
羽田が警察官へ言った。
「娘が父親に殴られたと嘘をついた家庭です。発言を勝手に書き換え、親子を引き離した。父親は学校を辞め、母親は離婚した」
「どうして、その件を知ってるんですか」
「児相に知り合いがいる。こいつが担当になった時点で調べた」
小田切の足が止まる。
「あの家庭には、危険がありました」
「子どもは嘘だったと言った」
「父親のところへ戻りたかったからです」
「母親も撤回した」
「脅されていた」
「証拠は?」
同じ言葉だった。
小田切は返せない。
羽田が一歩近づこうとし、付き添いの警察官に止められた。
「この女は子どもを助けたいんじゃない。自分が正しかったことにしたいだけだ」
小田切は羽田を見たまま言った。
「それでも今夜、陸君はあなたの家から出なければ死んでいました」
「今夜が正しければ、前の家族を壊したことも正しくなるのか」
小田切の唇が動く。
言葉は出なかった。
*
午前三時十二分。
陸の緊急保護が正式に決まった。
医師の診断と複数の古傷が根拠となり、父親との接触は禁止された。羽田晃司も、傷害の疑いで事情聴取を受けることになった。
しかし小田切の手錠は外れなかった。
「小田切真由さん。未成年者略取、住居侵入、職務権限の不正使用について、署で話を聞きます」
「陸君の担当は」
「別の職員へ引き継がれます」
「あの子は、男の職員が後ろに立つと喋れなくなる。女性にしてください」
「ここでは決められません」
「記録に残して」
「署で聞きます」
小田切は連れていかれる途中、亮の前で止まった。
「陸君を助けたから、生かしますか」
亮は答えなかった。
「三年前の子を壊したから、処分する?」
「まだ時間があります」
「時間があれば、両方を見られると思ってる」
小田切は手錠の鎖を鳴らした。
「どちらを選んでも、あなたは一人しか見てない」
「どういう意味ですか」
「私を生かせば陸君が助かるわけじゃない。私を消しても、三年前の家族は戻らない」
女性警察官が小田切の腕を引く。
小田切は抵抗せず、歩き出した。
自動ドアの向こうで、パトカーの赤色灯が回っている。
*
「処分を勧めます」
御子柴は病院の自動販売機で水を買いながら言った。
「罰としてですか」
「逆です」
ペットボトルの蓋を開け、一口飲む。
「小田切が処分されれば、公的な被疑者は存在しなくなる。過去の改ざん事件も、今回の略取も追及できません。陸の保護判断は、医師の診断があるので維持される」
「小田切さんだけが管理区域へ送られる」
「裁判よりは短く済みます」
「何が短いんです」
「陸が証言を求められる時間です」
御子柴は売店前の椅子へ座った。
「小田切を生存させれば、刑事裁判になる。父親側の弁護士は、陸が父親に殴られたと言わなかった理由を聞く。何度も。同じ角度から」
「だから、小田切さんを消す?」
「あなたは処分を罰だと思いすぎです」
御子柴は水のラベルを剥がした。
「残った人間を守る手続きになる場合もある」
亮は決済端末を開いた。
小田切の画面ではなく、限定閲覧権限の検索欄へ《羽田晃司》と入力する。
《判定対象ではありません》
《参照可能情報を表示します》
《羽田晃司》
《労働価値:83》
《納税価値:78》
《公共安全価値:72》
《家族波及価値:19》
《暴力再発リスク:74》
《秩序従属性:91》
《総合残存価値:78》
亮は画面を御子柴へ向けた。
「七十八」
御子柴は数字を見た。
「小田切さんは二十二です。子どもを殴った父親が78で、助けた人が22」
「羽田は警察官として――」
「この数字を見ても、制度は正しいと言えますか」
御子柴の視線が、《秩序従属性:91》で止まった。
ペットボトルのラベルを剥がしていた指が動かなくなる。
亮は返事を待った。
御子柴は画面から目を離し、蓋を閉めた。
「判定対象は、小田切です」
答えはそれだけだった。
*
手術室の表示が《終了》へ変わった。
陸の母親が病院へ着いたのは、その直後だった。
コートの下に部屋着を着たまま、片方の靴下を履いていない。頬の右側が腫れていた。
「陸は?」
「手術は終わりました。まだ先生から説明はありません」
亮が答えると、母親は壁へ手をついた。
「夫は」
「警察が話を聞いています」
「そうですか」
庇う言葉はなかった。
「小田切さんは連れていかれました」
母親はうなずいた。
「あの人が来てくれなかったら、陸は死んでた」
そのあとに続く言葉を、亮は待った。
「でも、あの人は私に言いました」
「何を?」
「今夜逃げなければ、あなたも父親と同じだって」
母親は腫れた頬へ触れた。
「私が怖くて動けないのを知ってて、陸を殴ってる側だと言った。だから写真を送ったんです」
「小田切さんを恨んでいますか」
「分かりません」
母親の答えは小さかった。
「あの人が言わなかったら、写真を撮れなかった。でも、あの言葉は一生忘れないと思う」
自動ドアが開く。
担当医が手術着のまま出てきた。
「羽田陸君のご家族ですか」
母親が医師の前へ走る。
「手術は終わりました。出血は止めています。ただ――」
医師の後ろから、黒瀬梓が現れた。
病院に似合わない黒いスーツで、灰色のファイルを持っている。
「須藤さん」
黒瀬は亮へではなく、陸の母親へ一枚の書類を差し出した。
《羽田陸・生存責任引受書》
「何ですか、これ」
母親は受け取らない。
「羽田陸さんを社会生活へ復帰させるための手続きです」
「陸は処分されてないでしょう」
亮が割って入る。
「現在、保護者双方の養育適性が再評価されています。医療費、保護費、将来の再発リスクを引き受ける責任者が必要です」
「母親がいる」
「羽田さんには、夫への従属および保護判断の遅延が記録されています」
母親の顔から血の気が引いた。
「私も、陸を殴ったことになるんですか」
「そうは申し上げていません。ただ、責任引受者としての査定基準を満たしていません」
書類の署名欄は空白だった。
決済端末に、小田切の残り時間が表示される。
《対象:小田切真由》
《判定残り31時間44分》
黒瀬が亮を見る。
「小田切さんを生存させる場合、どなたがこの子の将来を引き受けますか」
母親と御子柴も、亮を見た。
手術室の扉の向こうには、助けたばかりの陸がいる。
空白の署名欄だけが、亮の前へ差し出されていた。




