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第十七話「保護」

 電話の向こうで、子どもが殴られた。


 乾いた音のあと、短い悲鳴が聞こえた。


 小田切真由は、タクシーの後部座席で立ち上がりかけた。シートベルトが胸へ食い込み、身体を引き戻す。


「陸君?」


 返事はない。


『真由さん、切って』


 女の声が震えている。


『帰ってきた。予定より早く――』


「奥さん、玄関の鍵を開けて。陸君を外へ」


『無理。あの人、廊下に――』


 何かが床へ落ちた。


 低い男の声が近づき、通話が切れた。


「戻ってください」


 小田切が運転席の背をつかんだ。


「さっきの団地へ。今すぐ」


 須藤亮はハンドルを切ろうとした。


「センターへ行くんじゃなかったんですか」


 助手席の御子柴慧が聞いた。


「予定が変わりました」


「保護命令は?」


「あとで取ります」


「取れるんですか」


「黙ってて」


 小田切の声が鋭くなる。


 亮は次の交差点で右折した。カーナビが児童相談センターへの経路を引き直そうとする。


「団地の住所を入れてください」


「登録されていません」


 御子柴が答える。


「あなたに聞いてません」


「須藤さんの端末にもありません。対象家庭の住所ですから」


 小田切の手が止まった。


「あなたたち、何者?」


「運転手です」


 亮が答えると、小田切は一度だけ笑った。怒る力を惜しむような笑いだった。


「では運転してください。道は私が言います」


 御子柴がダッシュボードの時計を見る。


「センターへ寄らないと、非常用の入館証も保護室の鍵もありません」


「寄っている間に、あの子がもう一度殴られる」


「記録なしで連れ出せば誘拐になります」


「分かってます」


 返答が速すぎた。


 小田切は膝の上の書類を開く。最上段に《羽田陸/八歳》と印字されている。


 訪問時刻の欄は、《20時35分》。その数字にボールペンの先を置いた。


「センターへ先に行ってください」


 小田切が言った。


「十分でカードを取ります。そのあと団地へ戻る」


「命令を取るんですか」


「取れるようにします」


 《20》の上へ、ペン先が小さな穴を開けた。


     *


 その日の朝、亮のタクシーには灰色の線が増えていた。


 後部ドアを横切る、指一本分の線。


 洗車をしていた小野寺誠が爪を立てても、剥がれなかった。


「霊柩車みたいだな」


「本社の車両区分です」


「昨日まで普通だった車を、一晩で縁起悪くする区分って何だよ」


 亮が新しい社員証をかざすと、メーターの横に表示が点いた。


 《特別乗務》


 続けて、決済端末へ共同任務が届いた。


 《対象候補との相談を成立させてください》


 《矯正担当:御子柴慧》


 御子柴は挨拶だけして助手席へ乗った。座席を一段後ろへ下げ、配達用バッグを足元へ置く。


「対象候補は誰ですか」


「先に知ったら、あなたは相談させないでしょう」


「相談を仕組むんですか」


「乗せるところまでです」


「昨日は、対象が悪く見えるように仕向けた」


「榊原直人の話なら、昨日終わりました」


「僕は終わってません」


 御子柴はシートベルトを締めた。


「そうやって、終わった判定を持ち続けるから数字が下がるんです」


 窓の外で、小野寺が二人を見ていた。


 亮は発車した。


 それから十三時間、対象候補は乗らなかった。


 一般客を十一組運び、御子柴はどの客にも「研修中です」と頭を下げた。昼食は走行中におにぎりを二つ。休憩を勧めても、「俺の働き方まで矯正しなくていい」と断った。


 午後十時十四分。


 配車地点は、練馬区の都営団地だった。


 紺色のコートを着た小田切が建物から走り出てきた。左の袖口に血が付いている。


 本人の血ではなかった。


「児童相談センター、石神井分室まで」


 乗車すると、鞄から書類と折れた青いクレヨンがこぼれた。小田切はクレヨンを拾わず、誰かへ電話をかけた。


 その三分後、通話の向こうで陸が殴られた。


     *


 タクシーは児童相談センターへ向かっている。


 小田切は《20時35分》の数字を見たまま、陸の母親へ何度も電話をかけた。呼び出し音の途中で切れる。


「訪問時刻を変えるんですか」


 亮が聞く。


「変えません」


 言いながら、ペンは数字の上にある。


「今、変えようとしてるでしょう」


「訂正です」


「何時に?」


「十八時三十分」


「実際に行ったんですか」


「玄関までは」


「その時間に?」


「時間まで覚えてません」


「公用車の記録は残る」


 御子柴が言うと、小田切は助手席を睨んだ。


「さっきから、どうして内部の手続きを知ってるんですか」


「時間を変えれば、今夜中に保護できる?」


「質問に答えて」


「先にそちらを」


 二人の声がぶつかった。


 小田切は舌打ちし、書類を裏返した。


「同じ日に二度訪問して、二度目にも新しい傷が確認されたことにすれば、緊急性を認定できます。父親の同意は要らない」


「新しい傷は?」


「口の中が切れてました。歯も一本、ぐらついてた」


 血の付いた袖を鞄の陰へ押し込む。


「父親がやった証拠は」


「八歳の子が自分で奥歯を殴れると思います?」


「陸は父親に殴られたと言いましたか」


「言えるわけないでしょう」


「では、誰が言った」


「痣が言ってる。口の血が言ってる。上の家の人も――」


「でも、記録にはできない」


 御子柴の声は静かなままだった。


 小田切が黙る。


「記録どおりに処理して、死んだ子はいますか」


 亮は御子柴を見た。


「その質問は関係ない」


「小田切さんに聞いています」


 小田切は書類を裏返したまま答えた。


「……一人」


「何歳でした?」


「五歳」


「規則を守った結果ですか」


「御子柴さん」


 亮が遮る。


 御子柴は亮を見ず、次を聞いた。


「記録を変えて、助かった子は?」


 小田切の手が動いた。


 裏返していた書類を戻す。


「十四人」


「その十四人には、今夜があった」


 それ以上、御子柴は言わなかった。


 小田切が自分で《20》へペンを戻す。


「やめてください」


 亮が言った。


 ペン先は数字に触れたままだった。


「何を?」


「時刻を書き換えるのを」


「では、あの子を家へ帰す?」


「帰せとは言ってません」


「同じです」


「同じじゃない」


「現場では同じなの」


 小田切の声が一段上がる。


「書類がなければ動かない。傷があっても、本人が否定すれば帰せ。母親が怯えて否定すれば帰せ。死んだら、なぜ保護しなかった。みんなあとから言うんです」


「だから嘘を書いていい?」


「助けた十四人に聞いて」


「壊した家族には?」


 小田切のペンが止まった。


 御子柴が、わずかに亮の方へ顔を向ける。


「何の話ですか」


「三年前、六歳の女の子の発言を書き換えた。《叩かれたことがある》を、《昨日も叩かれた》に」


「どうして、それを――」


「その子と弟は別々の施設へ送られた。父親は仕事を辞めた。女の子は半年後に自分の手首を切った」


「その資料を誰から手に入れたんですか」


「否定しないんですか」


「答えて。誰?」


「小田切さん」


 亮はバックミラーを見た。


「あの保護は、間違いだったんですか」


 小田切の呼吸が荒くなっている。


「父親は殴っていました」


「女の子は嘘だったと言った」


「父親のところへ戻りたくて言い直す子はいます」


「母親も証言を撤回した」


「夫から脅された」


「証拠は?」


 小田切の口が開いた。


 言葉は出なかった。


 直後、スマートフォンへ写真が届いた。


 陸の母親からだった。


 画面の中央に、床へ座る陸が写っている。唇から顎まで血が垂れ、前歯が一本欠けていた。写真の端には、男の足がある。


 小田切は写真を亮の方へ突き出した。


「これでも、書くなと言えます?」


 信号が赤へ変わる。


 亮はブレーキを踏んだ。


「書かないでください」


 小田切が目を見開く。


「今から戻ります」


「何もできないって言ったでしょう」


「だったら、できることを作ります」


「何をする気?」


「まだ分かりません」


「そんな人に――」


「でも、嘘を書かせたくない」


 亮はハンドルを切り、反対車線へ入った。


 御子柴がカーナビを操作する。


「センターへ先に寄ってください」


「団地へ戻ります」


「カードがなければ、保護したあと入れる場所がない」


「何分かかる」


「往復で十二分増えます」


 亮は前を見る。小田切のスマートフォンへ、母親から新しい連絡はない。


「小田切さん」


「……センターへ」


 ペンを置いた小田切の手が震えていた。


     *


 児童相談センターの前で小田切を降ろす。


「二分で戻ります」


「待ってます」


 小田切は自動ドアの向こうへ走った。


 料金画面が消え、決済端末に彼女の顔が現れる。


 《対象:小田切真由》


 《判定期限:48時間》


 《生存》


 《処分》


 《現在の残存価値:27》


「対象を知ってたんですか」


「候補だとは」


「あの質問をすれば、改ざんすると思った」


「須藤さんが止めました」


「その先も予測してる?」


「予測は端末にあります」


 亮は《処分理由》を開く。


 三年前の保護案件。少女の発言記録の改ざん。家族の離散。父親の失職。少女の自傷。


 続いて査定内訳。


 《労働価値:76》


 《納税価値:64》


 《地域波及価値:81》


 《次世代貢献価値:89》


 《判断安定性:31》


 《秩序従属性:8》


 《総合残存価値:22》


「これだけ人を救っても、従わなければ22ですか」


「一人の職員が、法律より正しいと決め続けていいんですか」


「適正化室は決め続けてる」


 御子柴は返さなかった。


 小田切が建物から走り出てきた。


 赤い入館証と、小さな救急箱を抱えている。


 後部座席へ飛び込み、ドアを閉める。


「書類は変えてません」


「団地へ戻ります」


 亮がメーターを入れた。


 御子柴は折れた青いクレヨンを拾い、ダッシュボードへ置いた。


「ここからは共同任務の範囲外です」


「降りてもいいですよ」


 亮がドアロックを解除する。


 御子柴は降りなかった。


     *


 団地の五階だけ、廊下の照明が消えていた。


 エレベーターの扉が開くと、奥の部屋から男の怒鳴り声が聞こえた。


「母親と陸君だけを車へ乗せます」


 小田切が早口で言う。


「父親には触らないで。警察を呼ばれたら、私が説明します」


「もう警察官でしょう」


 御子柴が言った。


「今は父親です」


 三人が玄関の前へ着く。


 ドアは半分開いていた。


 室内の床に、割れた皿と味噌汁が散っている。母親は台所の隅に立ち、陸は居間の壁際へ座っていた。


 写真より血が増えている。


 上唇が裂け、前歯の抜けた場所から血の混じった唾液が落ちていた。右手で左の脇腹を押さえている。


「陸君」


 小田切が靴のまま入る。


「来るな!」


 父親が廊下へ出た。


 体格の大きな男だった。白いシャツの袖を肘までまくり、右手の拳に赤いものが付いている。


「児相が何の権限で入ってる」


「陸君を診察へ連れていきます」


「俺が連れていく。あんたは帰れ」


「今、あなたから離す必要があります」


「本人が俺に殴られたと言ったのか」


 小田切は答えない。


 父親が一歩近づく。


「言ってないんだな」


「傷を見れば分かります」


「階段から落ちた。こいつが勝手に外へ出たんだ」


「お父さん」


 陸が立とうとした。


「座ってろ」


 父親が陸の腕をつかむ。


 陸の喉から、声にならない息が漏れた。


「離してください」


 小田切が父親の手首をつかむ。


 振り払われ、食器棚へ肩からぶつかった。ガラス戸が揺れ、救急箱が床へ落ちる。


「小田切さん!」


 亮が玄関をまたぐ。


「入るなって言ってるだろ」


 父親の拳が亮の頬へ入った。


 視界が横へ飛んだ。


 壁に肩を打ち、口の中へ鉄の味が広がる。


 父親はもう亮を見ていない。陸の腕を引き、奥の部屋へ連れていこうとする。


 亮は背後から父親の手首をつかんだ。


「離せ」


「先に、子どもを」


 肘が亮の胸へ入る。息が詰まった。


 それでも手を離さず、父親の指を一本ずつ陸の腕から外した。


 最後の指が外れる。


「走れ!」


 陸は動かなかった。


 血の付いた口を開け、亮を見上げている。


「陸君、真由さんと行って」


 母親が言った。


 初めて聞く、はっきりした声だった。


 父親が振り向く。


「お前――」


 小田切が陸を抱え、玄関へ走った。


 父親が追おうとする。


 御子柴が戸口に立っていた。


 手を出さず、道も完全にはふさがない。父親が通るには、御子柴へぶつかるしかない位置だった。


「公務中の警察官ですか」


 御子柴が聞く。


「どけ」


「今、答えた方がいい。公務中なら、ここから先の行為はすべて職務記録になります」


 父親の足が一瞬止まった。


「今です」


 御子柴が亮へ言った。


 亮は廊下へ出た。


     *


 後部座席で、小田切が陸の口へガーゼを当てている。


 陸は泣かなかった。折れた青いクレヨンを握り、浅い呼吸を繰り返している。


「脇腹も痛む?」


 小田切が聞くと、小さくうなずいた。


 亮は運転席へ滑り込んだ。頬が熱く、唇の内側が切れている。


 御子柴が助手席へ乗り、ドアを閉める。


「病院へ」


 小田切が言う。


「児相の協力病院は?」


「そこへ行けば記録が要る」


「一般の救急へ行っても、警察へ通報されます」


「分かってる!」


 小田切が怒鳴った。


 陸の肩が跳ねる。


 小田切はすぐに口を閉じた。ガーゼを持つ指から力を抜く。


「……ごめん」


 謝った相手が御子柴なのか陸なのか、亮には分からなかった。


 背後で、父親が団地から飛び出してくる。スマートフォンを耳へ当てていた。


「車両番号を通報しています」


 御子柴が言う。


「出します」


 亮はアクセルを踏んだ。


 決済端末へ警告が重なる。


 《共同任務範囲外》


 《対象者による未成年者の無許可連れ出しを検知》


 《特別乗務員の関与を記録します》


 《対象:小田切真由》


 《判定残り47時間03分》


 小田切はガーゼを替えながら言った。


「私が連れ出しました。二人は関係ない」


「僕が運転してます」


「脅されたと言って」


「誰に?」


「私に」


「小田切さん、今度は記録じゃなく、証言を書き換えるんですか」


 亮が言うと、小田切は返さなかった。


 前方の交差点へ、赤色灯を回した警察車両が入ってきた。


 一台ではない。


 カーナビが通常の病院経路を消し、灰色の道を表示した。


 《特別乗務経路》


 《第三管理区域・医療棟》


 《残り38キロ》


「そこなら、警察は入れません」


 御子柴が言った。


「陸君まで管理区域へ入れるんですか」


 亮が聞く。


「入れるだけです。出せるとは言っていません」


 信号が赤へ変わった。


 警察車両が二台、こちらへ向かってくる。


 右へ曲がれば、一般病院。


 左へ曲がれば、地図から消える道路だった。

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