第十六話「従属性」
「榊原直人を処分したのは、あなたですか」
須藤亮は二度目の質問をした。
御子柴慧は答えず、後部座席でシートベルトを締めた。金具の収まる音がしてから、料金メーターを指す。
「乗せたなら、メーターを入れた方がいいですよ。会社へ戻って、走行距離と売上が合わなくなる」
「客として乗ったんですか」
「配車端末には、そう記録されています」
亮はメーターを入れた。
初乗り料金が表示される。
人を一人処分したか聞いているのに、御子柴は料金の話をしている。はぐらかしているのではない。順番を変えるつもりがないのだ。
営業所まで、あと四・二キロ。
「答えてください」
御子柴は窓の外を流れる建物へ一度目をやり、ルームミラーへ戻した。
「俺が押しました」
「二十一歳のときに?」
「そうです」
「榊原さんは、公共事業の不正を告発しようとしていた」
「姉から、そう聞きましたか」
「記録にありました」
「記録には、きれいな部分しか残っていない」
御子柴は、配達用の赤いジャケットのファスナーを下げた。下に着ているシャツの襟が、片方だけ折れている。
「直人は、告発しようとしたんじゃありません。告発したんです。会社と交渉が決裂した翌日に」
「何が違うんですか」
「順番です」
亮の前を、路線バスがふさいだ。営業所までの到着時刻が二分延びる。
「直人は、不正雇用の資料を管理する側にいました。架空の下請け会社を通して、三十八人分の人件費を水増ししていた。自分も毎月、金を受け取っていた」
「いくらですか」
「十五万円」
「それで、分配を減らされたから告発した?」
「最初は会社へ五百万円を要求しました。口止め料として」
亮は御子柴の顔をミラーで見た。
「恐喝じゃないですか」
「だから処分した、と言えば納得します?」
「しません」
「でしょうね」
御子柴は座席へ背を預けた。
「直人が持っていた資料は本物でした。会社が架空の人件費を計上し、役人へ金を戻していた。三十八人の契約社員は実際に働いていましたが、書類上は別会社の正社員になっていた。告発が通れば、入札は止まり、不正も終わる。ただし三十八人は、その日から仕事を失う」
「会社が悪い」
「そうです」
「直人さんを消しても、会社の不正は残った」
「残りました」
御子柴は否定しなかった。
「では、何のために処分したんですか」
「判定対象が榊原直人だったからです」
亮はハンドルを握り直した。
「質問の答えになっていません」
「一件につき一人。あなたも知っている規則でしょう。俺が会社を処分することはできなかった。直人を生存させた場合と、処分した場合を比べた。それだけです」
「告発を止めれば、会社が得をする」
「三十八人は仕事を失わずに済んだ」
「不正に加担した役人も捕まらなかった」
「行政サービスも止まらなかった」
どちらが何を言っても、一つずつ別の結果が返ってくる。
亮は、直人を正しい人間だと思いたかったわけではない。御子柴が間違っていたと、簡単に言える材料が欲しかったのだと気づいた。
前方のバスが停留所へ寄る。亮は右へ出て追い越した。
「あなたは、直人さんへ何と助言したんですか」
御子柴はすぐに答えなかった。
「記録にないんですか」
「相談内容しかありません」
「便利ですね。相談への返事は、選定員にしか見えない」
「何と答えたんです」
御子柴が座り直す。シートの表皮が鳴った。
「直人は、会社へ資料の一部だけを送り、金が支払われなければ全部公開すると言いました。俺は、やるなら会社が言い逃れできないものを全部出した方がいい、と答えた」
「それで判定が始まった」
「はい」
「直人さんはどうしたんですか」
「二時間後、記者と役所へ原本を送った」
「あなたが、そうさせたんじゃないですか」
御子柴はルームミラーの中で亮を見た。
「俺が頼んだのは、送るかどうか決めることです。送ると決めたのは直人です」
「送れば社会的損失の予測が上がる。処分を押せば、あなたの評価も上がる」
「そこまで分かったなら、質問する必要はないでしょう」
「処分する理由を作ったのかと聞いてるんです」
御子柴は少し考えたあと、首を横に振った。
「理由は、もともと本人の中にありました。俺は外へ出しただけです」
言い訳らしい熱がなかった。責められることも、理解されることも求めていない声だった。
「それを、ほかの対象にもしてるんですか」
「今日は、直人の話でしょう」
御子柴はそこで話を切った。
答えなかったことが、答えに近かった。
*
「当時の残存価値は、いくつだったんですか」
営業所まで一・八キロになったところで、亮は聞いた。
「十一」
聞き間違いかと思い、亮はミラーを見た。
「11ですか」
「数字は漢字で言っても変わりません」
「どうして、そこまで下がったんです」
「大学を辞めて、借金があった。母を扶養していましたが、介護と通院で仕事を休んでばかりいた。当時の俺は配達員でもなく、日雇いの倉庫作業員です」
「残存価値が低い人間を、選定員にした?」
「低いから選ばれたんです」
御子柴は自分の両手を見た。手袋をしていない指の関節に、小さな古傷がある。
「失うものがある人間の方が、真面目に押す」
「直人さんを処分して、いくつになったんですか」
「四十六」
十一から四十六。
一人を消しただけで、三十五も増えている。
「母親の人工弁置換手術が、選定員家族支援の対象になりました」
「それが報酬だったんですか」
「報酬は別に振り込まれました。治療は福利厚生です」
御子柴は、そこだけ言葉を訂正した。
「直人さんを生かしていたら」
「母は手術を受けられなかった。少なくとも、あの時期には」
「だから制度が正しいと思ってる?」
御子柴は答える前に、折れていたシャツの襟を直した。
「正しいかどうかで、母の心臓は動きません」
亮は次の言葉を出せなかった。
橋本を処分して受け取った金で、自分も家賃を払った。真壁の報酬二十四万円は、まだ口座にある。使っていないだけで、返してはいない。
「あなたは榊原奈緒を生存させた」
御子柴が言った。
「原本の公開を三十日延ばし、自分の名前を記者へ渡した。残存価値は十四下がった。それで、何人救えました?」
「まだ分かりません」
「分からない結果を選べるのは、余裕がある人だけです」
「僕に余裕があるように見えますか」
「二十七もある」
御子柴にとっては、本当にそうなのだろう。
営業所の看板が見えてきた。
*
午前九時二十六分。
亮は西早稲田営業所の車庫へタクシーを入れた。
御子柴は料金表示を確認し、交通系カードを端末へかざす。初乗り料金が決済された。
「経費で落とすんですか」
「私用です。直人の話は、業務命令ではないので」
どこまでも区分が細かい。
亮は売上伝票を抜き、社員入口へ向かった。
御子柴は帰らず、車の横に立っている。
亮が社員証を読み取り機へかざした。
赤いランプが点いた。
《勤務資格を確認できません》
もう一度かざす。
同じ赤い光が、亮の社員証と指を照らした。
橋本が営業所から連れ出された日、何度カードを当てても扉は開かなかった。
その場にいた亮は、橋本が力を込めすぎて読み取り位置を外しているのだと思った。
今度は中央へ合わせ、ゆっくりかざした。
《勤務資格を確認できません》
「何やってんだ」
小野寺誠が、内側から扉を開けた。
「入れなくて」
「カードの更新、今月じゃないだろ」
小野寺が亮の社員証を取り、自分で読み取り機へ当てる。
赤いランプ。
「事務所で見てもらえ」
亮が手を伸ばしても、小野寺は社員証を返さなかった。そのまま先に立って歩く。
「今日はずいぶん早いな。売上は?」
「三千円くらいです」
「事故か」
「違います」
「苦情?」
「違います」
「じゃあ、何だよ」
小野寺の声が事務所まで届き、何人かがこちらを見た。
亮は車庫へ目をやった。
御子柴が、亮のタクシーの後部ドアを開けて車内を確認している。忘れ物を探しているようにも、見張っているようにも見えた。
「あとで話します」
「その“あとで”は、いつ来るんだ」
小野寺は社員証を持ったまま、運行管理者の机へ行った。
管理者が亮の乗務員番号を入力する。
モニターに赤い帯が現れた。
《勤務適性低下による乗務停止》
《車両運転権限・配車権限・給与支払を一時保留》
「何だ、これ」
小野寺が管理者より先に言った。
「本社判断になってるな。須藤、何か聞いてるか」
「残存価値が下がったからです」
亮はそれだけ答えた。
「何の価値だよ」
小野寺が振り向く。
亮は、事務所にいる運転手たちの視線を感じた。ここで話せば、記者へ渡した証言だけでは済まない。小野寺まで制度へ近づける。
「勤務の評価です」
「嘘つけ」
小野寺は声を落とした。
「お前、嘘つくときだけ、俺の顔をちゃんと見るんだよ」
亮は視線を外した。
「須藤君」
事務所の奥から、黒瀬梓が呼んだ。
来客用の応接室の前に立っている。黒いスーツに、細い灰色のファイルを抱えていた。
「勤務資格について、ご説明します」
*
応接室のテーブルには、契約書と黒いボールペンが置かれていた。
黒瀬は亮の向かいへ座り、灰色のファイルを開く。
「須藤さんの社員情報は失効していません。現在は、勤務適性の再評価期間です」
「いつまでですか」
「最長六か月です」
「その間、給料は?」
「乗務実績がありませんので、歩合給は発生しません。基本給も、乗務資格の停止期間は支給対象外です」
「無給で六か月待てと?」
「再評価は早く終了する場合もあります」
早く、が一日なのか五か月なのかは言わない。
黒瀬は契約書を亮の方へ向けた。
《人口資源適正化室・特別乗務員契約》
「こちらへ移行すれば、東西自動車の乗務資格は本日中に回復します」
亮は契約書をめくった。
基本給と判定報酬の保証。管理区域への限定入域。処分者記録の一部閲覧。指定乗客の優先輸送。判定任務と矯正任務への協力。
最後に、機密情報の外部開示を禁じる条項が太字で印刷されている。
「昨日、記者へ話した人間に、これを出すんですか」
「昨日の行為は現契約下の違反として記録します。今後の適性を判断する材料とは分けて扱います」
「契約したあとに同じことをすれば?」
「契約解除と、損害の請求対象になります」
「処分ではない?」
「違反の内容によっては、判定対象候補になります」
黒瀬は脅すように言わない。亮が聞いた範囲だけ、曖昧さを残さず答えた。
「今、署名しなければどうなりますか」
「一般乗務員として再審査を待っていただきます」
「考える時間は?」
「あります。ただし、本日分から給与は停止しています」
亮は契約書を閉じた。
「少し考えます」
「承知しました」
黒瀬は引き止めなかった。
*
廊下に小野寺がいた。
壁へ寄りかかり、紙コップのコーヒーを二つ持っている。亮を見ると、一つを差し出した。
「クビか」
「まだです」
「“まだ”を付けるなよ」
亮はコーヒーを受け取った。熱くて、すぐには飲めない。
「何をやった」
「人に、話してはいけないことを話しました」
「誰に」
「記者です」
小野寺の紙コップが、口へ届く前に止まった。
「お前、何を――」
亮は首を横に振った。
小野寺は続きを飲み込んだ。事務所の方を確認してから、声を落とす。
「金はあるのか」
「少しは」
「少しって、何か月だ」
答えられない亮を見て、小野寺はポケットからスマートフォンを出した。
「十万なら、今日出せる。返すのは仕事が決まってからでいい」
銀行アプリを開いた画面に、振込予約が表示されていた。
《養育費 80,000円》
宛名は女性の名前だった。別居中の娘の母親だと分かった。
小野寺は気づかず、残高を確認している。
「大丈夫です」
「今、全然大丈夫じゃないだろ」
「小野寺さんの方が必要です」
亮の視線を追い、小野寺が画面を伏せた。
「娘の金は別だ。お前に貸す分くらい――」
「ありがとうございます」
亮は、そこで言葉を切った。
借りたいと言えば、小野寺は本当に出す。八万円を送った残りから、十万円を作ろうとする。
「でも、借りません」
「じゃあ、どうする」
応接室の曇りガラス越しに、黒瀬の影が見える。
「仕事を続けます」
「その女の下でか」
小野寺の言い方に、亮は返事をしなかった。
制度の中へ入らなければ、橋本の記録は見られない。管理区域へも戻れない。榊原へ渡した三十日の約束も、外から待つしかない。
理由は、いくつもあった。
そのどれより先に浮かんだのは、来月の家賃だった。
*
亮が応接室へ戻ると、御子柴もいた。
黒瀬の隣ではなく、窓に近い端の椅子へ座っている。空になったペットボトルを指で潰していた。
「決まりましたか」
黒瀬が契約書を開く。
「一つ、確認させてください」
「どうぞ」
「処分者の記録を閲覧できるというのは、橋本さんも含まれますか」
「特別乗務員として関与した対象については、現在地と再審査状況を閲覧できます」
「管理区域へ行くことも?」
「任務上必要な場合に限ります」
橋本を助けるためだと言えば、署名する手は軽くなる。
亮はボールペンを取った。
契約書の署名欄は、社員証の申込書と同じ程度の大きさだった。住所と生年月日を書き、氏名の欄へ《須藤》まで記入する。
手が止まった。
小野寺へ頭を下げ、金を借りる。別のタクシー会社を探す。判定報酬の二十四万円で何か月か暮らす。
選ばなかった道が、ペン先の周りへ集まる。
御子柴がペットボトルから手を離した。
黒瀬は書類へ視線を落とし、待っている。
誰も署名を急かさなかった。
亮は《亮》と書いた。
最後の一画が、署名欄の下へ少しはみ出した。
「こちらで登録します」
黒瀬が契約書を受け取り、亮の社員証を卓上端末へ置く。
赤い光がカードの表面を走った。
《勤務資格を回復しました》
《特別乗務員へ登録しました》
《限定閲覧権限を付与します》
《現在の残存価値:27》
数字は上がらなかった。
「契約したのに、27のままですか」
「残存価値と勤務資格は別の評価です」
価値が戻ったから働けるのではない。
低いままでも使える場所へ、移されたのだ。
決済端末に、新しい項目が追加された。
《査定内訳》
亮が開く。
《須藤亮》
《労働価値:62》
《納税価値:51》
《家族波及価値:38》
《判断安定性:44》
最後の項目だけ、赤く表示されている。
《秩序従属性:12》
《総合残存価値:27》
「秩序従属性」
亮は声に出した。
第十四話で一瞬だけ見え、閲覧を拒否された項目だった。
「これが低いから、27なんですか」
黒瀬は答えなかった。
代わりに、御子柴が潰したペットボトルを机へ置いた。
「あなたは社会に不要なんじゃない」
御子柴は、亮の署名へ目をやる。
「従わないから、不要なんです」
決済端末の画面が切り替わった。
《矯正担当:御子柴慧》
《対象乗務員:須藤亮》
《共同任務を開始します》
亮の社員証が、卓上端末から押し出された。
黒瀬はそれを亮の前へ置いた。
同じ顔写真、同じ社員番号。
カードの下部に、これまでなかった灰色の一本線が加わっていた。




