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第十五話「証言」

 信号が青に変わった。


 須藤亮は動かなかった。


 短く一度、それから長く、後ろの車がクラクションを鳴らす。助手席の榊原奈緒は、爪ほどの記録媒体を差し出したまま、催促もしなかった。


 亮はようやくアクセルを踏んだ。


 受け取ろうと伸ばしかけた左手は、シフトレバーの手前で止めた。そこに置けば、落とすことも、踏み潰すことも、黒瀬へ渡すこともできる。どれを選んでも、自分が決めたことになる。


「……受け取らないんですか」


 榊原の声は、さっきより少し低かった。


「その中にいる一万一千四百二十六人へ、公開していいか聞きましたか」


 フロントガラスを向いていた榊原の顔が、ゆっくり亮へ動く。


「本気で言ってます?」


「はい」


「名前も住所も失効して、管理区域へ送られた人たちです。家族に一人ずつ連絡していたら、私が先に見つかる」


「だから、榊原さんが代わりに決めるんですか」


「黙っていれば、全員が番号のままです」


 記録媒体が二人の間に残っている。榊原は手を下げない。亮も取らない。


「公開すれば、橋本さんが生きていることを証明できる」


「橋本さんは、公開してほしいとは言っていません」


「会ったのに聞かなかったんですか」


 責められて当然だった。亮は唇を舐めた。口の中が乾いている。


「二十分もありませんでした。助けることばかり考えて、そこまでは」


「それで今度は、本人の意思が分からないから何もしない?」


 横断歩道へ人が出てきた。亮はブレーキを踏み、言葉も一緒に止めた。


 橋本なら何と答えるだろう。事故記録も、東雲荘へ逃げたことも、番号を付けられた現在も、全部世間へ出してほしいと言うだろうか。


 分からない。


「何もしないんじゃありません」


 歩行者が渡り切る。亮は前を見たまま続けた。


「分からない人を犠牲にして、助けたことにはしたくないんです」


 榊原の指が、記録媒体の角へ食い込んだ。


「適正化室も、本人に聞かず処分を決めている。あなたも同じでしょう」


 すぐに否定しかけて、亮はやめた。橋本の《処分》を押したとき、本人の同意など求めなかった。


「……同じです」


 榊原がわずかに眉を上げる。


「だから、同じことをこれ以上増やしたくない」


 決済端末には、榊原の顔と二つのボタンが表示されている。


 《生存》


 《処分》


 《残り17時間06分》


「データを抜いたのは、榊原さん一人じゃないですね」


 榊原は記録媒体をコートへ戻した。答えの代わりだった。


「協力した人は、公開を止めてほしいと言っている」


「怖くなっただけです」


「怖くなったら、逃げてもいいでしょう」


「一万人を救える場所にいても?」


 正しさを競えば、榊原は負けない。亮は言い返さず、ウインカーを出して路肩へ寄せた。


「その人と話をさせてください」


「生存を選ぶために?」


「まだ決めていません。生きたあと、あなたが何をするか知るためです」


 榊原は端末の《処分》を見た。


「押したら、私は弟のいる場所へ行けますか」


「区域は一つではありません。僕には選べない」


「なら、処分される理由にもならない」


 榊原は銀色の袋からスマートフォンを出した。


「佐野海斗。二十四歳、私の部下です」


 電話がつながると、声を少し落とした。


「原本はまだ渡していない。……分かってる。だから話したい。あなたの家へは行かない。こちらから迎えに行く」


 通話を切り、練馬区のファミリーレストランをカーナビへ入力する。


「私を処分するかもしれない人に、協力者まで教えるとは思いませんでした」


「佐野さんは処分させません」


 言い切った声だけは強かった。


「決められるのは、私だけでしょう」


 端末に映る顔は榊原一人だ。佐野の未来を守るボタンは、どこにもなかった。


     *


 佐野海斗は、ファミリーレストランの看板から外れた暗がりにいた。


 薄い紺色のダウンジャケットに、仕事用のリュック。タクシーが駐車場へ入ると一歩出てきたが、助手席の榊原を見て足を止めた。


 亮がハザードを点けても、近づいてこない。


「タクシーに乗って」


「誰ですか、その人」


「事情を知っている人。会社の人ではない」


 佐野は亮と車両番号を交互に見た。


「俺の名前、もう話したんですか」


「必要だったから」


 佐野は笑った。声のない、短い笑いだった。


「また、それですか」


 榊原は後部座席へ移った。佐野は乗ろうとしない。


 亮は運転席の窓を開けた。


「須藤亮です。榊原さんの相談を受けました。乗りたくなければ、ここで話してください」


「ただの運転手ですか」


 亮は端末へ目を落としかけ、やめた。


「今は、そう答えさせてください」


 佐野は車内を見回し、後部座席の榊原から最も離れた助手席へ乗った。


「走ってください。会社の人間が来るかもしれない」


「行き先は」


「防犯カメラの前でなければ、どこでも」


 亮はメーターを入れた。


 タクシーは環状八号線へ出た。


 佐野はリュックを抱えたまま、榊原を振り返らない。


「僕は、匿名化した統計を渡すと聞きました」


 佐野は前を向いていた。フロントガラスに映る顔は、榊原を見ないようにしている。


「それでは証拠にならなかった」


「だからって、原本全部を渡すなんて聞いてない」


「まだ渡してないわ」


「渡せなかっただけでしょう」


 榊原が何か返そうとした。けれど唇を開いただけで、言葉は出なかった。


 佐野は亮へ向き直った。


「あのデータには、俺の叔父も入っています」


 榊原が黙った。


「知っていたんですか」


「照合したときに気づいた」


 佐野の抱えていたリュックが、膝の上で少し沈んだ。


「それ、いつですか」


「三日前」


「俺がアクセス権を貸したあとですね」


 榊原は否定しなかった。


「言えば、あなたは協力をやめたでしょう」


「当たり前じゃないですか」


 佐野はリュックの持ち手を握り直した。


「叔父は、酒を飲んで叔母を殴っていました。何度も警察が来た。でも、いなくなってから叔母は、家族を見捨てた人間だと近所に言われた。処分されたことが公表されたら、叔母が何をされたかまで調べられる」


「それでも、叔父さんが生きている可能性があります」


「だから何ですか」


 佐野が初めて榊原を振り返った。


「生きていたら、叔母が殴られていたことまで、日本中に知らせていいんですか」


 榊原の視線が、佐野から落ちた。膝の上の両手を組み直す。返事はなかった。


「榊原さんは、消された人を救いたいんじゃない」


 佐野の声が、そこで一度かすれた。


「自分が知りたいことのために、全員の情報を使ってる」


「弟を捜して、何が悪いの」


 榊原の反論は早かった。早すぎて、亮には、ずっと用意していた言葉のように聞こえた。


「悪いなんて言ってません」


 佐野はまた前を向いた。


「俺たちを騙したことを言ってるんです」


 車内に、右折を案内するカーナビの音声が流れた。


 亮は案内と反対へ進んだ。


「匿名化した資料では、記事にできないと言われたんですよね」


 亮が聞くと、榊原は短くうなずいた。


「制度の中にいた人間が証言すれば、原本を全部出さずに済みますか」


「適正化室の職員は話しません。これまでも何人か接触した。直前になると、全員、連絡が取れなくなった」


「職員ではありません」


 そこまで言って、亮は口を閉じた。


 このまま営業所へ戻ればいい。榊原を降ろし、記録媒体を受け取らず、期限まで待つ。黒い《処分》を押せば残存価値は戻り、明日からまた客が乗る。


 そんな考えを消そうとしたとき、速度が十キロ近く落ちていることに気づいた。後ろのトラックが車間を詰めてくる。


 亮はアクセルを踏み直した。


「僕が話します」


 榊原は何も言わなかった。


 助手席の佐野だけが身体をひねり、亮の横顔を見る。


「何を、ですか」


「僕が人を消したことを」


 言葉はエンジン音に紛れず、狭い車内へ残った。


     *


 榊原が会った記者は、藤崎恵という四十三歳の女性だった。


 指定されたのは報道機関の建物ではなく、初台にある時間貸しの会議室だった。窓はなく、壁紙の一部が浮いている。六人掛けの机には、前の利用者が残した丸いコーヒー染みがあった。


 四人が入ると、藤崎は挨拶より先に室内を調べた。壁の時計を外し、空気清浄機のコードを抜く。最後に天井の火災報知器を見上げてから、ようやく椅子へ座った。


「運転手を連れてくるとは聞いていません」


「この人が、制度の中にいます」


 榊原が言った。


「職員ですか」


「選定員です」


 藤崎の手が止まった。


「その呼び方を、どこで知りましたか」


「僕が、そう呼ばれています」


 社員証を取り出したものの、亮の手は机の縁で止まった。


 東西自動車、西早稲田営業所。須藤亮。


 採用された日、初めて正社員になれた証拠として何度も見直したカードだった。


 亮は親指で自分の顔写真を一度なぞり、机へ置いた。


 プラスチックの触れる音が、思いのほか大きく響いた。


「タクシー運転手が、何を選定するんです」


「乗客を、生かすか……処分するかです」


 口にしてみると、ひどく幼稚な二択に聞こえた。こんな言葉で橋本の名前も生活も奪ったことが、急に恥ずかしくなる。


 佐野が椅子を鳴らした。榊原だけは、亮から目をそらさなかった。


「処分とは?」


「戸籍、口座、保険、免許、仕事の記録を止めて、管理区域へ送ることです」


「殺すわけではない」


「生きています。昨日、僕が処分した人と会いました」


 藤崎は鞄から録音機を半分出し、そこで手を止めた。


「記録しても?」


 亮は決済端末を握った。


 話すと言ったのは、走っている車の中だった。記録される場所へ座ると、喉の奥が狭くなる。冗談だったと言って立てば、まだ帰れる。


 佐野が、亮の返事を待っている。榊原ではなく、亮を見ていた。


「顔と名前も出します」


「記事にすると決めたわけではありません」


「それでも、記録してください」


 録音機の赤いランプが点灯した。


「お名前からお願いします」


 亮は一度、息を吸った。


「須藤亮、二十五歳。東西自動車のタクシー運転手です」


 最初の判定画面を見た夜のことから話した。乗客の相談へ答えた直後、その人の顔が決済端末へ現れたこと。七十二時間以内に、自分の指で《生存》か《処分》を押すこと。


 説明の途中で、何度も藤崎から日付を聞かれた。亮は端末の履歴を見なければ答えられなかった。自分では忘れられない出来事のつもりでいたのに、時刻も順序も曖昧になっている。


 生存させた人間が将来起こす損害は、判定者の査定へ加算される。


 処分された人間は死なない。戸籍、口座、保険、免許を失い、管理区域で番号を付けられる。


 言い終えるまでに、二十分近くかかった。


「何人、処分しましたか」


「二人です」


 即答した自分の声に、亮は驚いた。二人。その数だけは、資料を見なくても出てきた。


「名前は」


 亮はすぐには答えなかった。


 亮は社員証の角を指で押さえた。机の上で、カードがわずかに反る。


「本人の許可がありません。編集部内の確認だけに使って、記事には出さないでください」


「約束はできません。公益性が高ければ、名前が必要になる場合があります」


「その場合は、証言を使わないでください」


「条件を付けられる立場だと思いますか」


「付けます」


 藤崎が録音機へ一度目を落とす。


「僕の名前は出していい。でも、僕が処分した人の名前は出さないでください」


 藤崎は録音機を止めなかった。


「分かりました。裏付けの段階では編集部内に限定します。公表時には、もう一度協議します」


 亮は決済端末を机へ置いた。


 藤崎には通常の料金画面しか見えない。


 亮が自分の記録を開き、端末から資料出力を選ぶ。


 これまで存在しなかった項目が表示された。


 《外部出力は規則違反です》


 《実行しますか》


 《実行》


 《中止》


 亮の指は、《実行》の上まで行って止まった。


 ここでは誰も急かさなかった。


 藤崎は録音機を見ている。佐野はノートパソコンのキーボードから両手を離していた。榊原さえ、押せとは言わない。


 急かされなければ、自分から押さなければならない。


 亮は《実行》を押した。


 佐野のノートパソコンへ、暗号化された二件の判定記録が転送される。


 画面には、対象の名前を伏せた状態で記録が開いた。


 《選定員:須藤亮》


 《判定件数:5》


 《生存決定数:3》


 《処分決定数:2》


 《第三管理区域・入域記録》


 《規則違反:記録出力》


 転送完了と同時に、赤い警告が一行増えた。


「……今、向こうにも伝わりました」


「何がですか」


 藤崎が聞く。


「僕が、ここにいることです」


 藤崎はノートパソコンの通信を切った。


「このデータだけでは、本物だと証明できません」


「榊原さんの原本と照合してください。僕の社員番号、判定日時、対象番号が一致するはずです」


 佐野が二つの資料を開いた。


 榊原の一覧と、亮の判定記録。


 対象の氏名は伏せられていても、番号と時刻、選定員識別番号が一致した。


「一致しています」


 藤崎は、榊原へ手を出した。


「原本を預けてください」


「いつ記事にしますか」


「今は約束できません。最低でも、別経路から二件の裏付けが必要です」


「明日の午前十時には、元データが消されます」


「こちらで複製を保全します」


「記事にならなければ、預ける意味がない」


「一万一千人の個人情報を、そのまま公開するつもりなら、私たちは受け取りません」


 榊原の手が、キャリーケースの持ち手から離れた。


 拒絶されるとは考えていなかったのかもしれない。亮には、怒っているというより、行き先を一つ失った人の顔に見えた。


「あなたたちも、結局は守る側なんですね」


「守ります。告発された側ではなく、資料に載っている人を」


 藤崎の声は大きくなかった。そのため、榊原の荒い呼吸だけが目立った。


 藤崎は亮の社員証を指した。


「この人は、自分の名前から出すと言った。あなたは、誰の名前から出すつもりですか」


 榊原は椅子の横へキャリーケースを倒した。番号錠を一つずつ回し、鍵を外す。


 蓋を開けるまで、誰も話さなかった。


 中には、緩衝材に挟まれた黒い記録装置が三台入っていた。


「弟の名前です」


「本人の許可は?」


「ありません」


「なぜ、最初に弟なんです」


「七年間、弟が死んだのか、生きているのかも分からなかった」


 榊原の手が、記録装置の上を滑った。


「警察へ行くたび、弟の名前を最初から説明しました。役所では、漢字が違うんじゃないかと言われた。最後には私まで、直人という弟を作り上げた人みたいに扱われた」


 そこまで一息に言い、榊原は口を閉じた。次の言葉が出てくるまで、室内には換気扇の低い音だけが続いた。


「須藤さんは、橋本さんに会えた。私は、弟がどの区域にいるのかも分からない」


「捜していいと思います」


 亮はそう言ってから、社員証を見た。


「でも、そのために橋本さんや佐野さんの叔父さんを使っていいとは思いません」


「では、弟はまた数字のままですか」


「最初に、僕の名前を出してください」


 社員証へ添えた指が動かなかった。


 これを出せば、東西自動車にはいられないかもしれない。小野寺に知られる。両親にも、いつか記事を読まれる。


 頭に浮かんだ順番が、自分のしたことではなく、失うものばかりだった。


 亮は自分に腹が立った。それでも指先は冷たいままだった。


 社員証を机の中央へ押し出す。


「消された人の名前ではなく、消した側の名前から調べてもらう」


「あなた一人が処分されて、終わるかもしれない」


「そのときは……僕が選ばれる側になります」


 榊原は亮を見た。


「怖くないんですか」


「怖いです」


 答えたあと、亮は手を膝の下へ入れた。震えているのを見られたくなかった。


「帰れるなら、今すぐ社員証を持って帰りたいです」


 榊原の目が、机の社員証へ落ちる。


「それでも置いていく?」


「佐野さんには、怖くなったら逃げていいと言いました。自分だけ逃げたら、あの言葉まで利用したことになる」


 佐野がリュックから会社の認証カードを出した。


「元データの削除は、午前十時です。その前に、更新履歴と処理命令を保存できます」


 榊原が佐野を見た。さっきまでの勢いはなく、確かめるような目だった。


「まだ、協力してくれるの」


「原本を公開しないなら」


「裏付けが取れなかった場合は?」


 佐野はすぐには答えなかった。認証カードの顔写真を親指で隠し、榊原へ差し出す。


「そのときは、また話し合います。今度は勝手に決めないでください」


 榊原は記録装置を一台だけ取り出した。


「原本は私が持ちます。複製を編集部へ預ける。公表するのは匿名化した件数と、須藤さんの証言だけ」


「期限は決めますか」


 藤崎が聞いた。


「三十日。それまでに制度の存在を確認できなければ、原本の公開をもう一度検討します」


「そのときも、資料に載っている人の扱いを協議する。それが条件です」


 榊原はうなずかなかった。


 記録装置を持ち上げ、藤崎の前へ置く。手を離す直前、ほんの一瞬だけ自分の方へ引き戻した。


 それでも最後には、指を離した。


     *


 午前八時四十七分。


 亮は榊原を霞が関統計情報センターの近くまで送った。


 榊原は会社へ戻らず、佐野が更新履歴を保存するまで外で待つと言った。


「残り時間は?」


 亮が端末を見せると、榊原は数字を声に出した。


「二十三分」


「まだ、私を生かすと決めていないんですね」


「決めています」


 亮の返事を聞いても、榊原は安心した顔をしなかった。


「いつから」


「あなたが、原本を渡さなかったときです」


「信用できないから?」


「あなたを処分して、証拠まで消す。その方が楽だと思った瞬間がありました」


 榊原が亮を見る。


「だから、それを理由にしたくなかった」


 榊原はドアを開けなかった。


「私が三十日後に、原本を公開するかもしれません」


「そのとき起きたことは、僕の査定にも加算されます」


「それでも生存を押す?」


「生かすというのは、何をしてもいいと認めることじゃありません」


「では、何ですか」


「あなたが次に何をするか、止めたり、また話したりする責任を残すことです」


 榊原は外を見た。


「弟を見つけたら、同じことを言えますか」


 亮は答えを探した。


 弟を見つけた榊原に、個人情報を守れと言い続けられるか。橋本を区域から出せる資料が目の前にあったとき、同じように待てるか。


「……分かりません」


「そこは、決めてくれないんですね」


「分からないことまで決めたふりをするのは、もうやめます」


 榊原はタクシーを降りた。


 決済端末に判定画面が現れる。


 《対象:榊原奈緒》


 《残り19分38秒》


 黒瀬から電話が入った。


『判定前に確認します。榊原さんの情報公開により発生する損害は、生存判定を行った須藤さんの査定へ加算されます』


「分かっています」


『判定記録の外部出力も確認しました』


「僕が出力しました」


『榊原さんに強要された可能性は?』


「ありません」


『そう答えると、開示違反は須藤さん個人の行為になります』


「僕がやったことです」


 黒瀬は数秒黙った。


『生活を維持するために、最低限必要な残存価値があります』


「いくつですか」


『一律ではありません』


「僕が榊原さんを処分すれば、60まで戻るんですよね」


『推奨判定と一致し、情報流出を防いだ場合の最大値です』


「やっぱり、推奨は処分だった」


『資料を見たうえで、須藤さんが判断してください』


「判断しました」


 亮は白い《生存》へ指を置いた。


 押せば、41は下がる。配車を失い、給料が減る。社員証を記者の机へ置いてきた以上、仕事そのものがなくなるかもしれない。


 黒い《処分》は、指一本分しか離れていない。


 榊原を管理区域へ送れば、原本の場所を聞き出すまで組織は彼女を生かすだろう。弟を捜せる可能性さえある。そう考えれば、《処分》を救済と呼ぶこともできた。


 橋本を処分したときも、亮は同じように、押す理由へ別の名前を付けた。


 指先に力を入れる。


 端末は反応しなかった。


 亮は自分が、まだ迷っているのだと気づいた。


『須藤さん?』


 黒瀬の声が、通話口から聞こえる。


「聞こえています」


 亮は一度、指を離した。選び直すためではない。自分がどちらを押すのか、見ておくためだった。


 白い《生存》を押した。


 画面から榊原の顔が消える。


 《判定:生存》


 《組織予測:処分》


 《予測不一致》


 《機密情報開示違反》


 《対象者への制度情報開示》


 《残存価値を更新します》


 赤い《41》が消えた。


 新しい数字が出るまでの数秒、亮は息を止めていた。


 《27》


 覚悟していた数字なのに、胃の奥が縮んだ。


 同時に、営業所から通知が届いた。


 《勤務適性の再評価により、本日の乗務を終了してください》


 《帰庫経路を表示します》


 カーナビに、西早稲田営業所までの一本道が表示された。


 それ以外の道路が、灰色に変わる。


     *


 帰庫経路を走り始めて十分後、榊原から暗号化されたファイルが届いた。


 《あなたに関係する記録だけを抜き出しました》


 橋本修一。真壁省吾。


 名前を見た瞬間、会議室で語った「二人」が、また顔を持った。


 その下に、榊原直人の処分記録が添付されている。


 《対象:榊原直人》


 《相談内容:公共事業における不正雇用の告発》


 《判定:処分》


 《選定員:御子柴慧》


 判定日は、七年前だった。


 御子柴は現在二十八歳。七年前なら二十一歳になる。


 亮より若い年齢で、すでに人を処分していた。


 どんな顔でボタンを押したのか。迷ったのか。報酬を使ったのか。


 知りたいと思った直後、自分が同じ質問をされたら答えられないことに気づいた。


 配車端末が鳴った。


 《緊急乗車》


 《帰庫経路上のため、受諾操作は不要です》


 百メートル先の歩道に、赤い防水ジャケットを着た男が立っていた。


 御子柴慧だった。


 亮はアクセルを緩めなかった。


 タクシーのドアロックが解除される。


 前方の信号が赤へ変わり、車が止まる。


 御子柴が歩道から近づき、後部座席のドアを開けた。


「乗車拒否は、会社の規則にも反しますよ」


 御子柴はシートへ座り、自分でドアを閉めた。


 亮はルームミラー越しに見た。


「榊原直人を処分したのは、あなたですか」


「データを見たんですね」


「答えてください」


 御子柴はシートベルトを引いた。金具を受け口へ入れる乾いた音がしてから、ようやく顔を上げる。


「俺の案件を調べているそうですね」


 御子柴は、亮の決済端末を指した。


 赤い《27》が表示されている。


「生かしたんですか。榊原奈緒を」


 亮は《27》を見た。


「はい」


「橋本修一、小野寺誠、榊原奈緒」


 御子柴は、生き残った人間の名前を数えた。


「あと何人、生かすつもりですか」


 御子柴の声には、責める響きがなかった。


 だから亮には、問いの意味がすぐには分からなかった。


 信号が青へ変わった。


 カーナビには、営業所へ戻る経路しか表示されていない。


 その一本道の後部座席に、榊原の弟を消した男が乗っている。

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