第十四話「再査定」
第三管理区域を出てから、三時間が過ぎた。
須藤亮は西早稲田営業所の立体駐車場にタクシーを止めたまま、決済端末を見ていた。
《算定中》
表示は変わらない。
洗車を終えた車が隣へ入り、濡れたタイヤから水が落ちている。ほかの運転手たちは納金機へ向かい、今日の売上や酔った客の話をしていた。
亮の端末だけが、勤務終了を受け付けない。
「まだ帰らないのか」
小野寺誠が助手席側から覗き込んだ。
「締め処理が終わらなくて」
「貸してみろ」
亮は端末を伏せた。
「再起動すれば直ると思います」
「この前から、そればっかりだな」
小野寺はドアへ肘をついた。
「今日の回収、何だったんだ。橋本さんのときと同じ車が並んでた」
「身元確認のできない人を、施設へ運んだそうです」
「そうです、って誰に聞いた」
「本部の人です」
「その本部の人間が、どうして新人のお前を使う」
亮は答えを探した。
端末の画面が白く切り替わった。
《再査定が完了しました》
亮は反射的に端末を胸へ引き寄せた。
《残存価値:58》
数字が一度消える。
代わりに赤い数字が表示された。
《41》
《減点事由》
《区域内規則違反》
《指定経路からの逸脱》
《既処分者との無許可接触》
《監査人への反抗的言動》
「直ったか?」
小野寺には、通常の締め画面が見えている。
「はい」
「顔色は直ってないぞ」
「十七、引かれました」
言ってから、亮は口を閉じた。
「何が?」
「売上です。計算が合わなくて」
小野寺は運転席の料金メーターを見た。
「あとで一緒に確認する」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないから言ってるんだ」
亮は端末を握った。
橋本は、二度と誰もあそこへ送るなと言った。
その約束を守ると、小野寺にも本当のことを話せない。
「自分でやります」
亮が言うと、小野寺は腕を引いた。
「分かったよ」
助手席の窓から離れ、二歩進んでから振り返る。
「でも、今のお前は、一人でやってる顔じゃない。一人になろうとしてる顔だ」
小野寺はそれ以上聞かず、駐車場を出ていった。
端末には、新しい表示が追加されていた。
《一部権限を制限します》
《判定報酬:支給保留》
《優先配車:停止》
《勤務適性:要観察》
亮が通常画面へ戻そうとしても、赤い《41》が画面の隅に残り続けた。
*
翌日、亮のタクシーに客は乗らなかった。
午前八時に出庫して、二時間。
配車アプリには、周辺で七件の依頼が成立したと表示されている。けれど亮の車には一件も回ってこない。
高田馬場駅の乗り場では、前に並んでいた三台が客を乗せたあと、空車の時間が三十分続いた。
列を離れて早稲田通りから明治通りへ出る。
手を挙げた会社員の前で減速したが、直前に別のタクシーが滑り込んだ。
正午までの売上は、初乗り一件だけだった。
営業所から業務連絡が届く。
《須藤乗務員の勤務適性が一時的に低下しています》
《長距離・法人・福祉輸送の割当てを停止します》
理由は書かれていない。
残存価値の減点が、会社の配車システムへ接続されている。
亮は路肩へ車を止め、先月の給与明細を開いた。
家賃。奨学金。光熱費。携帯料金。
判定報酬がなければ、残る金は少ない。真壁を処分して受け取った二十四万円は、手をつけずに別の口座へ移してある。
使わないことで、処分を拒んでいるつもりだった。
だが、画面に並ぶ支払額を見ると、そこに金があることを意識してしまう。
橋本を消した報酬で、亮は一度家賃を払った。
真壁を消した金でも、生き延びられる。
決済端末に通知が現れた。
《特別是正案件》
《受諾した場合、一部配車制限を解除します》
《案件を適正に完了した場合、区域内違反の減点を再検討します》
《受諾しますか》
白い《受諾》と、灰色の《拒否》が並ぶ。
拒否を押しても、誰かが処分されるわけではない。
その代わり、今日と同じ一日が続く。
亮は《受諾》を押した。
すぐに配車依頼が入る。
《迎車地点:霞が関統計情報センター裏口》
《乗客:榊原奈緒》
《目的地:新宿メディアタワー》
まだ乗せてもいない人間の名前が、先に指定されていた。
*
霞が関統計情報センターは、官庁街から一本外れた場所にあった。
正面玄関には国の機関を思わせる名前が掲げられているが、建物案内には民間企業が六社入っている。
亮は裏口の車寄せへ入った。
午後一時十二分。
榊原奈緒は、灰色のコートを着て立っていた。
足元に小さなキャリーケースがある。出張へ行くには小さく、書類を運ぶには頑丈すぎる。
「新宿メディアタワーまでお願いします」
榊原は後部座席へ乗り、キャリーケースを足の間に置いた。
「承知しました」
亮がメーターを入れる。
榊原はシートベルトを締める前に、後方を確認した。
「追ってくる車はありますか」
「今のところ、同じ車は見えません」
「見える範囲でいいので、確認してください」
タクシーが車寄せを出る。
榊原はスマートフォンの電源を切り、銀色の袋へ入れた。
「電波を遮断する袋ですか」
「位置を知られたくないので」
「誰にですか」
「会社と、会社へ仕事を出している人たちに」
亮はバックミラーを見た。
榊原は怯えているようには見えない。両手でキャリーケースの取っ手を押さえ、何度も時計を確認している。
「到着は一時四十五分ごろです」
「二時から記者と会います」
「取材ですか」
「内部告発です」
赤信号で車が止まった。
榊原は亮の反応を待っている。
「話しても大丈夫なんですか」
「顔も名前も出すつもりです。運転手さん一人に知られても、もう同じです」
「何を公表するんですか」
「消えた人の数です」
亮の足がブレーキを強く踏んだ。
後続車のクラクションが鳴る。信号は青へ変わっていた。
「去年、国内で死亡したと発表された人は百五十九万人。でも、住民記録から失効した人間は、それより多い」
「失効?」
「死亡届がないのに、戸籍、住民票、保険、納税記録が同じ日に止まっている人たちです。統計上は死亡者にも、行方不明者にも含まれない」
第三管理区域の白いカードが浮かぶ。
第三—〇七四。
第三—三一八。
「何人いるんですか」
「確認できただけで、一万一千四百二十六人」
榊原はキャリーケースを足で挟んだ。
「その人たちは、生きているんですか」
「質問は私がしたいんです」
「すみません」
「本当の数字を公表すれば、社会は混乱する。黙っていれば、消された人たちは最初から存在しなかったことになる」
榊原がバックミラー越しに亮を見た。
「運転手さんなら、どちらを選びますか」
人生に関わる相談だと、亮には分かった。
具体的な答えを返せば、判定が始まる。
「急いでいるので、道に集中します」
「答えたくない?」
「会ったばかりの僕が決めることではありません」
以前なら、それで話を終わらせていた。
榊原は窓の外へ顔を向けた。
「そうですよね。関係ない人には、関係ない」
その言葉の向こうに、橋本がいた。
名前を呼ばれず、番号を胸に付けて送迎車を運転している。
真壁の宿帳に残っていた十八人がいた。
彼らを社会から消した側に、亮もいる。
「存在した人を、いなかったことにしてはいけないと思います」
榊原が顔を戻した。
「公表しろ、ということですか」
「公表するなら、消された人がもう一度傷つかない方法を選ぶべきです」
「傷つけずに証明できない場合は?」
「それでも、方法を探すべきです」
「期限が明日でも?」
「明日を過ぎたら、証拠が消されるんですか」
「たぶん」
榊原は、初めて口元を緩めた。
「あなたは、思っていたより慎重なんですね」
「僕を知っているんですか」
「運転手さんは、みんな同じ制服でしょう」
答えになっていなかった。
*
新宿メディアタワーへ到着したのは、一時四十一分だった。
榊原はクレジットカードを決済端末へかざした。
認証に通常より長くかかった。
《決済完了》
「助言、ありがとうございました」
榊原はキャリーケースを引いて、報道機関の受付へ向かった。
自動ドアが閉じる。
料金画面が消え、白と黒の画面へ切り替わった。
《特別是正案件》
《対象:榊原奈緒》
《判定期限:24時間》
《生存》
《処分》
《現在の残存価値:41》
その下に、これまでなかった一文がある。
《推奨判定に一致した場合、残存価値を最大19回復します》
推奨判定がどちらなのかは、書かれていない。
だが、榊原をこの車へ乗せた時点で答えは示されている。
黒瀬から着信が入った。
「榊原さんを乗せる前から、対象だと知っていたんですか」
亮は挨拶を待たずに聞いた。
『対象候補であることは把握していました』
「僕が相談を受けなければ?」
『別の選定員へ案件が移ります』
「誰かが処分を押すまで、乗せ続けるんですか」
『生存が適切なら、生存判定でも完了します』
「この案件で、そちらが望んでいるのは処分でしょう」
『須藤さんが資料を確認し、判断してください』
「資料には、彼女が公表しようとしている内容もありますか」
『あります』
「橋本さんの記録も?」
数秒、返事がなかった。
『あります』
黒瀬は必要なことには答えた。
『対象へ勤務外で接触しないでください。今回、区域内での違反は猶予されていますが、免除されたわけではありません』
「榊原さんを処分すれば、41から60になる?」
『判定結果だけでは決まりません』
「でも、最大で十九戻る」
『生活を維持するために必要な数字です』
「僕の生活を止めたのは、あなたたちでしょう」
『止めてはいません。利用できる業務の範囲を、現在の適性に合わせました』
亮は通話を切った。
判定画面の右上に、資料のアイコンが追加されていた。
*
《榊原奈緒・社会影響予測》
《生存理由》
画面には、榊原が発見した記録の一部が表示された。
処分後も工場や農場で働いている人間の人数。
別名義で徴収された所得税。
本人へ支払われていない労働報酬。
家族から提出された捜索願が、受付後に取り消された件数。
《公表により、違法な行政処理の是正が期待される》
《処分者および家族の権利回復に寄与する可能性》
《将来的社会価値:高》
亮は次の項目を開いた。
《処分理由》
榊原が持ち出した原本には、氏名と生年月日だけでなく、病歴、犯罪歴、家族の住所、現在の収容区域が含まれている。
元データを匿名化すれば、適正化室は捏造だと否定できる。原本を出せば、記録が本物だと証明できる。
その代わり、一万一千人の秘密が同時に公開される。
《管理区域居住者への報復・差別リスク》
《被害者情報の二次流出》
《医療・食料供給契約の停止予測》
《協力者一名の刑事責任》
協力者の欄に、二十四歳の男性社員の顔が出た。
榊原の部下だった。
彼はアクセス権限を貸したあと、公開の中止を求めている。
録音された会話が再生される。
『約束が違います。統計だけだと言ったじゃないですか』
『統計だけでは、向こうは認めない』
『僕の名前もアクセス履歴に残っています』
『何人かが犠牲にならなければ、一万人は救えない』
音声が終わる。
亮は停止した画面を見た。
適正化室も、榊原も、救う人数と犠牲にする人数を数えている。
違うのは、どちらが数字を持っているかだけだった。
資料の最後に、榊原の弟の記録があった。
《榊原直人/処分済み》
公共事業の入札記録を外部へ提供し、契約社員三十八名の不正雇用を告発。処分理由には、守秘義務違反、業務妨害、継続雇用価値の不足とある。
そして、ほかの案件では見たことのない評価項目が、一瞬だけ表示された。
《秩序従属性:4》
亮が項目を押すと、画面から消えた。
《閲覧権限がありません》
社会へどれだけ役立つかだけではない。
従う人間かどうかまで、処分の数字に入っている。
榊原直人は、人を傷つけたから消されたのではない。
黙らなかったから消された可能性がある。
判定期限は、残り二十二時間四十八分。
*
午後七時を過ぎても、榊原奈緒はメディアタワーから出てこなかった。
亮は勤務を続けた。
配車制限が一部解除され、短距離の客だけが三件入った。
一件目は、会社を辞めるか迷っている男性。
二件目は、親を施設へ入れることに罪悪感を抱く女性。
三件目は、離婚届を出せずにいる夫婦。
亮は、三人の相談へ具体的な助言を返さなかった。
新しい判定が始まることを恐れていた。
「最後はご本人が決めることなので」
以前の口癖が戻った。
夫婦を降ろしたあと、決済端末に警告が表示される。
《相談回避傾向を検知》
《是正案件の評価へ反映します》
助言しても、黙っても、記録される。
亮は営業所へ戻ろうとした。
配車依頼が入る。
《乗車希望者:榊原奈緒》
迎車地点は、メディアタワーではない。
西新宿の地下駐車場だった。
依頼者の指定欄に、《須藤亮》と入力されている。
*
地下三階の照明は、半分が消えていた。
榊原は柱の陰から現れ、後部座席ではなく助手席へ乗った。
キャリーケースは持っていない。
「報道機関へ渡したんですか」
「渡していません」
「どうして、僕を指名したんです」
「朝の配車記録に、あなたの乗務員番号があったからです」
「それだけで?」
「記録の中で見た番号でした」
榊原はコートの内側から、小型のタブレットを取り出した。
「発車してください。ここでは監視カメラに残ります」
「行き先は」
「決めていません。走っている間だけ話します」
亮はメーターを入れた。
タクシーが地下駐車場の坂を上る。
「記者には会ったんですよね」
「本物だと証明できる資料を要求されました。個人名を消した一覧では、記事にできないと」
「原本を渡せば、関係のない人まで危険になります」
「昼間、あなたが言ったとおりです」
「では、やめるんですか」
「あなたが決めてください」
「僕には決められません」
「もう二人、決めています」
亮は榊原を見た。
タブレットの画面に、黒い一覧が表示された。
縦に並んでいるのは、処分された人間の名前だった。
榊原が指で画面を送る。
一万一千四百二十六人分の氏名と番号が、途切れず流れていく。
見覚えのある名前で止まった。
《橋本修一》
《現在登録:第三—三一八》
《状態:区域内就労》
《再審査:三回不承認》
その下に、別の名前がある。
《真壁省吾》
《現在登録:第三—四八九》
《状態:導入審査中》
榊原が画面を横へ動かした。
処分者の記録の隣に、判定者の記録が現れる。
《選定員:須藤亮》
《処分決定数:2》
《対象:橋本修一》
《対象:真壁省吾》
亮はアクセルから足を離した。
後続車が距離を詰め、ヘッドライトが車内を照らした。
「どうして、俺の名前が」
「消された人だけではありません」
榊原はタブレットを伏せなかった。
「消した人の名前も、全部残っています」
「そのデータを、どこで手に入れた」
「弟が消されたあと、七年かけて探しました」
「公表すれば、あなたも処分される」
「もう、判定は始まっているんでしょう」
亮は榊原を見た。
「知っているんですか」
「弟の記録に、《選定完了》と書かれていました。誰かが、生かすか処分するかを決めた。その仕組みの一部が、あなたです」
榊原は橋本の名前を指した。
「須藤さん。あなたは橋本修一を覚えていますか」
「覚えています」
「この人が今も生きていることも?」
「昨日、会いました」
榊原の指が止まった。
「どこで」
「それは言えません」
「管理区域ですね」
亮は答えなかった。
「それでも、処分した?」
「はい」
「何をした人なんですか」
「事故記録を揉み消して、被害者への補償を妨げました。でも、助けられた人もいました」
「それを知って、処分したんですね」
「はい」
榊原はタブレットから、爪ほどの大きさの記録媒体を抜いた。
「では、今度も決めてください」
記録媒体を亮の手元へ差し出す。
「これを世の中へ出すべきか」
「僕に渡したら、あなたの手元から証拠がなくなる」
「複製です。原本はまだ私が持っています」
「僕が組織へ渡すかもしれない」
「その場合も、あなたが決めたことになります」
決済端末には、榊原の顔が表示されている。
白い《生存》。黒い《処分》。
残り時間は、十七時間十二分。
榊原の手には、小さな記録媒体。
公表すれば、橋本たちが存在したことを証明できる。
同時に、橋本たちが隠しておきたい過去まで社会へ晒される。
隠せば、彼らは番号のまま働き続ける。
処分すれば、亮の残存価値は回復する。
生存を選べば、明日、榊原がすべてを公開するかもしれない。
「榊原さんは、俺に何を選んでほしいんですか」
「それを言えば、あなたは私のせいにできる」
榊原は記録媒体を差し出したまま言った。
「今度は、ご自分で決めてください」
信号が赤へ変わる。
亮は車を止めた。
右手の先に《生存》と《処分》がある。
左手の先に、一万一千四百二十六人の記録がある。
どちらにも、まだ触れなかった。




