第十話「責任」
警察へ事故記録を提出した小野寺だが、電子記録が存在せず、被害者も過去を蒸し返されたくないと証言を拒む。一方、組織は「告発を撤回すれば生存推奨へ変わる」と亮へ提示する。小野寺を救うため撤回を勧めた亮は、十年前の口止めと同じだと拒絶される。期限直前、亮は小野寺を許さないまま《生存》を選ぶ。
警察の端末に、十年前の事故は存在しなかった。
小野寺誠が提出した紙の事故報告書には、日付も、車両番号も、橋本隆志の印鑑もある。
それでも、相談を受けた警察官が検索した画面には、《該当する記録はありません》と表示されていた。
「事故があった場所は、この管内で間違いありませんか」
「間違いありません」
「当時、警察へ届け出たんですよね」
「俺も現場へ行きました。警察官が何人もいた。被害者は救急車で運ばれた」
小野寺の隣に座る須藤亮には、警察官の画面は通常どおり見えている。
膝の上に置いた決済端末だけが、別の数字を表示していた。
《対象の告発成功率:8%》
《組織推奨判定:処分》
《推奨信頼度:96%》
警察官は、灰色のファイルから事故報告書を取り出した。
「これは会社で作成した書類ですか」
「はい。電子化される前の原本です」
「原本であることを証明できるものはありますか」
「紙と印鑑じゃ足りませんか」
「足りないとは言っていません。ただ、データベースに事故番号がなく、当時の担当者も確認できないので、まず書類の作成時期と印影を調べる必要があります」
小野寺は椅子の背にもたれた。
「俺が、虚偽の報告をしたって認めても?」
「そのお話も記録します」
「自首にはならないんですか」
「現時点で、どの行為がどの事件に当たるのか確認できていません。事故自体の記録がありませんから」
警察官は、言葉を選びながら続けた。
「今日は相談記録を作成します。書類はお預かりして、当時の関係者と保険会社へ照会します。結果が出るまで、少し時間をください」
「どのくらいですか」
「今はお答えできません」
小野寺は罰を受ける覚悟で来た。
だが、警察には罰するための事件がない。
処分された橋本だけでなく、橋本が起こした事故まで、存在しないものになっていた。
*
警察署を出ると、小野寺は自動販売機で缶コーヒーを二本買った。
一本を亮へ投げる。
「付き合わせたな」
「このまま帰るんですか」
「待てって言われたんだから、待つしかないだろ」
「被害者へ確認するかもしれません」
小野寺は缶を開ける手を止めた。
「名前、分かるのか」
亮は答えなかった。
「お前の端末には出てるんだな」
「言えません」
「昨日はあれだけ喋ったくせに、急に規則を守るのか」
「本人のことだからです」
亮は決済端末を開いた。
《対象者関連記録》に、新しい資料が追加されている。
望月菜緒、二十九歳。
事故当時は十九歳。専門学校から自転車で帰宅する途中、橋本のタクシーと接触した。
右脚を骨折し、二度の手術を受けている。現在も長時間歩いた場合に痛みが出る。
示談の際、菜緒と母親は、橋本が体調不良を会社へ申告せず、単独の判断で運転したという説明へ署名していた。
早期に治療費を受け取るためだった。
その署名が虚偽であることを菜緒自身も知っている。
現在の勤務先、住所、通院履歴、婚姻状況まで表示されていた。
亮は、それ以上読まずに画面を閉じた。
「会いに行くつもりですか」
小野寺が聞いた。
「行きません」
「俺は行く」
「やめた方がいいです」
「どうして」
「望月さんは、事故のあとも——」
名前を口にしたところで、亮は止まった。
決済端末に警告が出る。
《対象関連情報の開示を検知》
「望月っていうのか」
「今のは忘れてください」
「無理だろ」
小野寺は缶コーヒーを飲み切らず、ごみ箱へ入れた。
「謝らなきゃいけない」
「謝れば、望月さんのためになるんですか」
「ならなくても、謝るべきだ」
「それを決めるのは、小野寺さんじゃない」
小野寺は亮を見た。
「橋本さんを消した人間に言われたくない」
「分かっています」
「分かってないから、俺についてきてるんだろ」
小野寺は駅の方へ歩き出した。
亮は追わなかった。
*
「九十六%ですか。ずいぶん嫌われましたね」
背後から御子柴慧の声がした。
昨日と同じ赤い防水ジャケットを着ている。配達用バイクのハンドルへ、コンビニの袋が掛けられていた。
「待ってたんですか」
「近くに配達があっただけです。選定員の衝突警告が消えないから、まだいるんだと思って」
御子柴は袋からペットボトルの水を出した。
「判定、終わらせないんですか」
「まだ五十時間以上あります」
「俺なら、残り時間が増えるほど不安になりますけどね。対象が何をするか分からないでしょう」
「小野寺さんは、警察へ告発しただけです」
「だから危険なんですよ」
御子柴は自分の配達端末を操作した。
「正式任務なら、条件予測が使えるでしょう」
「条件予測?」
「対象の行動を変えた場合、推奨がどう動くかを見る機能です」
亮の決済端末に、《判定補助共有》という通知が届いた。
開くと、小野寺の対象資料の横に三つの条件が並ぶ。
《警察への告発を撤回》
《保有する事故記録を破棄》
《事故について第三者へ開示しない》
すべてを選択した状態で、《予測》を押す。
数字が変わった。
《処分推奨信頼度:96%→38%》
《組織推奨判定:生存》
「よかったですね」
御子柴が言った。
「処分しなくて済みます」
亮は三つの条件を見た。
「事故を隠したことが、処分理由だったはずです」
「そうですね」
「今度も隠せば、生存になる?」
「十年前の事故より、現在の社会へ与える影響の方が大きいということでしょう」
「罪があるかどうかは関係ないんですか」
「刑罰を決める制度じゃありません。社会に残すかどうかを決める制度です」
「組織に従う人間なら残す」
「問題を起こさない人間なら、です」
「同じでしょう」
御子柴は水を一口飲んだ。
「生存を選びたいのは、あなたでしょう。方法を教えただけです」
配達端末から次の依頼を知らせる音が鳴った。
「対象本人へ条件を見せるのは規則違反です。でも、助言ならできます」
「小野寺さんに、もう一度黙れと言えってことですか」
「言い方は選べます。証拠が揃うまで待ってほしい。今は動く時期じゃない。一度引いて、別の方法を探そう」
御子柴はヘルメットをかぶった。
「人を動かすときは、本人が選んだと思わせるんです」
バイクが走り出した。
亮の端末には、《生存推奨》の文字が残っていた。
*
その日の夕方、小野寺は営業所の車庫にいた。
会社から事情を聞かれ、乗務を外されていた。制服ではなく、朝と同じ紺色の上着を着ている。
自分のタクシーから、私物を段ボール箱へ移していた。
「もう会社に話が行ったんですか」
「警察が、事故報告書の確認をしたらしい。所長に、調査が終わるまで乗るなって言われた」
「免許は」
「まだある。社員証も返せとは言われてない」
小野寺は、ダッシュボードから娘の写真を取り出した。
小学生くらいの女の子が、遊園地の乗り物に座っている。
「証拠が足りないなら、一度引いた方がいいと思います」
亮が言うと、小野寺は写真を箱へ入れた。
「何から引く」
「警察への告発です」
「朝と言ってることが違うな」
「今のままだと、書類が本物だと証明できません。事故報告書のコピーを残して、もっと確実な証拠を見つけてから——」
「いつ見つかる」
「分かりません」
「その間、俺は何をする」
「仕事を続ければいい」
「十年前みたいに?」
亮は答えなかった。
「警察へ行くな。紙を捨てろ。誰にも話すな」
小野寺は指を一本ずつ折った。
「それで俺は助かる。そういう話か」
「助かる可能性が上がります」
「何%だ」
亮は顔を上げた。
「そういう画面が出てるんだろ」
「……生存が、六十二%です」
「今の俺は?」
「処分推奨、九十六%」
小野寺は短く息を吐いた。
「分かりやすい組織だな」
「まず生き残ってください。責任を取る方法は、あとから探せます」
「お前、十年前の俺と同じことしてるぞ」
亮の言葉が止まった。
「あのときの俺も、橋本さんにそう言った。会社を辞めたら補償もできない。まず仕事を守ろう。責任を取る方法はあとで考えればいいって」
「でも、小野寺さんが消えたら——」
「俺を生かすためなら、また誰かに黙らせるのか」
「望月さんには、何も頼みません」
「俺には頼んでる」
小野寺は段ボール箱を持ち上げた。
「助けるって言葉は便利だな。相手のためだと言えば、相手の選択を変えても正しいことになる」
御子柴の言葉が、亮の中で重なった。
本人が選んだと思わせる。
亮は、小野寺を救おうとしていたのではない。
自分が《生存》を押しやすい小野寺へ変えようとしていた。
*
翌日の午後、警察から小野寺へ連絡が入った。
事故報告書の印影は、当時東西自動車で使用されていたものと一致した。ただし、書類の内容が事故当時に作成されたものか、後年に作られたものかは、さらに確認が必要だという。
同時に、警察は望月菜緒へ連絡を取っていた。
菜緒から、小野寺と一度だけ会うという返事が来た。
場所は、警察署近くの面談室だった。
小野寺は亮へ来るなと言った。
それでも亮は、警察署の廊下まで同行した。
面談室から出てきた菜緒は、黒いパンツスーツを着ていた。歩き方は一見普通だったが、立ち止まると右脚へ体重をかけない。
小野寺が椅子から立った。
「望月さん」
「名字、変わってます。今日は、その名前で呼ばれたくありません」
「すみません」
「謝らないでください」
菜緒は小野寺を見た。
「警察には、覚えていないと話しました」
「でも、あの日——」
「覚えています」
「だったら、証言を」
「しません」
小野寺は口を閉じた。
「事故のあと、母は早く治療費を受け取るために署名しました。私も署名した。あなたたちが嘘をついたことも、私たちが嘘に同意したことも知っています」
菜緒は右膝へ手を置いた。
「母は三年前に亡くなりました。今の夫にも、職場にも、事故の詳しいことは話していません。もう一度調べれば、示談のことも、私が署名したことも、全部説明しなきゃいけなくなる」
「あなたは被害者です」
亮が言うと、菜緒は初めて亮を見た。
「被害者なら、何度でも話せると思いますか」
「そういう意味では」
「話せば正しい側に戻れる。あなたたちは、そう思ってるんでしょう」
亮は否定できなかった。
小野寺が頭を下げた。
「俺が、責任から逃げました。申し訳ありませんでした」
菜緒は頭を下げた小野寺を見なかった。
「あなたが謝って楽になるために、私の十年をまた事故の日へ戻さないでください」
「楽になりたいわけじゃ」
「だったら、私に謝る必要もないでしょう」
菜緒は亮の横を通り過ぎた。
数歩進んだところで、右脚をわずかに引きずった。それでも振り返らず、廊下の角を曲がった。
小野寺は頭を下げたままだった。
「証言は頼まない」
やがて、そう言った。
「俺の話と、この紙だけで続けてもらう」
「成功しないかもしれません」
「成功させるために、あの人をまた使うのか」
亮は何も言えなかった。
決済端末が再計算を始めた。
望月菜緒の証言可能性が、《協力》から《拒否》へ変わる。
小野寺が記録改変を証明できる可能性が下がる。
その一方で、告発を継続する意思は、《組織への危険性》へ加算された。
《組織推奨判定:処分》
《推奨信頼度:97%》
*
残り時間が一時間を切った頃、黒瀬梓から通話が入った。
「対象資料は更新されましたか」
「見ています」
「小野寺さんを生存させた場合も、警察の調査が進む保証はありません」
「保証がなければ、消すんですか」
「私は判定結果を指示していません」
「御子柴さんは、告発をやめさせれば生存にできると言いました」
「条件予測の使用は、選定員の権限です」
「組織が見てるのは、小野寺さんが正しいかじゃない。従うかどうかだ」
「適正化室は、刑事裁判所ではありません」
「だったら、人を罰する資格もないでしょう」
「処分を刑罰と解釈しているのは、須藤さんです」
亮は答えに詰まった。
黒瀬は続けた。
「制度が測るのは、その人間を社会に残した場合の影響です。善人か悪人かではありません」
「失敗する人間は、残す価値がない?」
「それを決めるため、あなたに権限が与えられています」
「俺の数字を下げながら」
「評価されない判断を選ぶ自由も、あなたにはあります」
通話が切れた。
亮は決済端末を見た。
《残り47分》
*
期限まで残り三分。
小野寺は、再聴取のため警察署前に立っていた。
会社からは自宅待機を命じられ、乗務予定はすべて外されている。娘へ送る今月分の養育費は払えるが、来月以降は分からないと言った。
それでも、灰色のファイルを抱えている。
「最後に聞きます」
亮は決済端末を開いた。
「告発をやめる気はありませんか」
「ない」
「仕事を失うかもしれません」
「分かってる」
「娘さんに、養育費を払えなくなるかもしれない」
「それも話した。怒鳴られたよ」
「娘さんに?」
「元妻に。娘を言い訳に使うなって」
小野寺は、自分の社員証を取り出した。
「十年前も、娘のためだと思ってた。今も、娘のために黙る方が正しいのかもしれない。でも、それを選んだら、また十年同じことを言い続ける」
端末の残り時間が減る。
《残り2分11秒》
「生き残っても、元の生活には戻れません」
「処分されても、事故はなかったことになるだけだろ」
「俺が生存を選んでも、小野寺さんを許したことにはならない」
「当たり前だ。お前に許される話じゃない」
亮は小野寺の顔写真と、二つの選択肢を見た。
生存を支持していた理由は、ほとんど弱くなっている。
告発の成功率は低い。
被害者は証言しない。
仕事を失えば、娘への養育費も止まる可能性がある。
小野寺を社会へ残すことで、数字上よくなるものは少ない。
それでも、消せば責任を取る人間までいなくなる。
「生きて、責任を取ってください」
小野寺は亮を見た。
「お前に決められなくても、そのつもりだ」
《残り58秒》
亮は白い《生存》を押した。
確認画面が現れる。
《対象:小野寺誠》
《判定:生存》
《確定後の変更はできません》
亮は《確定》を押した。
画面が白く変わった。
《判定完了》
《対象者の社会登録を維持します》
「終わったのか」
「はい」
「俺は生きてていいって?」
「違います」
亮は端末を閉じた。
「俺が、消さないと決めただけです」
小野寺は社員証をポケットへ戻した。
「少しは分かってきたな」
警察署の自動ドアが開く。
小野寺は灰色のファイルを抱え、中へ入っていった。
無罪になったわけではない。
仕事へ戻れる保証もない。
被害者から許されたわけでもない。
ただ、名前も、口座も、免許も残った。
自分がしたことを、自分の名前で引き受ける時間が残った。
*
決済端末が、亮の判定を集計した。
《判定結果:生存》
《組織推奨との不一致》
《機密情報開示》
《対象行動への介入》
《残存価値を更新します》
《62→47》
数字の下へ、新しい通知が重なる。
《残存価値50未満》
《選定員適性矯正プログラムを実施します》
《担当選定員:御子柴慧》
配達用バイクのエンジン音が近づいてきた。
赤いジャケットを着た御子柴が、警察署前へバイクを止める。
ヘルメットを外し、亮の端末に表示された《47》を確認した。
「間に合いませんでしたか」
「何にです」
「あなたが、正しい判定を覚える前に五十を切った」
御子柴の配達端末にも、同じ通知が表示されている。
《矯正対象:須藤亮》
《担当:御子柴慧》
「俺は判定対象ですか」
「違います。まだ選ぶ側です」
御子柴はヘルメットをバイクへ掛けた。
「次は、あなたの判定を直す番ですね」




