第64章 卒業式の時
三月。校庭の桜が、あの日見た夜風に揺れるように舞う、卒業式当日。
合格という栄光を引っ提げた花沢は、式が終わるやいなや、例年以上の女子生徒に囲まれていた。
「花沢くん! 第2ボタン、お願い!」
「名札でもいいからちょうだい!」
凄まじい争奪戦の中、花沢はそれらをすべて「悪い、もう決まってるんだ」と一蹴し、人混みをかき分けて香苗の元へとたどり着いた。
「……これ、やるよ」
花沢が差し出したのは、指先で大切に握りしめられていた、制服の第2ボタンだった。
「え、でも、花沢くん……」
「いいから持ってろ。……俺が、お前に渡したかったんだ。……それと、忘れてねえよな? 明日、駅前に11時。……絶対に来いよ」
そう言い残して、照れ隠しのように足早に去っていく花沢の背中を、香苗は手の中の小さなボタンを見つめながら見送った。
その様子を、少し離れた校舎の影から見ていた本原先生が、溜息をつきながら歩み寄ってきた。
「……やれやれ。あいつも相当、往生際が悪いな」
「先生……」
本原は、香苗の頭に大きな手のひらをぽんと載せ、優しく髪を撫でた。その瞳は、いつもの冷徹な眼鏡の奥に、かつてないほどの慈愛と独占欲を湛えている。
「……やっと、お前と俺は『先生と生徒』じゃなくなるんだな」
「……はい」
香苗が真っ直ぐに見つめ返すと、本原は満足げに目を細め、耳元で低く、けれど逃げ場のないほど甘い声で囁いた。
「明日の花沢とのデートが終わったら……そのあと、時間がある時に俺の部屋に来い。……もう、お前を離さないからな」
「っ……!」
昼間の光の中で交わされた、花沢との青い約束。そして、夜の気配を孕んだ、先生からの抗えない誘惑。香苗の胸は、期待と緊張で、あの日推薦合格を知った時よりも激しく高鳴っていた。
卒業証書の筒を抱きしめたまま、香苗は春の空を見上げた。
明日から始まる、新しい、そしてもっと濃密な物語を予感しながら——。




