第62章 さやかと航平について
ようやく勉強から解放されたある日、さやかから電話がかかってきた。
「香苗、久しぶり!最近どう?」
「……実はさやか。私、受かったよ。指定校、通った」
スマホから漏れる自分の声が、少しだけ震えていた。
報告した瞬間、受話器の向こうで「やったぁぁ! 香苗、おめでとう!」と、自分のことのように叫ぶさやかの声が響いた。
その屈託のない明るさに、香苗の胸に溜まっていた泥のような澱が、一気に押し流されていく。
「……よかった。本当に、頑張ってたもんね、香苗。私、信じてたよ!」
「ありがとう、さやか。……やっぱり、私にはさやかだけいればいいや」
「え? 何か言った?」
「……ううん、なんでもない。(ゆかりのこととか、色々あったけど、今はもういいかな、さやかに心配かけたくないし)」
香苗は、窓の外に広がる夕焼けを見つめた。ゆかりに言われた酷い言葉。里奈たちの冷ややかな視線。それらすべてを「さやかにだけは言いたくない」と思うのは、この温かい関係に、なにももたらしたくなかった。
「そういえば、山下くんとはどうなの? うまくやってる?」
少し照れくささを隠すように話題を変えると、さやかは「あはは」と楽しそうに笑った。
「もう、彼ったら寂しがり屋でさ。『早く帰ってきて』とか『次いつ会える?』とか、毎日いってくるの、でも、まあ、なんとか上手くやってるよ」
幸せそうな親友の声。けれど、さやかはふと声を落として続けた。
「……でもさ、私もこっちで友達関係とか、色々悩むこともあるんだよ。みんなそれぞれ事情があるしね。……でも、やりたいことがやれる今の環境は最高かな。香苗も、大学に行ったらきっとそう思えるよ」
「……うん。そうだね。私も、自分のやりたいこと、精一杯やるよ」
さやかの悩みを聞き、お互いに励まし合う時間。それは、本原先生との背徳的な恋や、花沢くんとのあのなんとも言えない関係とは違う、香苗が「ただの女の子」に戻れる唯一の聖域だった。
「さやか、大好きだよ。……また明日ね」
電話を切ったあと、香苗の心には、春の陽だまりのような静かな勇気が宿っていた。
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ー夜の自習室。
航平は、開いたままの分厚い問題集を前に、思わず天を仰いだ。
「……っ、ここの構造決定、何度やっても辻褄が合わねえ……」
焦りと苛立ちで、ペンを握る指先が震える。その時、隣の席から無造作に手が伸びてきて、航平のノートを指し示した。
「……そこ、ベンゼン環の置換位置、間違えてるぞ。一つずれてるから、水素の数が合わなくなるんだ」
驚いて横を見ると、そこにはいつもと変わらない淡々とした表情の花沢がいた。
「花沢……。お前、自分の勉強はいいのかよ」
「俺はもう終わった。……ほら、貸せ。そこはこう解くんだよ」
花沢はさらさらと航平のノートに図を書き込み、驚くほど分かりやすく解説を始めた。
かつて、香苗を巡って睨み合ったあの頃の刺々しさは、今の彼からは感じられない。
「……なあ。なんで俺に教えるんだよ。お前にとって俺は、敵みたいなもんだろ」
航平がポツリと漏らすと、花沢は一瞬だけペンを止め、ふっと口角を上げた。
「……そうだな。正直、お前のことぶっ飛ばしたいと思ったこともあったよ。……でもさ、恋敵だったお前が今はいてくれて良かったよ。一人じゃ、このプレッシャーに潰されてたかもしれないからな」
花沢は航平の肩をドン、と軽く叩いた。
「こんなところで躓いてんじゃねえよ。……一緒に合格して、あいつを驚かせてやるんだろ」
「……っ、ああ。当たり前だ。……サンキュ、花沢」
航平は、花沢に教わったページを力強くめくった。ライバルだからこそ、誰よりも自分の努力を知っている。二人の間に流れる空気は、もはや「敵」ではなく、同じ高みを目指す「戦友」のそれだった。




