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第60章   もう迷わないらしいです


「……花沢くん、今日はもう帰らなくていいの? お母さん、まだ入院中でしょう?」

 塾のあと公民図書館で勉強をして、隣に座り、当たり前のように自分のノートを覗き込んでくる花沢に、香苗は戸惑いながら声をかけた。

「いいんだよ。母さんも『あんたは自分の道を行きなさい』って言ってくれてるし」

 花沢はペンを回しながら、ふっと香苗の顔を至近距離で覗き込んだ。その距離感の近さに、香苗の心臓が不意に跳ねる。

「……香苗。お前の中にもう先生しかいないことはわかってる」

「えっ……」

「だけどさ、気づいたんだよ。お前が誰を好きだろうと、俺がお前を好きなのは俺の勝手じゃん?……俺、もう遠慮しないから。」

 不敵に、けれど最高に男らしく微笑む花沢。かつての硬派な「ガリ勉」の殻を破り、剥き出しの好意をぶつけてくる彼に、香苗は一瞬、息をするのを忘れてドクンと胸を突かれた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーその日の夜。

 ざわめきが落ち着き始めた駅前のカフェで、香苗は一人、計算に格闘していた。花沢に言われた言葉が頭を離れず、ペンがなかなか進まない。

(……あんな顔、するなんて……)

 カフェの入り口のドアベルが鳴り、ひやりとした夜の風と共に、聞き慣れた足音が近づいてきた。

「……よくあってるな?この短期間でよくここまで仕上げたな、香苗」

「先生!?うわ、びっくりした」

 静まり返った夜のカフェ。今日は「特別講義」という名目での待ち合わせ。一対一で教えてもらう贅沢な時間に、香苗の心はずっと浮き立っていた。

「驚かさないでくださいよ、にしてもあってましたか? 最近、花沢くんが熱心に教えてくれるから、そのおかげかもしれません」

 香苗が何気なく、弾んだ声でそう言った瞬間。先生のペンを動かす手が、ピタリと止まった。

「……花沢、か」

 先生がゆっくりと顔を上げる。眼鏡の奥の瞳が、ふいっと逸らされた。いつもは余裕たっぷりの先生が、口角をわずかに引き結び、どこか不機嫌そうに窓の外を睨んでいる。

「え……先生? もしかして、妬いてるんですか?」

 香苗が恐る恐る覗き込むと、先生は「……別に」と短く答えて、コーヒーカップを口に運んだ。けれど、その耳の先がほんのりと赤くなっているのを、香苗は見逃さなかった。

(……可愛い。先生でも、こんな風に子供みたいになるんだ)

 完璧な「大人」が見せた隙。香苗の胸に、愛おしさが広がった。勉強を終え、店を出ると、街はすっかり夜の帳に包まれていた。

 火照った体に、少し湿り気を帯びた夜風が心地よく吹き抜ける。

「……香苗」

 隣を歩いていた先生が、ふと立ち止まった。街灯のオレンジ色の光が、先生の端正な横顔をドラマチックに照らし出している。

「あの……先生?」

 先生は香苗の方を向き、その細い肩を優しく、けれど重みを持って引き寄せた。そして、香苗の顔をじっと見つめ、熱を孕んだ声で低く囁く。

「……お前、この夏でずいぶんと大人っぽくなったな。……綺麗になった」

「っ……!」

 さっきの「可愛い嫉妬」はどこへ行ったのか。真っ直ぐに見つめるその瞳は、教師としてではなく、一人の男としての、逃げ場のない情熱に満ちていた。

「……そんな顔で見られると、俺の理性が、また一つ壊れそうだ」

「もう、揶揄わないでくださいよ」

「早く受験終わって卒業しろよな?」

「…はい」

 そよ風が通り抜ける中、この人の隣にいたいと強く感じる香苗であった

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