第59章 疲れたな
病院の廊下は、嫌なほど白く、静まり返っていた。
花沢はプラスチックの椅子に深く顔を埋め、震える指を組んでいた。
(……俺が、押し付けたんだ)
妹の面倒も、家事も、全部母さんに任せきりにして、自分は「医者になるから」と逃げるように塾にこもっていた。母さんがこんなになるまで気づけなかった。こんな極限状態だというのに、何度電話しても、父親は繋がらない。
「クソッ……あいつ、何やってんだよ……!」
絶望と自己嫌悪で、視界が歪む。母さんがこんな状態だってのにあいつは何をしているんだ。
「花沢、あいつの様子は」
「わからない、」
俺は母さんから何かあったら直哉先生に連絡して欲しいという母さんの望みを思い出し、手術を待っている間に連絡をしたのだ。
「……ずっと無理してたから……なのに気づかなくて、俺が……俺が代わりに倒れればよかったんだ。俺には、もう、何も……!」
「自分を責めるな、俺が絶対お前のそばから離れねーから」
「!?はは、普段と違ってカッコつけたって似合わねーよ」
そんなことを言いつつも、先生がそばにいてくれて安心した。本当は不安でたまらなかったと気づいて涙が止まらなかった。そして、強気な事言っておきながら俺の肩を掴んでいる先生の手が震えているのに気づいた。泣き疲れて、思考がぼんやりと霞んでいく。意識が途切れる寸前、脳裏に浮かんだのは香苗の顔だった。
もう香苗の心に俺はいない。それなのにこんな時、一番に会いたいと願ってしまうのは彼女だった。
「……かな、え……助けて……」
そのまま深い眠りに落ちた花沢は、残酷な夢を見る。
夕暮れの教室。香苗が、あいつと寄り添い、幸せそうに笑い合っている。二人の世界には、自分が入る隙間なんてどこにもない。香苗の瞳には、自分ではなく、あの男だけが映っている。
「……っ!」
心臓が跳ね上がり、花沢は弾かれたように目を開けた。
頬には乾いた涙の跡があり、視界に入ったのは冷たい病院の天井。夢だと分かっていても、胸を抉るような喪失感は消えない。
「……起きたか」
低い、けれど微かに震える声が頭上から降ってきた。驚いて顔を上げると、直哉先生がいた。
「……先生。俺もう疲れた…」
「よく頑張ってるよ、あまり無理をするな」
その腕は、夢で見た絶望的な光景を塗りつぶすほどに温かく、優しかった。
「俺がいる。……お前を、一人にはさせない」
「あーあ、まじで先生が父親だったら良かったのにな」
確かにそう思いながらまた眠りに着いたのだった。




