第56章 夏休み前
セミの声が遠くで鳴き始めた、夏休み直前の放課後。
香苗は、花沢をずっと想い続けてきた女子生徒達に呼び出され、逃げ場のない問いを突きつけられていた。
「……結局、佐倉さんはどうなの? 花沢くんにずっと待たせてる自覚、あるの?」
わからない、としか答えられなかった。でも、一人になった図書室で、香苗は気づいてしまった。自分は花沢の真っ直ぐな気持ちに甘え、彼の「今」を奪っている。なんて最低なんだろう。
(……苦しい。誰かに、助けてほしい)
真っ先に脳裏をよぎったのは、あの冷たくて熱い、本原先生の姿だった。気づけば、走っていた。
「先生!」
空っぽの進路指導室、誰もいない職員室のデスク。どこにも、あの人の姿はない。
「もしかしてあいつを探している?」
「はい」
「…俺は花沢を選んだ方がお前にとっていいと思うぞ?そりゃいいやつさ、でもさ」
「先生のおっしゃりたいことはわかります。でも辛い時、悲しい時、いつも真っ先に浮かぶのは先生なんです!だから私今先生のとこに行かないとなんです」
「そうか、そう言うなら俺は止めない。だがな俺は今でもあいつが美代って名前を呼ぶのを聞くぞ」
「!?それは…知ってます」
(……そうだよね、うん、わかってる。本当に見ているのは、私じゃない。……美代さんなんだよね)
自分がどれだけ願っても、死んだ人から先生を奪うことなんてできない。先生は私のこときっと少しは特別に想ってくれている、はず。だけどいまはその自信もない。
「……もう、どうすればいいの」
諦めて校門へ向かおうとした時、曲がり角の向こうから、あの懐かしい気配が近づいてきた。本原先生だ。
「……あ」
目が合った瞬間、心臓が跳ねた。でも、今の自分を見られるのが怖くて、香苗は反射的に背を向け、走り出そうとした。
「……待て」
低い声が響くと同時に、背後から強い衝撃が走った。
先生の長い腕が、逃げようとする香苗の体を後ろからすっぽりと包み込む。
「っ……離して、ください……っ!」
「離さない。……お前、今どんな顔をして逃げようとした」
耳元で囁かれる、熱を帯びた声。先生の胸の鼓動が、背中越しに痛いくらい伝わってくる。いつもの「余裕のある学年主任」の顔は、そこにはなかった。
「……先生は、結局忘れられなくて、私はただの生徒で……っ」
「……黙れ。そんな風に、勝手に自分を序列の下に置くな」
先生は腕にさらに力を込め、香苗の肩に顔を埋めた。
香苗の髪から漂う甘い香りが、先生の中の「理性」を粉々に砕いていく。
「……きちんと、話したい。……お前を、ただの生徒として見ることなんて、もうとうの昔にできなくなっているんだ」
夕闇に染まり始めた廊下で、二人の影は一つに溶け合っていた。それは、美代さんへの思慕を塗り潰すほどに、残酷で、狂おしいほど純粋な、本原先生の「今」の告白だった。




