第54章 やりたいこと
図書室の窓際の席。香苗は親友のゆかりと並んで、進路案内の分厚い冊子を広げていた。
「……やっぱり、本格的に学べる所って限られてるなぁ」
「香苗は真面目にいつも勉強しててえらいよ。私なんて、なんでもそれとーなくしかしてないし……最近、お母さんのケーキ屋さんを継ぐのもありかなって、ちょっと思ってるんだけどね」
ゆかりの言葉に、香苗はふと顔を上げた。
「そっか」
「香苗はお姉ちゃんみたくなりたくないの?」
香苗の姉は、都内の大学で経営学を学びながら、人気モデルとしても活躍している有名人だ。
「え? お姉ちゃん? まさか。あんなに可愛くないし、私、スタイルだって良くないもん」
「私から見たらめっちゃ可愛いけどね、まああのスタイルの良さはすごすぎるね」
そう言ったたゆかりが、「あ、教室に筆箱忘れた。一回戻るわ」と席を立った。
一人残された図書室で、ガラス戸の向こう側、廊下を歩く本原先生の姿が見えた。数人の男子生徒に囲まれ、真剣な顔で相談に乗っている。
(……やっぱり、頼りにされてるんだな。先生は、みんなの先生だもんね)
拗ねたような、寂しいような気持ちが込み上げてきて、香苗はポツリと独り言を漏らした。
「……私なんて、そんなに可愛くないし。スタイルだってよくないし。先生に構ってもらえるような子じゃないよね……」
「——お前は、十分可愛いぞ」
「……うわぁっ!?」
すぐ耳元で響いた低い声に、香苗は椅子から転げ落ちそうになった。図書室の片隅。ゆかりが席を外した後、入れ替わるようにやってきたのは花沢だった。
彼は香苗の向かいに座ると、机に広げられた進路パンフレットをじっと見つめ、不意に口を開いた。
「……お前、さっき自分は可愛くないとか言ってたけど。……普通に可愛いだろ」
「えっ……」
「俺、妹以外で可愛いなんて思うの、お前だけだぞ」
ぶっきらぼうに、でも誤魔化しようのない本音として放たれた言葉。香苗の顔が、先生の時とは違う、もっと純粋な気恥ずかしさで熱くなる。
「な、何言ってるの……。そんなことより、花沢くんはいいよね。医者っていう素晴らしい夢がもう決まってるんだもん。私なんて、まだパンフレットと睨めっこだよ」
驚き混じりに言う香苗に、花沢は「俺も見る」と言って、彼女のパンフレットを自分の方へ手繰り寄せた。
「え、いいよ、花沢くんは関係ないでしょ?」
「別に、見るのは楽しいし。……いいだろ、一緒に見たって」
隣に座り直し、一つの冊子を二人で覗き込む。花沢の肩が触れそうなほど近く、彼の放つ清潔な石鹸のような香りが鼻をくすぐる。
「そういえば……妹さんは、大丈夫?」
香苗が思い出したように尋ねると、花沢の表情が少しだけ曇った。
「……まー、正直だいぶ良くはないけど。でも、担当医が信頼できるいい奴だから。……なんとかなるって信じてる」
妹を想う兄の顔。その横顔があまりにも優しくて、香苗は思わず彼をじっと見つめてしまった。花沢もそれに気づき、香苗の瞳を静かに見返す。
「……お前、そんな顔すんなよ。……俺が守るから、大丈夫だ」
二人の間に、甘くて穏やかな時間が流れる。
「はーい、二人とも! 公共の場でのいちゃつきはそこまでー!」
戻ってきたゆかりが茶化すように言い放ち、三人は顔を見合わせて笑い合った。
「違うってば、ゆかり!」「あはは、花沢くん赤いぞー!」
そんな、高校生らしい眩しい光景を。図書室のガラス戸の向こう側、廊下の暗がりから、一人の男が冷徹な眼差しで見つめていた。
「やっぱお前には普通の幸せがお似合いだよな」




