第45章 それぞれの夢へと
もう寒さがなくなりつつあり、暖かさが出てきたある日、さやかに「話がある」と呼び出されて向かった、彼女の部屋。なぜか今日のさやかの表情は、どこか遠くを見ているようだった。
「……あのね、香苗。私、服がすごく好きじゃん?コーディネートするのもデザインするのもあくまで趣味程度だけど楽しんできた。でいつかはそっちの道で働きたいって、ずっと思ってた」
さやかは膝の上で手をぎゅっと握りしめた。
「実はお母さんの知り合いがパリでブランドを立ち上げたんだけど……そこに留学しようと思ってるんだ」
「え……?」
頭が真っ白になった。パリなんて、ここからどれだけ遠い場所だろう。
「それって……いつ? 高校を卒業してから?」
「……本当はそのつもりだった。でも、私が大好きなデザイナーがちょうど今パリにいるらしくて。お母さんが、その人に会えるように頼み込んでくれたの。……だから、3年生から行こうと思う」
「3年生からって……、もうすぐじゃない」
私は言葉を失った。自分はまだ、将来のことなんて漠然としたかんがえしかしてなかったのに。それに、何かあった時心の支えにしていたさやかがもう会えなくなってしまうなんて、そんなの耐えられるのかな
「……でも、山下くんは? 山下くんには、言ったの?」
一番に浮かんだのは、いつもさやかの隣で笑っている彼の顔だった。
「まだ、伝えてない」
「……そんな遠いところだともしかしたら」
私の問いに、さやかは少しだけ俯いて、寂しそうに微笑んだ。
「……別れるかもなあ、確かに山下くんのことは大好きだし、別れたくないよ。だけど……それで自分の将来を潰したら、きっと山下くんはそっちの方が嫌がると思うから」
その強さが、眩しくて、怖かった。自分の夢のために、一番大切な人との時間を切り捨てる覚悟。それは、本原先生に依存してばかりの私には、想像もできないほど過酷なものに見えた。
「山下くんは……うちの大学、バスケ強いし。そのまま内部進学で上がるって言ってた」
さやかの声は静かだったけれど、そこにはもう、揺るぎない「決別」の覚悟が滲んでいた。同じ学校の、同じ校舎にいるのに、二人の未来はもう、全く別の方向へと枝分かれしている。
さやかの家を出ると、街灯がポツポツと灯り始めていた。夕闇に溶けていく景色を眺めながら歩いていると、さやかの「別れるかも」という言葉が、呪文のように頭の中で繰り返される。自分の未来のために、今一番大切なものを手放す覚悟。
私には、そんなことできるだろうか。ふと、花沢くんの顔が浮かんだ。
「俺、妹のために医者になりたいんだ」
以前、彼が照れくさそうに、でも力強い瞳で言っていた言葉。彼はもう、自分が何のために勉強し、どんな大人になりたいのか、その設計図をしっかり手に持っている。さやかも、山下くんも、そして花沢くんも。みんな、自分の「意志」で未来を選ぼうとしている。
「……考えていないのって、私だけ?」
口に出すと、寒気がした。私は今まで、先生との甘い時間に逃げ込んで、現実から目を逸らしていただけじゃないのか。それに、私の未来にはいつも、あの人の影が落ちている。
「お父さんは、私に何をさせたいんだろう……」
厳格な父の顔を思い出すだけで、胸がギュッと締め付けられる。父の望む「正解」を歩まなければならないという恐怖と、自分の「好き」を貫きたいという小さな願い。でも、その「好き」をどう形にすればいいのかも、お父さんにどう立ち向かえばいいのかも、今の私には全くわからない。
私は、先生からもらったネックレスにそっと触れた。
「卒業するまでは待つ」と言ってくれた先生。でも、卒業した後の私には、何が残っているんだろう。先生という甘い毒に依存して、何も持たないまま大人になってしまったら、私はいつか先生にさえ見捨てられてしまうんじゃないか。
「……どうすればいいの」
誰もいない夜道で、私の呟きは風にかき消された。
冷たい風が、さっきまで感じていた先生の体温を、無慈悲に奪っていくようだった。




