第42章 揺らいで行く視界
あの一件以来、父親は私に対して以前にも増して厳しく接するようになった。そして、そんな父の様子を面白がり姉は応戦してくるようになった。成績表の数字が0.1でも下がれば、食事すら奪われる。四人で笑い合っていた放課後の勉強会も、父の命令で強制的に解散させられた。
「香苗、あんた最近体調悪そうだけど大丈夫?」
「ゆかり、うん、少し疲れが溜まってるんだと思う。次の授業の先生寝ても平気なやつ?」
「次は確か本原先生のやつだよ、あうち教科書ロッカーだわ、先行ってて」
「うん」
本原先生なら安心だ。もし国語の先生だったら少しでも眠そうにしていただけで5分は説教されるのだから、あれはきつい。
「佐倉、大丈夫か?お前最近目が死んでるぞ」
「せんせ、大丈夫ですよ」
「本当か、でも」
「心配しないでくださいよ」
「…そっか、わかった。お前がそう言うなら何もきかねーよ、だが無理してなにかあったらやだからな?」
「はい」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
午後の授業中、私は窓の外を眺めたまま意識が遠のいていた。
「……佐倉、ここを読んでみろ」
不意に飛んできた先生の声に、心臓が跳ね上がる。教卓の方を向くと、先生が冷ややかな、でもどこか心配そうな瞳で私を見ていた。黒板の文字が歪んで見える。私は立ち上がったものの、目眩でふらりと揺れた。そして意識が急激に遠のく。倒れ込んだ私を誰かが受け止める気配がした。
「……香苗っ!」
誰よりも早く、そして誰よりも切羽詰まった声で私の名前を呼んだのは、教壇にいた本原先生だった。花沢くんが駆け寄るよりも早く、先生の腕が私を抱きかかえる。
「……くそっ」
すぐそばで、花沢くんの低い、悔しげな声が聞こえた。その声は、先生に対する敗北感と、自分の無力さへの苛立ちで震えていた。
先生は私を抱えたまま、花沢くんを振り返りもせずに保健室へと走った。その背中は、教師の冷静さを完全に失っていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
保健室のベッドに寝かされ、意識が少しだけ戻ると、先生が保健室の先生と静かに話していた。
「……こいつ、大丈夫ですか?」
先生の声は、ひどく掠れていて、まるで自分の身に起きたことのように張り詰めている。保健室の先生が「ええ、ただの過労ね。少し眠れば大丈夫よ」と答えると、先生はようやく肩の力を抜いた。
先生は私のベッドまで歩いてくると、乱れた前髪を優しく払いのけ、不器用に頭をポンと叩いた。
「……しっかり休め。無茶するなよ」
その一言だけを残して、先生は保健室を出て行った。先生が廊下に出ると、そこには教室にいるはずの花沢くんが立っていた。窓から差し込む夕日が、二人の間に長い影を落としている。
「……先生、佐倉の様子は?」
花沢くんの問いかけは、教師に対する敬意よりも、一人の人間としての詰問に近いものがあった。先生は少しだけ視線を泳がせたあと、いつもの「指導する側の顔」を作って、淡々と答える。
「……ん? ああ。……ちょっと無理が祟ったみたいだな」
先生がそのまま通り過ぎようとした時、花沢くんが素早くその前に立ち塞がった。
「……先生はあいつの様子がおかしいこと気づいてましたか」
花沢くんの拳が、制服の裾の中で強く握りしめられているのがわかった。
「……そうだな、ここ最近ずっと様子がおかしかったな」
先生は眉をひそめ、冷ややかな瞳で花沢くんを見下ろした。
「知ってるなら何かしてあげてくれよな、今あいつが頼ってるのは先生なんだからすぐにでも、」
「……花沢、お前は少し、熱くなりすぎだ」
先生は足を止め、振り返らずに背中越しに言った。声のトーンはどこまでも冷静で、冷ややかだった。
「いいか、花沢。誰かが困っているとき、気づいた瞬間にすぐ気づくのは大事だ。だがな、人には、他人に聞かれたくない事情もあれば、一人で抱えておきたい苦しみもある。……お前みたいに、なんでもかんでも寄り添って聞けばいいってもんじゃないんだぞ」
「……っ!」
花沢くんが言葉に詰まる。先生は、まるで香苗の繊細な部分をすべて把握した上で、あえて「触れない」選択をしているかのような口ぶりだった。それが、花沢くんには「香苗を大切にしているのは俺だ」という無言の主張に聞こえる。
「……あんたが、佐倉の事情をわかってて、何もしてないだけなんじゃないかよ!」
花沢くんの問いかけに、先生は肩越しにちらりと視線を向けた。その瞳は、教師のそれではなく、獲物を虎視眈々と狙う雄の目だった。
「俺が何もしていないか。……それは、お前が踏み込んでいい領域じゃない。未熟な正義感で人の痛みを暴くな。……結果、あいつをさらに壊すことになるぞ」
先生はそれだけ言うと、ゆっくりと、しかし迷いのない足取りで歩き去った。
廊下に取り残された花沢くんは、その場に立ち尽くした。拳を震わせ、壁に激しく叩きつける。先生に言われた言葉の重みと、香苗ちゃんを守りたいのに、自分には何も知らない「境界線」がある




