第40章 初めての先生の家
先生の部屋は、予想通りとても綺麗でどこか落ち着く静けさに満ちていた。玄関に足を踏み入れた瞬間、ふと目に入った小さな写真立て。そこに写っていたのは、昔の先生と可愛らしい女の人。
「……これ、先生の……」
言いかけた私に、先生は脱ぎかけたジャケットを手に、ふと写真に視線をやった。
あ、というような表情の後、先生は少しだけ遠くを見るような、でも隠しきれない慈しみを込めた目で小さく笑った。
「……それな、美代っていうんだ」
先生の声には、刺々しいものは何もなかった。ただ、深く、透き通った音色が響く。
「あいつはいい女だったよ。……最高の女だった」
その言葉には、今の彼を作った全ての記憶が詰まっているようで、私は胸が締め付けられるような切なさを感じた。けれど、同時に驚いた。先生がこんなふうに笑うんだ、ということに。誰かを想って、こんなにも穏やかに、幸せそうに微笑む姿を見ていると、なぜか自分の胸の奥も、じんわりと温かくなるのを感じた。
「……適当にくつろいでくれ。お前、コーヒーか紅茶、どっちがいい?」
先生は、何事もなかったかのようにキッチンへ向かいながら、私を振り返った。その、日常に戻ろうとする先生の背中に、私は小さく「じゃあ、コーヒーで」と答える。
「……流石に、ブラックは飲めねーよな?」
そう言って先生は、少しだけ茶目っ気のある顔で笑った。私は静かに頷いた。湯気の立つ香りが部屋に満ちるまで、私たちはソファでただ静かに過ごした。先生が淹れてくれたコーヒーは、少しだけ苦く、熱かった。
「……とりあえず、今日のことはあんまりよく分からねーけど、……ゆっくり休めよ」
先生はそう言って、私の頭をポンと軽く叩いた。その手の熱さと、彼が最後に残した穏やかな言葉が、今夜の全てを物語っているようで。私は、彼がくれたこの静かな時間の中で、少しだけ呼吸ができるようになった気がした。
部屋の明かりは少しだけ落とされ、窓の外には遠く街の灯りが滲んでいる。コーヒーの香りが二人の間を穏やかに満たしていた。
「先生は、いつも私が辛い時や、逃げ出したくなる時、決まってそばにいてくれますね」
窓の外を見つめていた先生は、私の言葉に小さく肩をすくめて、苦笑いのように口角を上げた。
「……そうだな。なぜかいるよな、俺。……お前のそばに」
先生のその何気ない言葉が、心臓をトクンと鳴らした。私はカップを持つ手に少しだけ力を込め、勇気を出して聞いた。
「……先生は、私のこと、大切ですか?」
先生の瞳が、ふっと私に向けられた。彼はカップを置いて、迷いなくまっすぐに見つめ返してくる。
「……ん。そんなん、当たり前だろ」
その言葉には、一切の迷いがなかった。それがかえって、私の胸をより一層強くかき乱す。
……でも。今のこの関係は、特別なの? それとも、ただの教師としての責任?
「……あの、先生」
「ん?」
「……少しだけ、私のことを他の誰よりも、他の生徒よりも大切にしてくれてますか?」
喉の奥が熱くなる。言いたくなかったはずの言葉が、自分でも驚くほど素直に零れ落ちていた。先生は一瞬だけ目を細め、何かを懐かしむように、それから愛おしむように、私の顔をじっと見つめた。
「……なんだよ。……まぁ、そうだな」
先生は少しだけ視線を逸らし、それから小さくため息をついて、私の頭をそっと撫でた。
「……お前のことはなんだかほっとけない。守らなきゃって、思う。なんだかお前は美代に似てるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、私は息を呑んだ。嫉妬や、ショックよりも先に、「あぁ、だからか」という納得が先に立つ。先生が私に向ける、この隠しきれない柔らかさ。それは、彼がかつて愛した女性の面影を、私の中に見ていたから……。
「似てる、からですか?」
私の問いに、先生は何も答えなかった。けれど、その大きな手が私の頬に触れ、ゆっくりと親指で目尻をなぞる。彼の瞳は、美代さんを見ていた時と同じ、優しくて、どこか切なそうな、それでいて私だけを捉えて離さない熱を帯びていた。
「……似てる。だけど、今はもう、お前はお前だ」
先生の声が、耳元で低く響く。美代さんという過去の影が、今の私たちを包み込んでいる。けれど、先生の手の温もりは、紛れもなく「今の私」に触れている。
「……先生」
名前を呼ぶと、先生はふっと表情を緩め、私を引きよせるようにして、静かに抱きしめた。美代さんへの想いさえも抱えたまま、彼は今、私を抱きしめている。それが、どんなに切なくても。今の私には、この胸の鼓動だけが、何よりも確かな真実のように思えた。だけどそれと同時になんとも言えない不安がある。




