第39章 温もりと安心できる場所
お手洗いから戻ると、静かに席についた。先生が、先生の体があの女の人に触れられていた。別に私のものではないことはわかっているのに、すごく嫌な気持ちだ。「香苗、なぜ険しい顔をしているのだ、しっかりしろ」
「…」
今、私はとても機嫌が悪いのだ。こんなわけのわからない場所へ連れ出されて、その上せんせのあんなところを見たくなかったのだ。
「まあまあ、そう怒らずに」
「こいつは、あれなんですよ、長女の明日美とは随分と出来が違くて本当にねえ。うちの香苗とは違って俊哉さんはすごいですよねえ、なんてったって日本一頭のいい大学を出られてるんですから」
「そんな、たいしたことないですよ」
なんの不自由もない、恵まれた環境で育って、それでいて何もかも完璧だなんて確かにすごい、けどだからって好きになるわけではない。それに彼の笑顔はなんだか少し不気味だ。
「…香苗さんつまらなそうですね、僕と外へは行きませんか」
婚約者の青年が、私の肩に手を置こうとした瞬間、脊髄反射のように体を引いてしまいました。その拒絶はあまりにも露骨だった。
「……っ、触らないで!」
私の叫び声が会場に響いた直後、激しい衝撃が頬を打った。
「貴様、何をしている! 親の面子を潰す気か!」
あまりの怒りようと暴力に、会場は水を打ったように静まり返り、周囲の客たちは困惑した表情で私たちを見つめている。父の歪んだ顔、自分に向けられる冷ややかな視線――私は自分がとんでもないことをしてしまったと悟り、ドレスの裾を掴んでその場から駆け出した。
心臓が早鐘のように打ち、涙で視界が歪んだ。どこへ行けばいいのか。家には戻れない。今私が行くべきところなんてあるの?
ホテルの裏口へ向かう暗い通路で、息を切らして立ち止まったとき、聞き慣れた低い声が私を呼び止めました。
「香苗」
振り返ると、そこにはネクタイを少し緩めた先生が立っていた。私を見るなり、すべてを察したように溜息をつき、静かに歩み寄ってきました。
「……お前、様子がおかしかったからな。ずっと見ていたんだよ」
父の冷酷な言葉も、周囲の蔑むような視線も、すべてを飲み込んでくれていたかのようなその瞳。私は震える体を抑えきれず、先生の胸元に崩れ落ちました。先生は、泣きじゃくる私の頭を大きな手で包み込みました。
「……逃げ出すか、俺と」
その言葉は、今の私にとってあまりにも甘くてそして残酷だった。私は何も答えられず、ただ先生のシャツを握りしめて頷いた。先生は私の肩を抱き、そのまま人目を避けるようにホテルの外へと連れ出してくれた。




