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第38章   婚約者

 最近、父親の機嫌がとてもいい。父親の機嫌がいいからと言って、私は別に嬉しいわけではないが、怒鳴られる恐怖がないのでストレスがない。どうやら今夜重要な食事会があるらしく、そこで父親は何かを企んでいるらしい。

「香苗、今夜の食事会は重要だ。絶対に遅れるな」

 父親のその言葉に、有無を言わせぬ圧があった。部屋には見たこともないほど豪華なワンピースと、重厚な輝きを放つネックレス、そして足元を締め付けるヒールが用意されていた。

 鏡の中に映る自分は、まるで誰かの所有物みたいだ。

――嫌な予感がする。ここから逃げ出さなきゃ。

 私は部屋を飛び出した。けれど、廊下の角を曲がったところで、父の部下である冷徹な男たちに行く手を阻まれた。

「お嬢様、戻ってください。ここで逃げ出せば、お父様からの信用は二度と戻りませんよ」

 脅しではない。彼らの目は、私を「商品」としてしか見ていない。逃げ場はなかった。私は震える足で、用意されたヒールに足を通した。連れてこられたのは、都心にある格式高い高級ホテルだった。

 シャンデリアの光が眩しすぎて、吐き気がする。私はただ、父の背中について歩くだけの人形になった。ロビーの喧騒の中、誰かがすれ違った。ふと、微かに懐かしいような、私の好きな香りがして、振り返ろうとする。

「……佐倉か?」

 背後で誰かが驚いたような声を上げた。私が今会いたくてたまらない声だった気がした。でも、私は立ち止まれない。振り返ったら、この仮面が崩れてしまう。私はただ真っ直ぐ前を見据え、自分の意思とは無関係に、父の待つ宴の会場へと足を早めた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「こちらが、次女の香苗です」

「これはこれは、大きくなられて、お久しぶりですね、香苗さん」

「お久しぶりです、北村様」

 不思議だ。なぜこの大切な場所にお姉ちゃんがいないのだろうか。父親が最も愛しているのは、手をかけているのはお姉ちゃんだというのに。

「香苗、お前どうして明日美がいないんだと考えているだろ」

「…ええ、なぜおられないのですか?都合が合わなかったのでしょうか」

「いいや、お前が今日の主役だからさ」

 父親の言葉に疑問を感じていると、急に1人の青年がやってきた。

「こちらが、香苗の婚約者だ」

「……どういうこと?え?」

  戸惑う私に、父は冷笑を浮かべた。

「あいつ(姉)にはもう他所への道がある。香苗、お前には家のために役立つチャンスが今しかないんだぞ」

「役立つチャンス……?」

 私は道具じゃない。耐えきれなくなって椅子を蹴り上げると、背後から父の低い声が響いた。

「逃げ出してみろ。お前という人間が、外の世界でどう扱われるか……痛いほど教えてやる」

 心臓を握りつぶされるような恐怖。私は震える声で「……お手洗いに行くだけです」と偽り、宴会場を飛び出した。廊下を駆けるヒールの音が、自分の心細さを強調する。その時、角で誰かとぶつかりそうになった。

「……随分と綺麗な格好をしているな、佐倉……綺麗だぞ」

 目の前には、見慣れた先生がいた。理科準備室の先生ではない。高級なスーツを纏い、ホテルの空気と同化した「大人の男」としての本原先生。

 その言葉は嬉しかった。でも、同時にこの場にいる自分の惨めさが込み上げ、息が苦しくなる。

 その時だった。流れるような所作で、妖艶な美女が先生の腕に絡みついた。わざとらしく体を密着させ、甘ったるい声で囁く。

「ひろくんてば。これからがお楽しみなのに、どこに行くの?」

「……わかってる。すぐ戻るよ」

 先生は私の視線など気にも留めないかのように、その女性を宥めた。その光景を見て、私は自分がどれだけ先生にとって「遠い存在」だったのかを思い知らされる。喉の奥が熱くなる。

「…お楽しみって、せんせ」

 まさか、先生はこの人を今から抱くのだろうか。考えたくなんてない。けど、先生のことだ。とてもモテるに決まっている。女性なんて選び放題だろう。

「……先生、その人は、恋人ですか?」

 震える声で問うと、先生はわずかに眉を寄せ、呆れたように笑った。

「いや、別に。ただの知り合いの女だ」

「……そう、なんですね」

 知り合い。ただの知り合いに、あんな風に腕を掴ませるの?先生の言葉は本当かもしれない。でも、先生が纏うその「知り合いと遊ぶ大人の余裕」が、私には何よりも遠く、冷たく感じられた。

 私は複雑な感情を飲み込み、逃げるようにお手洗いに向かった。指先が氷のように冷たい。私はもう、誰のものにもなれないまま、ただこの檻の中で朽ちていくしかないのだと悟った。

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