第36章 真実を知る夜
賑やかな夕食と入浴を終え、ドライヤーの関係でゆかりよりも早く部屋へ戻る途中、廊下で花沢くんに会った。
「佐倉、喉乾かない? 俺、自販機行くけど一緒に行く?」
そんな他愛ない会話と、自販機の光に照らされた花沢くんの横顔。けれど、香苗の心はどこか上の空だった。
「えっとそろそろ部屋戻るね、ゆかりが心配してるかもだし」
そう言って急いで部屋に戻ると、ゆかりは疲れていたのかもう寝てしまっていた。特にすることがないので寝ようかと試みたが、なかなか寝付けない。
真夜中。静まり返った廊下を抜け、外へ出る。京都の夜風は少しだけ冷たくて、火照った肌に心地よかった。
「……気持ちいいな」
誰もいない静寂の中で深呼吸をした、その時だった。
「お前、こんな時間に外なんかで何してる。寝てなきゃダメだぞ」
背後から聞こえた低い声に、香苗は肩を震わせた。振り返ると、そこにはお風呂上がりの先生が立っていた。
濡れた髪を軽く拭きながら、浴衣の襟元が少しはだけている。普段の教師としての隙のない姿とは違う、無防備で、あまりにも色っぽい先生の姿。
「ご、ごめんなさい……ちょっと風に当たりたくて……」
謝りながらも、香苗は視線を外せなかった。色気と、夜の湿り気を帯びた先生の佇まい。見惚れる香苗の瞳に気づいたのか、先生はふっと意地悪な笑みを浮かべた。
「ん? どうした? そんなに見つめて……顔、赤いぞ」
「な、なんでもないですよ!」
動揺してむきになって言い返すと、先生はクスリと笑い、さらに距離を詰めてきた。二人の顔が、驚くほど近い。先生の体温と、かすかな石鹸の香りに包まれる。
心臓の鼓動が耳元で鳴り止まない。先生が香苗の唇に手を添えて、見つめてくる。
距離がゼロになる――そう思った瞬間。
ガサリ。
廊下の向こうから、誰かの足音が近づいてきた。
先生はすぐさま表情を殺し、香苗から一歩距離を取る。
「……誰か来るな」
そう言い残して、先生は夜の闇へと消えていった。
残された香苗は、自分の唇をそっと指でなぞりながら、まだ残っている先生の熱を感じて立ち尽くすしかなかった。先生が去った直後、廊下の角から現れたのは長嶋先生だった。
彼は先生が去った方向をちらりと見やり、ニヤリと笑った。
「お前、あいつとやっぱ随分と仲がいいんだな。……おい、もしかして惚れてるのか?」
唐突な問いに、香苗は心臓が跳ねた。
「え……っ、そんな……! ……あの方は奥様もいらっしゃるし、最初から、叶わないってわかってますから」
香苗が言いかけて、止まる。長嶋先生の表情が、ふっと真面目なものに変わったからだ。
「……あいつには奥さんなんていないぞ」
「え……?」
思考が停止する。香苗の困惑をよそに、長嶋は静かに続けた。
「……あいつに大切な人がいたのは事実だ。でも、もうこの世にはいない。二年くらい前にな」
頭の中が真っ白になる。あの日、先生が指輪を外し、切なそうに、けれど愛おしそうに見つめていたあの横顔が、鮮明に脳裏に蘇った。
やがて、遠くからこちらへ戻ってくる足音が聞こえた。先生だ。彼は香苗の姿を見て足を止めた。長嶋と香苗の張り詰めた空気を感じ取ったのか、先生は少しだけ苦い顔をしてため息をついた。
「…おい、直哉余計なことを言うな」
「別にいいだろ。……おいひろ、こいつには話してやれよ」
先生は静かに視線を香苗に落とした。その瞳には、今まで見たこともないような深い哀しみが宿っていた。
「……そうか。まあいい。……厳密に言うと、婚姻届を出す前の『婚約者』だったんだ。籍を入れる直前に、あいつは逝っちまったからな」
先生は遠い目をして続けた。
「あいつと以外に結婚する未来なんて、俺には見えなかった。……あいつが亡くなる前、俺にこう言ったんだよ。『幸せになって欲しいから、他の人と私が死んだ後に結ばれて欲しい。だけど、だけど次に誰か好きな人ができるまででいいから、私結婚する前に多分亡くなっちゃうけど奥さんだってことにして?』ってな」
夜風が、先生の浴衣を揺らす。先生はポケットから綺麗な石を手に取るとそれをじっと見つめていた。それは、二人が結ばれるはずだった未来を示していたはずのものだった。何も声をかけることなんてできず静かに涙を流していた香苗は自分の無力感を感じるしか他なかった。




