第32章 先生のカコ
煙草の煙が、夜の静寂に溶けていく。本原は灰皿に火を押し付けながら、かつて愛した女性、彼が「救い」と呼び、同時に「呪い」と化した存在――の記憶を反芻していた。
俺たちは違う世界の人間だった、と思っていた。
俺がいた世界はあまりにも汚くて、暴力と怒号が当たり前のように日常を侵食していた。明日死んだとしても、誰も気づかないだろう――そんな虚無の中で、ただ喧嘩ばかりしていた。人生なんてどうでもいい。死ぬ以外なら、どんな痛みでも受け入れてやる。そうやって、己を擦り減らすことだけに生きていたんだ。
そんな俺の前に、彼女は現れた。最初は、ただ眩しいだけの存在だと思っていた。あいつと出会ったことで、俺は初めて世界に色があることを知ったんだ。あんなにも心温かい人間が、下心なんて微塵もない人間がいるなんて、夢にも思わなかった。
(……あいつ自身、めちゃくちゃ恵まれた家庭で育ったんだろうな)
俺はそう思い込んでいた。自分とはあまりにかけ離れた、陽だまりのような人間だったから。
だが、事実は違った。
あいつは、いわゆる施設育ちだった。本当は、実の親から虐待を受け、毒を吐かれ、最終的には捨てられたはずなんだ。それなのに、あいつは一度も親を憎まなかった。「仕方ないんだよね、親もきっと辛かったんだよ」なんて、笑ってそう言った。
自分を傷つけた人間にさえ、そんな優しさを向けられるのかと、俺は愕然とした。彼女の抱える痛みが、俺が味わってきた泥のような痛みとは全く違う、透明で、それゆえに鋭い痛みだと知った時、俺の空っぽの胸に初めて「守らなきゃいけない」という熱が生まれたんだ。
「……お前どうしてそこまで俺に構うんだ?友達にも色々言われてるんじゃあねえか?」
当時の俺には、それがどうしても理解できなかった。俺は泥の中にいて、あいつは光の中にいた。俺には、あいつの純粋さを傷つける権利も、並んで歩く資格もないはずだったのに。
「捨てられた猫みたいに、可哀想だからか?」
何度、そう自分に問いかけたかわからない。
「人は誰にだって幸せになる権利がある、そう思わない?」
あいつはいつも、俺の孤独をそうやって勝手にすくい上げて、笑っていた。俺がどれほど汚い言葉を吐いても、どんなに荒れた生き様を見せても、あいつはただ隣にいてくれた。俺を『可哀想な獲物』として慈しんだのか、それとも本気で俺という人間を愛してくれたのか、今となっては確かめる術もない。
あいつの優しさは、あまりに無防備で、あまりに危うかった。毒親に捨てられ、誰にも愛されずに育ったあいつが、それでも愛を信じようとした。その姿が、当時の俺には神々しく見えたし、同時に、どうしようもなく苛立たしかった。そして、俺が自分の過去の汚さに耐えかねて、あいつを突き放そうとした日のことだった。
激しい雨の中、あいつは傘もささずに俺の背中に飛びついてきた。華奢な腕が俺を壊れ物のように抱きしめ、熱い体温が、冷え切った俺の心を無理やりこじ開けたんだ。
俺は自分を、誰よりも卑劣な人間だと思っていた。
だが、その事実は、俺が隠していた「ある光景」に起因していた。
あいつと出会うずっと前、俺は小さな子供が川に落ちる瞬間を目の当たりにしたことがある。
増水した濁流の中で、必死にもがく小さな手。俺は、その場から動けなかった。恐怖だったのか、それとも自分の人生なんてどうでもいいと投げやりになっていたせいか……俺はその光景を、ただ石のように硬直して見つめていただけだった。
結局、子供は通りすがりの別の男に助けられた。俺は何もしなかった。ただ、泥の中で冷たい雨に打たれながら、自分の臆病さと無力さを、その時初めて悟ったんだ。
その日から、俺の心にはずっと重い澱が沈んでいる。「俺は、他人の命もすぐに救えない価値ものない人間だ」という呪い。
だからこそ、あいつの無償の愛に触れたとき、俺は恐怖した。こんなに汚い人間を、あいつはどうして――。
「あなたは優しいよ。……だって、あの時、泣きそうな顔でそこに立っていたでしょう? 助けられなくて悔しくて、震えていたでしょう?」
あいつは、全てを見抜いていた。俺が川べりで絶望していたあの日の姿を、あいつはどこかで見ていたのかもしれない。あるいは、あいつには俺の心の傷が、あけすけに見えていたのか。
「あなたの優しさはね、誰かを救うことだけじゃない。自分の痛みを知っているから……そうやって、誰かの痛みを受け止めようとできることだよ」
雨の冷たさなんて忘れるほど、あいつの抱擁は温かかった。
「……なぜ教師なんかに。自分でも笑えるよな。
汚い世界で死ぬことばかり考えてた人間が、未来を語る職業に就くなんて。」
でも、あの時……雨の中で抱きしめてくれたあいつが言ったんだ。『あなたの手は、誰かを突き放すためじゃなくて、誰かを掴むためにあるんだよ』って。俺は昔から汚い大人ばかり見てきたから、純粋な子供相手の方が向いていると感じで今教師をしている。
「俺もお前と一緒に死にたかったのになあ」
ふと1人になると考えるんだ。俺はお前なしなのに生きている価値があるのかって、だけど早く死んだりしたら許してくれねーだろうからなああいつ




