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第31章   そろそろいいのか

 2人の視線が絡み合う。先生の指先が、香苗の震える唇をゆっくりとなぞる。その指の温度だけで、思考が真っ白に塗りつぶされていく。

「……随分と慎重だな、佐倉」

 低く掠れた声が、香苗の心臓を締め上げる。先生は唇を奪うかと思わせる距離まで顔を近づけながら、あえてそこで動きを止めた。

「……今の段階で、お前がその気になっても困るんだよ。俺は、お前を壊したくないからな」

 その言葉に、香苗は悔しさと、それ以上に甘い痺れを感じて先生のシャツを強く握りしめた。先生を困らせたい。私だけを見てほしい。そんな幼稚な独占欲が、胸の奥で渦を巻く。

「……先生やっぱり私」

 香苗の小さな呟きが、静かな夜の道に落ちた。その瞬間、本原の瞳から教師としての理性が完全に消え失せた。彼は香苗の背中に回していた手に力を込め、逃げ場のない距離まで引き寄せる。

「……お前、自分が何を言ってるか分かってるのか?」

 獣のような眼差しに、香苗は息を呑む。本原はその顎を強く固定したまま、逃がさないとばかりに唇を近づけた。

「……俺だって一人の男だ。お前みたいに可愛いやつに、真っ直ぐ見つめられて、その気にさせられたら……そう簡単に逃がしてやれねえよ」

 唇が触れる――そう思った。香苗が思わず目を閉じ、期待で全身を強張らせた瞬間。本原は香苗の鼻先で止まり、嘲るように低く笑った。

「……大人をあんまり揶揄うなよな」

 本原は香苗の顎から手を離すと、そのまま何事もなかったかのように歩き出した。

 帰り道で香苗を突き放した後、本原は帰宅し、冷え切った自室の灯りをつけた。

 静まり返った部屋。本原はデスクの引き出しから、古びた写真立てを取り出した。そこには、眩しいほどの笑顔で寄り添うかつて愛していた1人の女性の姿がある。

――ねえ見て見て、すごくない?

――……何がだ?

――もう、私の面白いモノマネだよ!

 ふざけて変顔をする彼女に、本原は声を上げて笑った。あんな風に、心から笑うことなんて、もう何年もなかった気がする。

 辛いことがあれば、すぐに彼女が気づいて「私がいるよ」と隣に座り、ただ静かに寄り添ってくれた。あの日々の暖かさが、今の本原を支配する孤独をより鋭く貫く。

「もう亡くなって2年近く経つのか」

 本原は冷めた昨日の夕飯の残りの温め直しただけの夕食を口に運んだ。やがて彼は疲れ果ててソファでまどろみに落ちた。夢の中は、柔らかな陽光に包まれていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 かつて一緒に過ごした部屋。彼女は、本原が差し出した花束とネックレスを手に、子供のように無邪気に喜んでいた。

「今日はお前の誕生日だろ、お前が大好きな白い薔薇の花と、欲しがっていたネックレスだ」

「わー、綺麗……ありがとう」

 鏡越しに合わせるネックレス。彼女は本当に幸せそうに笑っていた。だが、不意に彼女の表情から温度が消え、彼女は静かに本原の手を握った。

「……ねえ、もう私のことはいいんだよ」

 その声は、優しく、そしてどこまでも遠かった。

「十分、幸せにしてもらったから。だから……もう、私のことはいいから」

「よくねえだろ、お前何言ってんだよ」

「あなたがその気になれば簡単に彼女なんてできるし、幸せになって欲しいのよ」

「ま、待ってくれよ、おい」

 彼女は背を向け、光の中に消えていく。本原は彼女の手を掴もうと伸ばしたが、その指先は虚空を掻くだけだった。

 目覚めると、部屋は闇に沈んでいた。

 汗をかいた肌が冷たい空気に触れ、本原は荒い息を整える。亡き彼女の最後の一言が、心臓を針のように刺していた。

(……俺は、前に進まなきゃいけないのか)

 暗闇の中で、本原は自分の手を見つめた。そして、静かに涙が流れていた。

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