第30章 試験結果と焦り
廊下の掲示板には、この前のテストの順位表が貼り出されていた。休み時間にもかかわらず、その前は人だかりができている。
「うわっ、今回も花沢かよ! 学年1位!」
「また満点近いな。お前、いつ勉強してんだよ?」
掲示板の真ん中で、学年トップの証である「花沢螢一」の名前を囲み、クラスの男子たちが笑いながら彼を肩を叩く。
「まあ普通につーか」
「すごすぎだよなあ、元が違いすぎて嫉妬もなんもねーわ」
花沢くんは、いつものように爽やかに笑って首をすくめている。まるで順位なんて興味がないと言わんばかりの、余裕のある態度だ。その周りには、彼のスマートな立ち居振る舞いに見惚れる女子たちが、「ねえ花沢くん、ここどうやったの?」とキラキラした視線を送って集まっている。
香苗は人だかりの端っこで、自分の順位を確認していた。
――いつもより、順位が落ちている。
心臓がキュッと冷たく縮む。母の顔が浮かぶ。怒鳴られるのではないか、また過干渉に管理されるのではないかという不安が、じわりと手のひらから汗を誘った。
「……香苗、大丈夫?顔真っ青だよ」
「ゆかり、ゆかりはどうだった?」
「うちは特に変わらず平均かなあ、うちは親別に平均取れればなんも言わないし」
「そっか、」
そう言って立ち去ろうとしたとき、肩越しに冷たい視線を感じた。
廊下の角、職員室から出てきた本原先生が、人だかりの中で楽しげに笑う花沢くんと、居心地悪そうに立ち尽くす香苗を、じっと見下ろしていた。
「……佐倉」
先生は香苗の顔をじっと見つめると、少しだけ眉をひそめた。
「そんなに顔を真っ青にして、どうした。テストの順位くらいで死ぬわけじゃないだろう。……そこまで悪い点数でもないはずだ」
先生の淡々とした言葉に、香苗は「……っ」と息を呑む。
テストの結果そのものよりも、これから待ち受けている母親の執拗な追及や、失望したような冷ややかな視線を想像して、香苗の喉元が熱く締め付けられる。
「……ごめんなさい、私……本当に、どうしよう……っ」
うまく言葉にならないまま、香苗の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。先生は小さく溜息をつくと、歩み寄ってきて香苗の肩に手を置いた。その手は厳しく冷たいようでいて、震える香苗を支えるには十分すぎるほど強い熱を持っていた。
「……何か、あるな。お前の顔を見ていればわかる。……こんなところで話す内容じゃなさそうだが」
先生は周囲の教員や生徒を一度見回すと、香苗の肩を軽く叩いた。
「放課後、少し時間が取れるか? 帰りながら話を聞いてやる」
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そして放課後。
静まり返った校門を抜け、夕暮れに染まる帰り道を二人は並んで歩いていた。香苗はポツリポツリと、家での母親の厳しさや、自分の順位が下がることへの言いようのない恐怖を、先生に打ち明けていた。
先生は時折、短く相槌を打ちながら聞いていたが、ふと足を止めて香苗を見下ろした。
「……そういえば、佐倉」
先生は少し遠くを見るような目で、香苗の言葉を遮るように続けた。
「前も、お前がひどく泣いていたことがあったな。……あの時も、家のことだったか?」
それは、香苗がこれまで誰にも見せず、ひた隠しにしてきた脆い部分だった。先生のその問いかけは、まるでずっと前から香苗のことを見ていたかのような、静かで、しかし逃げ場を奪うような響きを含んでいた。
息を切らしながら、香苗は堰を切ったように話し続けた。周囲には「あまり仲が良くない」とは伝えていたが、ここまでひどく悲しい家庭の現状をさらけ出したのは、本原先生が初めてだった。
語り終えると、自分でも驚くほど胸が軽くなったと同時に、強い恐怖が襲ってきた。
(なんてことを……いつもこんな姿ばかり)
香苗が俯いて震えていると、先生は足を止め、深く溜息をついた。その溜息は、教師としての指導ではなく、もっと人間臭い、重苦しい響きを持っていた。
「……こんな話、俺にしても何も解決しないかもしれないが」
先生は静かに振り返り、香苗を正面から見据えた。その瞳には、いつも隠しているはずの、鋭くもどこか哀愁を帯びた熱があった
「こんなこと、俺が言っていいのかわからねえが……何かあったら、俺のとこに来いよ」
それは命令でも提案でもなく、ただの「逃げ場所の提示」だった。香苗の心に、堰き止めていた温かい何かが溢れ出す。
「……先生、私いつも情けないとこばかり見せちゃって、なんか」
うまく言葉にできない。どうしたらうまく伝わるのだろうか
「生徒なんざまだ子供だろ?甘えときゃいいんだよ、それに女の弱いところ見せられて嬉しくねー男なんかいねーよ?」
言葉にならず、香苗は衝動のままに一歩踏み込んだ。
先生の背中は、思っていたよりも広く、そして冷たく硬かった。香苗は、そのまま先生の背中にそっと額を押し当て、先生の腰に腕を回して抱きしめた。
「……っ、先生……」
香苗の指先が、先生のスーツの生地をぎゅっと掴む。
先生は一瞬、身体を硬直させた。抱きしめ返してはくれない。けれど、突き放されることもなかった。
「……佐倉、お前自分が何してるのかわかってるのか?」
自分でも大胆なことをしている自覚はある、でももうどうしようもなく、この鼓動を抑える方法なんてなかった。




