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第21章   見てしまった

 窓の外は、朝からしとしとと降り続く雨。

 湿った空気のせいか、それとも最近の心のざわつきのせいか、なんだか気分までどんよりと沈んでしまう。

「香苗、お昼食べに行こ?」

「……うん、そうだね」

ゆかりに誘われ、私たちは中庭が見えるカフェテリアの窓際でパンを広げていた。

雨に濡れる紫陽花をぼんやりと眺めていた、その時。

「……え?」

私の視界に、意外すぎる光景が飛び込んできた。

中庭の隅、雨を避けるための小さな軒下。

そこに、あのワイルドな本原先生が、スーツの裾が濡れるのも構わずにしゃがみ込んでいたのだ。

「先生、何してるんだろ……あ、見て! 猫!」

 ゆかりが指差した先。先生の足元には、一匹の小さな野良猫が。

先生はふにゃりと目尻を下げて、大きな手で優しく猫の喉元を撫でていた。

「よしよし、お前も雨宿りか? 風邪引くなよ」

あんなに愛おしく猫に話しかけている。その仕草があまりに無邪気で、可愛らしくて。

「……ふふっ、先生、かわいい」

気づけば、私の唇からは自然と笑みがこぼれていた。

さっきまでの暗い気分が、魔法みたいにパッと晴れていく。

「おいおい、これは俺の大事なものなんだぞ?」

 何かあまり見えなかったが、どうやら猫が先生の大事なものに猫パンチでもしようとしたのかな。

(……先生に、お疲れ様ですって言いに行こうかな)

勇気を出して立ち上がろうとしたけれど、すぐにその足は止まった。

「先生!」「本原先生、何してるんですかー!」と、どこからか現れた他の生徒たちが、一気に先生を取り囲んでしまったから。

「おわっ、お前ら……猫が驚くだろ。ほら、散った散った!」

 笑いながら生徒たちと戯れる先生。その中心には、私の入る隙間なんてどこにもなかった。

 結局、一言も交わせないまま午後の授業が終わり、私は重い足取りでゆかりと下校の途についた。

「香苗、元気ないね? ……あ、雨強くなってきた」

「……あ! ごめんゆかり、私、教室に定期忘れてきた!」

「えーっ、もう。校門で待ってるから早く行きなよ?」

 ゆかりに手を振って、私は一人、薄暗くなった校舎へと引き返した。

 放課後の廊下は、雨音の反響で妙に静まり返っている。自分の教室の前を通り過ぎ、職員室近くの廊下に差し掛かった、その時。

「…………」

 窓際に、一人の人影が立っていた。

 本原先生だ。

 でも、昼間に見た「猫と遊ぶ優しい顔」とも、授業中の「快活な顔」とも、全然違う。

 先生はただ一人、土土降りの雨が叩きつける窓の外を、吸い込まれるような虚無の瞳で見つめていた。

 その背中には、目に見えるほどの色濃い孤独が張り付いている。

 先生の指先が、窓ガラスにうっすらと浮かぶ自分の影をなぞる。そして、静かに涙を流していた。あまりにも美しい涙で、思わず見入ってしまった。

(……何が、そんなに悲しいの……?)

 どうして?幸せな人のはずなのに。

 そう思って動けずにいた私の視界の中で、先生がゆっくりと左手を持ち上げた。

 節の太い、男らしい指。その薬指には、いつも鈍い光を放つ銀色の指輪が嵌まっている。

先生はそれを愛おしそうに、けれどひどく苦しそうに指先でなぞると、意を決したようにゆっくりと、関節を滑らせて抜き取った。

「…………」

外された指輪が、先生の手のひらで頼りなく転がる。

先生はそれを、壊れ物を扱うような手つきで握りしめると、窓の外に向かって消え入りそうな声で呟いた。

「……そろそろ、お前のこと、忘れなきゃいけないのにな……」

その一言が、雨音に混じって私の耳に届いた。

(……え?)

 心臓がドクンと跳ねた。

 お前のこと、忘れなきゃ——。

 奥さんがいるのに、忘れなきゃいけないって、どういうこと?

 もしかして、奥さんと何かあったの?

 それとも、他に忘れられない誰かがいるの?

 先生の言葉の意味が分からなくて、頭の中がパニックになる。

だけど、一つだけ分かったことがある。

 先生が今泣きそうなのは、その「お前」という人のことが、今でもたまらなく愛しくて、離したくないからなんだ。

(……ずるいよ、先生)

 指輪を外したはずの先生の薬指には、そこだけ日が当たっていないみたいに、白い跡がくっきりと残っている。

 その跡が、先生がどれだけ長い間、その人を愛し続けてきたかの証明みたいで、胸がキリキリと痛んだ。

「……っ」

私はそれ以上見ていられなくて、廊下を音を立てないように引き返した。

「忘れなきゃ」なんて言っているのに、先生の背中は、世界中の誰よりもその人のことを想っているように見えたから。先生はあれから私のことを見かけるたびに色々話を聞いたくれたり気にかけてくれたのに私は何もできないのかな

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