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第20章   先生?

「……っ、もう無理!!」

 思い出して、香苗はバッと両手で顔を覆った。泣きじゃくって先生のシャツを汚したこと。子供みたいに縋ってしまったこと。

 思い出すたびに、指の隙間から火が出そうなくらい顔が熱くなる。

(どうしよう、今日からどんな顔して本原先生に会えばいいの……)

 今までだって、先生のことは「教え方が上手くて、生徒思いな良い先生」だと思っていた。でも、昨夜のあの包容力は、そんな「良い先生」という言葉だけじゃ全然足りない。

 あの迷いのないエスコートも、絶望を包み込むような静かな優しさも、あまりに「大人」として完成されすぎていた。

(……そりゃあ、あんなに素敵な人なんだもん。奥さんがいるのも、当然っていうか……むしろ、納得だよ)

 独身でフラフラしているような軽さは微塵もない。あの安定感も、落ち着いた物腰も、きっと守るべき家族がいて、誰かを愛してきた積み重ねがあるからこそなんだろう。

「……うん。そりゃあ、既婚者だわ。うんうん」

 自分に言い聞かせるように小さく呟いて、ふぅ、と深く長い溜息を吐いた。かなりの愛妻家でもあるらしい。どうやら子供はいないようだが。

「おはよー香苗。……って、何その何とも言えない顔」

 横からゆかりがひょいと覗き込んできた。香苗は慌てて、赤くなっている頬を両手で叩く。

「お、おはよう……。ちょっと、考え事」

「ふーん? ……で本当は?」

「………実は」

 香苗は、昨夜の詳しい事情は伏せながらも、ぽつりと言葉をこぼした。

「普段からいい先生だとは思ってたけど、あんなに……なんて言うか、器が大きい人だなんて思わなかった。……改めて、かっこいい先生だなって」

「へぇー、本原先生が? まああの人のこと嫌いって人聞かないよね、なんていうか大人の余裕がたまらないよね、あれで独身なら世の中の女性みんなほっとかないでしょうねえ」

「……だよね。本当、そう思う」

 細身の花沢とは違い筋肉質で割とガッチリした身体で花沢とはまた違った色気とそしてあの大人の余裕。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 昼休み、廊下を歩いていた私の足が、ふと止まった。

前方で、男子生徒たちの騒がしい笑い声が響いている。その中心にいたのは、本原先生だった。

「先生、今のマジ!? ありえねー!」

「ははっ、嘘だと思うなら今度試してみろよ。ほら、次は移動教室だろ。さっさと行け」

 男子たちの肩を叩いたり、わざと頭を小突いたりして笑い合う先生。ほんとに人気者なんだなあ。

 昨夜のあの、暗闇の中で私を包み込んでくれた「静かで落ち着いた大人」の顔とは全然違う。まるで兄貴分みたいに快活で、誰からも慕われる、眩しいくらいに「先生」な姿。

(……あんな風に笑うんだ)

 男子たちと戯れるその無防備な笑顔を見て、胸がキュンと鳴った。なんか、可愛いな先生。

「あ……」

 男子たちが去り、先生と目が合った。昨夜の失態を思い出して、反射的に逃げようとした私の背中に、あの低い声が届く。

「佐倉」

 名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。先生はいつもの飄々とした歩き方で、こちらに近づいてくる。

「せ、先生……。お疲れ様です」

「ああ。……昨日は、あの後ちゃんと眠れたか?」

 先生は周りに聞こえないような小さな声で、でもどこまでも優しく私を覗き込んだ。その瞳には、昨夜と同じ「私を心配してくれている」温かな色が宿っている。

「……はい。おかげさまで、ぐっすり眠れました。昨日は、本当に……その、ご迷惑をおかけして……っ」

「迷惑なんて一度も思ってないって言っただろ。……まだ少し目が赤いな。あんまり根詰めて勉強するなよ。お前が倒れたら、俺が悲しいからな」

 さらりと、でも真剣なトーンでそう言って、先生は私の肩を一度だけ軽くポンと叩いた。

「……じゃ、また次の授業でな」

 先生はそれだけ言うと、またいつもの「みんなの先生」の顔に戻って歩いていった。

(……ずるい。本当にずるい人)

「俺が悲しい」なんて、そんなの、ただの教え子に向かって言う言葉じゃない。でも先生は、それを「大人の余裕」でやってのけてしまう。

 あんなに素敵な人なんだから、そりゃあ奥さんだって惚れるよね……ていうか一体何人の女の人を泣かせてきたんだろうか




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