第19章 擦り切れた心と一筋の光
「…ただいま」
「香苗、おそいぞ。ちゃんと勉強しているのか?」
「してるよ、お父さん戻ってきてたんだ」
「まあな、お前何で俺と違って要領が悪いんだろうな、ほんとに」
「お父さん、香苗は別に可愛くもなくて頭も良くないどうしようもない女の子だって言っちゃダメじゃない」
「俺はそこまで言ってないぞ、って聞いてるのか香苗」
父親が単身赴任から帰ってきてしまった。敵が3人になってしまった。もうあんなに自分の存在を否定する家になんていたくない。もうこんな家いたくない
「……はぁ、はぁ……っ」
思わず家を出てしまった。そして、冷たい夜風が、涙で濡れた頬を刺す。足元のサンダルがパタパタと情けない音を立てるけれど、どこへ向かえばいいのかも分からない。ただ、あの家から、あの息の詰まる空気から、一秒でも早く遠ざかりたかった。
走って、走って、ようやく辿り着いた公園のベンチ。
そこで座り込んだ瞬間、張り詰めていた何かが音を立てて砕けた。
「……もう、疲れちゃったな……」
夜の公園、街灯の下。香苗はベンチに座り込み、力なく呟いた。視界の端には、あの日見てしまった光景が何度もフラッシュバックする。
図書室で、あんなに綺麗に重なっていた、花沢くんとマネージャーの影。
(……私、何に期待してたんだろう)
家では、相変わらず家族の勝手な事情に振り回され、休まる暇もない。唯一の心の拠り所だと思っていた花沢くんは、もう私の知らない誰かのものになってしまった。
勉強して、良い大学に行けば、この地獄から抜け出せる。そう信じて必死にペンを動かしてきたけれど、もう指一本動かす気力も残っていない。
「……っ、ふ……っ」
堪えていた涙が、膝の上にポタポタと落ちる。
「……ったく。そんなに泣いたら、明日目が腫れて大変なことになるぞ」
「え……?」
顔を上げると、そこには先生が立っていた。驚く香苗の隣に、先生は「よっこらしょ」と少し崩した動作で腰を下ろす。
「せん、せい……なんで……」
「……たまたま通りかかったんだよ。そしたら、教え子が捨てられた子猫みたいに震えてるのが見えてな。放っておけるわけないだろ?」
先生は困ったように笑うと、コンビニの袋から温かいココアを取り出し、香苗の冷え切った手に握らせた。
「ほら、これ飲んで落ち着け。あったまるぞ」
「……っ、すみませ、ん……。私、こんな、みっともないところ……」
「みっともなくなんてない。佐倉、お前、ずっと一人で頑張りすぎてたんだよ」
先生の手が、香苗の頭を優しく、大きな包容力でポンポンと叩く。花沢くんの焦燥感に満ちた熱とは違う、安定した大人の体温。そのリズムがあまりに心地よくて、香苗はまた涙が溢れ出した。
「もう……疲れちゃいました。私、家にいたくないし、それにもう」
「……」
先生は私の頭を、さりげなく自分の肩に引き寄せた。
驚いて体を強張らせる香苗に、先生はどこまでも優しい声で囁く。
「理由なんて聞かないし、無理に笑えとも言わない。ただ、泣き止むまで隣にいてやるから。」
「……先生……っ」
香苗は先生のシャツに顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。ふんわりと漂う、先生の匂い。先生は、泣きじゃくる香苗の背中を、先生一定のリズムでさすり続けてくれた。
どれくらいの時間が経っただろうか。ようやく香苗の呼吸が整い、鼻をすする音が静かな夜の公園に響く。
「……少しは、落ち着いたか?」
先生が顔を覗き込み、いたずらっぽく笑う。香苗は真っ赤になった顔を伏せ、小さく頷いた。
「すみません……先生の服、汚れちゃいましたよね……」
「気にするな。洗えば済むことだ。それより、少しは顔色が良くなったな」
先生はベンチから立ち上がると、香苗に向かって大きな手を差し出した。
「さて、そろそろ行くか、お前をこんな暗い場所にいつまでも置いておいたら、俺が他の先生たちに怒られちまう」
香苗はその手を取り、ゆっくりと立ち上がる。足元がまだ少しふらついたが、先生の大きな手がしっかりと支えてくれた。
「……歩けるか?」
「はい。……ありがとうございます、先生」
「礼なんていいよ。……お前の頑張りを見てる人は見てる。だから、あんまり自分を追い詰めるな」
先生は自分の車の助手席を開け、香苗を優しく促した。車内は温かく、先生がいつも纏っているのと同じ、落ち着く香りが満ちている。
エンジンが静かにかかり、車がゆっくりと動き出した。窓の外を流れる夜の街を見つめながら、香苗は不思議な安堵感に包まれていた。さっきまでの絶望が、先生の温もりに溶かされていくような、そんな感覚。
「……今日はこのまま、真っ直ぐ帰ってゆっくり休め」
信号待ちで止まったとき、先生がハンドルを握ったまま、ふと香苗の方を向いて穏やかに微笑んだ。
「とりあえず、家まで送るよ。……お前の家の前まで、ちゃんと見届けてやるからさ」
その言葉は、今の香苗にとって何よりも心強い約束だった。自分が一人ではないこと。誰かが、自分の帰り道を守ってくれていること。
「……はい。お願いします」
香苗は小さく答え、座席に深く体を預けた。




