第17章 不穏な空気
前までは、朝起きるのちょっと楽しみになってたのに、最近は全く楽しみじゃなくなった。
「香苗あんた私のお金取った?」
「え、取ってるわけないじゃん、」
「そう?お姉ちゃんがあんたが取ったんじゃない?っていうからさ」
「…お姉ちゃんばっかり信じてさ」
「なんか言った?」
「ううん、なんでもないよ、行ってくる」
お母さんは別にそこまで私のことをを邪険に扱ったりしない。けど、お姉ちゃんの言葉の方を絶対に信じる。朝から泥棒扱いされてたまったもんじゃない。
「……ねえ香苗、最近さ。花沢くんとあんまり関わらなくなったよね?」
休み時間、ゆかりから投げかけられた無邪気な言葉に、心臓が跳ねた。
「あ……うん。色々あって……」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
「何があったか知らないけど話聞いて欲しかったら聞くからね」
LINEの通知が鳴るたびに、心臓が痛いくらいに脈打って、でもその画面に『花沢』の名前がないことに、安堵と絶望を同時に感じる毎日。彼のことなんて考えちゃダメだ。そう自分に言い聞かせて、私は逃げるように体育館へ向かった。
「……っ、あ」
体育の授業、バスケットボール。運動が苦手な私にとって、この時間は苦痛でしかなかった。ゆかりは割とそこそこなんでも出来ちゃうから私の気持ちなんてわからないんだろうなあ、頑張って取ろうとしてもバウンドしたボールは、私の手から嘲笑うように逃げていった。
「どんまい、香苗!」
「次、行こう!」
周りの明るい声が、今の私には鋭いナイフのように突き刺さる。パスも出せない。シュートなんて、届くはずもない。コートの隅で立ち尽くす私は、まるで場違いな異物のようだった。
「——っし!」
隣のコートから、短く鋭い声が響いた。思わず視線を向けると、そこにはコートを支配する端正な顔立ちの花沢くんと面白いけど真面目な時はちゃんと真面目な田中くんだ。彼らは軽やかなステップで相手を抜き去り、美しいフォームで跳躍した。放たれたボールは、綺麗な放物線を描いて、吸い込まれるようにゴールネットを揺らす。ほとんど2人によってゴールが決められて行く。
バシュッ、という乾いた音が、静まり返った私の心に重く響いた。
「すげぇ! 花沢、今日キレッキレだな!」
「さすがバスケ部出身、格が違うわ」
「花沢くん、かっこいい!こっちみて!」
男子たちの感嘆の声。女子たちの熱い視線。コートの中心で、少しだけ荒い息をつきながら、花沢くんは額の汗を拭った。
その姿はあまりにも眩しくて、圧倒的で……。
「おいおい、俺だって同じくらいゴール決めてるのにおかしだろうがよ、こんの花沢!」
「いてて、やめろって」
2人で戯れあっている。こうやって戯れあっているとまたこれはこれで萌えてしまう女の子も多いんだよね、
「佐倉、潮谷さっきのどうだったよ?」
「あんたスタイルいいから様になってたわよ、」
「ありがとう、潮谷ー!佐倉は?」
「うんあんたどんどん上手くなっててあたしは感動したよ」
「おばさん臭えなお前、ほんと」
そう言って頭をガシガシしてきた。こいつはいいやつなんだけど誰に対してもボディータッチが多すぎるというか距離感がおかしいんだよなあ、
「おい田中」
片付けを終えたであろう花沢が私の頭に乗っていた田中の手を取った。汗が額を流れていてお腹が少し見えていてこれはなんていうか、少し、うん。
「お、花沢終わったのか?じゃあいくか!」
「おう、」
「じゃあな、お前ら!おれのかっこいいとこまた見せてやるからなあ」
去って行く2人に次々と女子たちがタオルを渡して行く。なんて眩しいんだ。
(……あんなに、すごい人だったんだ)
今まで、当たり前に隣を歩いていた人。ノートの貸し借りをしたり、勉強の合間に笑い合ったりしていた人。
あんなに輝いている人に、そもそも私が普通に話しかけられていたこと自体が、おかしかったんだ。
住む世界が、最初から違っていたんだ一度離れてみて、ようやく気づいた。私が触れようとしていた背中は、手を伸ばせば届くような距離にはなかったんだ。視界が、じわりと滲む。「不穏な空気」が、音もなく私の足元から這い上がってくるのを感じた。




